第310話 同居の予行練習

母さんからの電話から少し経過した頃。

俺は自室の床に正座していた。

綾奈と今夜二人きり……俺の頭の中では、そのことばかりが縦横無尽に駆け巡っていた。

誕生日のご褒美的には非常に嬉しい展開なのだが、全く予想していなかったので、どうすればいいのかわからない。

階段から足音が聞こえる。どうやら綾奈がこの部屋に来ているようだ。ちょっと遅かったな。

綾奈は一人でリビングに入り、飲み物を作っていた。その綾奈が俺の部屋に近づいてきている。

綾奈の足音が大きくなるにつれ、俺の心臓の鼓動も大きくなっていく。

綾奈だってこの状況に内心ドキドキしているはずだ。多分この部屋に入ってきたら顔を真っ赤にして───

「真人おまたせー」

「……」

あれ? いつも通りの綾奈だ。緊張しているようには見えない。

俺はてっきり、『ま、ましゃと。お、おまたせっ!』って言って、危なっかしくトレイを持ってくるんじゃないかって想像していた。

綾奈はトレイをゆっくりとローテーブルに置いた。

「はい。ココアだよ」

「あ、ありがとう綾奈」

綾奈はココアを俺のそばに置き、それから俺の右隣に座った。俺の腕に綾奈の腕がくっついている。

「? どうして正座をしてるの?」

「いや、その、なんというか……」

やっぱり正座をしているのは気になるよな。

だけど俺は、咄嗟に言葉が出てこなくて、上手い言い訳も思いつかなかった。

「その、綾奈と一晩二人きりって思うと、緊張して……」

これ以上考えても、上手い言い訳が思いつかなかった俺は、本当のことを言った。

「真人も?」

「え? 俺もってことは……」

「うん。実は……私も」

「マジで? 全然そんなふうには見えないけど」

普通に平常心かと思った。

「リビングで心を落ち着けてきたんだけど、真人の隣に座ったらやっぱり緊張してきちゃった」

だからこの部屋に来るのが少し遅かったのか。

実家暮らしの彼氏の家(高校生だからほとんどそうだと思うが)にお泊まりに来て、まさか家族全員がいない日が来るなんて、多少は予想していたとしても本当にあるとはまず思わないだろう。

現に今、綾奈は俺の部屋をキョロキョロしたり、座り方を変えたりモゾモゾと動いている。

いつもは心地いいはずの沈黙も、この時ばかりはなんか気まずい。

俺がいつまでも緊張してたらダメだよな。

こういうときこそ、綾奈の緊張を取り除いてあげないとな。

俺は一度深呼吸をして心を落ち着かせ、その深呼吸のあいだに、何を言おうか必死で考えた。

「ねぇ、綾奈」

俺が呼ぶと、綾奈の身体がビクッと跳ねた。

「な、なぁに真人?」

俺は少しでも綾奈の緊張をほぐそうと思い、いつもより優しく綾奈の頭を撫でた。

「今の俺が言っても説得力がないかもだけど、落ち着いて考えようよ」

半分は自分に向けて言った。

「考える?」

「うん。確かにこの状況は予想してなかったけどさ、将来の予行練習だと考えようよ」

「え?」

「俺たちはいずれ、こうやって二人きりで一緒に生活する時が必ず来る。だから、その未来に備えて今から同居生活の予行練習だと思えば、緊張は軽くなるかなって思ったんだけど……」

今日の経験があったとしても実際に同居がスタートすれば、緊張したりテンパったりするだろう。

だけど、一晩だけとはいえ体験しておけば、必ず今日のことが役に立つはずだ。

具体的にはと言われれば言葉に詰まってしまうけど……こ、心構えとか?

「体験、かぁ……」

俺の言ったことを綾奈なりに理解しようとしているのか、綾奈は下を向き、何かを考えながらそう呟いた。

それから少しして、綾奈は顔を上げて俺を見てきた。その顔は笑っていた。

「そうだね。いつまでも緊張してたら勿体ないしね。良子さんたちには少し申し訳ないけど、真人と二人きりのこの時間を楽しむことにする」

「だね。母さんたちも、俺たちが緊張しすぎて気まずい時間を過ごすのなんて望んでないだろうし」

「うん。というわけで───」

そこで言葉を一度区切り、綾奈は自分の頭を俺の肩に乗せた。

「今日一晩、よろしくお願いします。旦那様」

俺はその一言にドキリとしながら、綾奈の頭に自分の頭を軽く乗せた。

「こちらこそ。よろしくね綾奈」

そのあとは、夕食を作る時間になるまでまったり、そしてイチャイチャして過ごした。

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