第506話 勉強開始の前に

 健太郎と千佳さん、そして杏子姉ぇと別れ、俺は綾奈と一緒に綾奈の家へと上がった。

「「ただいまー」」

「おかえり綾奈、真人君」

 俺たちが帰ってきたら、明奈さんが優しく迎えてくれる。ここに来るといつもだ。

 そして俺は、学校帰りとかにここに来たときに「ただいま」と言うのがすっかり慣れてしまった。先月までは慣れてなかったのになぁ。それだけこの家に頻繁に来てるってことだな。

「あとでココアを持っていくわね」

「ありがとうお母さん」

「ありがとうございます明奈さん。いつもすみません」

「いいのよ気にしないで」

 明奈さんは笑顔で手をひらひらと振っているので、俺は会釈してからうがいと手洗いを済ませて、綾奈の部屋へ入った。

 そして部屋に入ってさっそくイチャイチャ……はしなくて、ローテーブルのそばに二人で腰を下ろし、筆記用具と勉強する教科の本とノートを取り出す。

「真人はどの教科をするの?」

「やっぱり数学か英語のどっちかだけど……今日は英語にする」

「以前も苦手って言ってたよね。成績が上がってもやっぱり?」

「うん……」

 成績が上がったとはいえ、数学と英語はやっぱり苦手だ。二学期末はこの二教科を重点的に、めちゃくちゃ問題を解きまくって数式や文法を頭に叩き込んだのだ。

 そんな二大苦手科目……わからないところがあれば、高崎高校学年一位の俺のお嫁さんに聞くことができるので、綾奈と勉強する時はこの二科目を中心にやろうと思ってる。

「だから綾奈にいっぱい聞いちゃうと思うけど、いい?」

「もちろんだよ! どんどん聞いてね」

「いや、できるだけ自分で解くようにするよ。綾奈に聞くのはマジでわからない時だけで」

 自分で解かないと理解に時間がかかるかもだし、それに質問しまくってたら綾奈の勉強の邪魔になってしまうもんな。

 お互いに助け、支え合っていこうと誓った俺たちだけど、勉強に関しては俺は綾奈の助けになれない。だからせめて、綾奈の勉強の妨げにだけはなりたくないので、限界まで自分で考えるんだ。

「わかったよ……。でもあまり一人で考えすぎるとさらにこんがらがっちゃう時もあるから、遠慮しないで私を頼ってね。真人に頼られるの、すっごい嬉しいから」

「っ!」

 これから勉強ってときに、そんな嬉しい言葉と、可愛すぎる笑顔を見せられると、勉強が終わるまで封印しておこうと決めた思いが簡単に出てきてしまった。

 だから、ちょっとだけなら……いいよな?

「……ねえ、綾奈」

「なぁに? 真人」

 綾奈の頬が赤い。きっと次に俺が言おうとしている言葉がわかってるのかもしれない。

「その……勉強前にさ、一回だけ……キス、したい」

「……いいよ」

 それだけ言うと、綾奈は目を瞑り顎を少しだけ上げ、その瑞々しい唇を少しだけ開けた。『いつでもどうぞ』と言っているみたいだ。

 俺は一度ゴクリと唾を飲みこみ、床についている綾奈の手にそっと自分の手を重ねる。

「あ……」

 綾奈から色っぽい声が漏れ、頬の赤みが増した。

 可愛くも艶かしい声に、俺の心拍数が上がる。

 ドッ、ドッ、ドッと、自分の心臓の音を聞きながら、ゆっくりと顔を綾奈に近づけ、そして───


 コンコンッ、ガチャ!

「二人ともお待たせー……って、あら?」


「「あ……」」

 キスをしようとした瞬間、明奈さんがココアを持って部屋のドアを開けた。

 当然ながら、俺たちがキスをする直前なのも見られてしまった。

 ノックしてすぐに開けられたから、距離を取る暇がなかった。

「うふふ。お邪魔だったみたいね」

 そうにこにこしながら言った明奈さんは部屋に入って、ココアが入ったマグカップをローテーブルに置いて部屋の外へ。そして……。

「それじゃあ、ごゆっくり。勉強もしっかりするのよ」

 それだけ言ってドアを閉めた。

「「……」」

 俺たちは向かい合ったまま動けずにいた。

 綾奈さん、耳まで真っ赤になっています。

 自分の親に、自分がキスをしようとしている瞬間を見られてしまったんだ。そりゃ恥ずかしいよな。

 俺も……綾奈ほどじゃないと思うけどやっぱり恥ずかしい。

 明奈さんがここに来るってこと、すっかり忘れていたなぁ……。

「あ、綾奈! 勉強の前に着替えなよ。俺、麻里姉ぇの部屋に行ってるから!」

「あ……う、うん」

 俺は立ち上がると、そのまま麻里姉ぇの部屋へと入った。俺が先月ここを使わせてもらってからほとんど変わってない。

 この真っ白な部屋を見て煩悩を追っ払おう。

 邪な考えは捨て、テスト勉強に集中するんだ。

 俺は無心になり、ただひたすら素数を数えて心を落ち着けさせていた。

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