第370話 杏子が帰ってきた理由

「ねえねえキョーちゃん。どうして急に芸能活動を休止にしたの?」

 おやつ時を過ぎ、ドゥー・ボヌールのお客さんもまばらになった頃、茜が杏子姉ぇにした質問は、ここにいるみんなが気になっていたことだった。

 あまり大っぴらに出来ない話なので、茜も声のトーンを落として聞いた。

 杏子姉ぇは現在、超がつくほど人気のの売れっ子若手女優だ。

 三学期が始まり、杏子姉ぇと再会したあと、俺はネットで杏子姉ぇの活躍について色々ネットで調べたのだが、杏子姉ぇってマジで忙しくしていたんだよ。

 再恋の主演もだし、CMも去年だけでむっつの企業からオファーされて出てたし、雑誌の表紙も何度もかざって、学業も入れたら、マジで休みが月一回もないんじゃないかってくらいハードスケジュールなのが、芸能界を全く知らない俺でもわかるほどの売れっ子ぶりだ。

 そんな杏子姉ぇがなぜこのタイミングで芸能活動を休止したのかは、もちろん俺も気になっていたんだけど、なんとなく聞いたらダメなやつなのかなと思って聞けずにいた。

「私が芸能活動を休止した理由?」

「うん。私も何度か聞こうと思ったんだけど、学校では絶対に誰かがキョーちゃんに話しかけていて、タイミングなかったかし、その人たちが聞いてもはぐらかしていたから、聞いたらダメかもって思ったんだけど……」

「ん~……別に大した理由ではないんだけど、テレビや雑誌でしか私を知らない人に言って、不特定多数に吹聴されるのが面倒だったから言わなかっただけだよー」

 杏子姉ぇはカップに入った飲み物をスプーンでカラカラとかき混ぜながら言った。

 杏子姉ぇの言いたいことはわかる。

 誰かに言っちゃうと、それが一人歩きしてしまって、気がついたら自分の全く知らない人にまでそれが伝わってしまうってのもあるだろう。

 ましてや人気者の杏子姉ぇのものとなると、瞬く間に広まってしまって、不躾な質問が嵐のように襲ってきかねない。

「でもまあ、みんなになら話すよ。親友もいるし、いとこ二人と将来本当にいとこになる女の子。それにあかねっちたちが信頼を置いているみんななら言いふらしたりしないだろうし」

「もちろんだよ! ね、みんな?」

 茜の言葉に、俺たちは全員首を縦に振った。

「安心してよ杏子姉ぇ。俺たちは面白半分で杏子姉ぇのことを言いふらしたりはしない。ここにいるのは、みんな友達やいとこを大切に思う奴らばっかりだからね」

「マサ……みんなも、ありがとう」

 杏子姉ぇのお礼に、俺たちはみんな笑顔になった。いよいよ杏子姉ぇが芸能活動を休止した理由が聞けるんだ。

 大した理由ではないと言っていたけど、それでもやっぱり気になるから、杏子姉ぇの口から語られるのを、俺たちはドキドキしながら待っていた。そして……。

「私がこっちに帰ってきた理由は───」

「みんないらっしゃい。うわっ! マジで氷見杏子ちゃんがいるじゃん!」

 杏子姉ぇが喋りはじめたその時、俺たちに声をかけ、杏子姉ぇがいることに驚いた男性の声が聞こえた。

 俺たちは全員、その声がした方を向くと、そこにいたのは杏子姉ぇの存在に目をキラキラと輝かせているイケメン……千佳さんのお兄さんの宮原拓斗さんだった。

「アニキ……」

 千佳さんはそんなお兄さんを見て、額に指を置き嘆息していた。

「千佳。お前俺が杏子ちゃんのファンなの知ってるだろ? あの……よろしければサインを───」

「たくと~? あなたこんなところでサボって何やってるの?」

「!!」

 拓斗さんが杏子姉ぇにサインを貰おうとしたその時、拓斗さんの後ろから、拓斗さんの肩に女性の手が置かれた。このめちゃくちゃ綺麗だけど、少し怒りの色が入った声は麻里姉ぇしかいない。

 麻里姉ぇを見ると、さっきのスーツからこの店の制服に着替えていた。

「ま、麻里奈さん……」

 拓斗さんの顔がみるみる青ざめていく。

「みんな大事な話をしてるんだから、サボってないで厨房に戻るわよ」

「あ、あぁ~……待ってください麻里奈さん! せめてサインだけでも~……」

 拓斗さんは麻里姉ぇにずるずると引きずられて厨房に消えていった。

 拓斗さんって、出てくるタイミングが悪いんだよなぁ。

 可哀想だから、あとで俺からサインを頼んでおこう。

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