第264話 あなたでよかった

「ふぅ」

 横水君が見えなくなった頃、俺は大きく息を吐き出した。思っていたよりも気を張っていたみたいだ。

「真人、ごめんね。それから、ありがとう」

「いいって。四人が本気の喧嘩をしなくて本当に良かった」

 聞こえてきた会話から、本当に一触即発の空気だったもんな。

「お兄ちゃん、ありがとう。あのままだったら、私は横水とずっと気まずい関係になってたと思う」

「私も。真人お兄ちゃん、本当にありがとう」

「気にすんなって」

 これでこの二人も楽しく学校生活を送れるだろう。

「しかし、綾奈が中村の時みたく横水君に手を出す前に止められて良かった」

 もし後輩があの時のビンタを食らってたかと思うと……散々言った横水君が悪いが、想像すると彼に同情してしまう。

「あぅ……た、確かに引っぱたきそうになったけど、今回は手を払っただけだよ!」

 ビンタしそうになってたのかよ。止められてマジで良かった。

「え!? お義姉ちゃん、中村先輩を引っぱたいたの!?」

 そういや美奈には話してなかったな。

「中村先輩って、あの生徒会長だった中村先輩だよね? 綾奈さん、なんで引っぱたいたんですか?」

 そして茉子は中村の本性を知らないんだよな。

 美奈は、茉子に中村圭介の本性を喋った。それを聞いた茉子は本気で驚いていた。

「そうだったの!? 以前話しかけられた時は全然そんな感じしなかったのに」

 茉子から聞き捨てならない言葉が飛んできた。

「茉子、中村に声をかけられたことがあるのか!?」

「う、うん。すごく爽やかにデートに誘われたよ。もちろん断ったけど、あの時断って本当に良かった」

「茉子が中村の魔の手に引っかからなくて本当に安心したよ」

 茉子が中村の誘いを断ったのって、やっぱり……。

「え~お兄ちゃん。マコちゃんが中村先輩のものにならなかったの嬉しいの~?」

「言い方。……まぁ、そうだな。中村の餌食にならなくて心底ホッとしたよ」

「真人お兄ちゃん……」

 茉子が頬を赤らめて俺を見てくる。ちょっと茉子の顔を見れない。

「あれ? お義姉ちゃんが「むぅ」って言わない」

 美奈は少し頬を膨らませた。それは綾奈の真似か? ちょっと似てるな。

「もうマコちゃんには嫉妬しないよ」

「え~」

 美奈が面白くなさげな声を出した。煽り甲斐がないのだろう。なくていいけど。

 けど、綾奈の茉子への信頼、とでもいうのかな? それがとても厚い気がする。まだ出会って三日目だというのに……。

「美奈。あまり綾奈をからかおうとしない」

「はぁ~い」

「それから、横水君に言ってくれた言葉……嬉しかったよ。ありがとうな、美奈」

 そう言って、俺は美奈の頭を撫でた。

「んふ~。お兄ちゃんは私の自慢だもん」

 中学三年の時の評価は今の真逆だったのにな。妹にこれだけ慕われるようになって嬉しい。

「綾奈もありがとう。中村の時といい今回といい。俺のために怒ってくれて。俺も、綾奈の隣に立って、綾奈が笑われない男になるよ」

「だ、旦那様を悪く言われて怒らない人なんていないよ。それから、真人は今のままでも十分魅力的だもん。笑われることなんて絶対ないよ……えへへ」

 綾奈の頭も撫でたのだが、ふにゃっとした嬉しそうな笑顔を見せてくれた。その表情を見て、俺の顔は熱くなった。

 それからもう少し綾奈の頭を撫で、手を離した俺は茉子を見た。

「茉子」

「う、うん」

「茉子もありがとう。……それから、ごめんな」

「え? ごめんって……?」

「その、茉子の気持ちに、気づいてあげられなくて」

「気持ちって……えっ!?」

 茉子は心底驚いた表情をした。

「……聞こえてたの?」

「うん」

「「……」」

 気まずい沈黙が辺りを包み込む。冷たい風が木々を揺らす音だけが聞こえる。

「その、茉子の気持ちも、茉子が横水君に言ってくれた言葉もすごく嬉しかった。その、こんなこと言うのは間違ってるかもしれないんだけど……」

「う、うん」

 茉子の顔が赤い。

 俺の心臓はものすごく早鐘を打っている。

 今から言おうとしているのは、俺の本心だ。でも、もしかしたら茉子を傷付けてしまうかもしれない。叶わない初恋に塩を塗ってしまうかもしれない。

 それでも、長い間、俺なんかを好きになってくれた茉子には言いたかった。

「その、……ありがとう。俺を好きになってくれて」

 俺は、茉子にお礼を言った。どうしても言いたかった。

 茉子の初恋は、俺には叶えてあげられない。

 自意識過剰かもしれないが、俺自身が茉子の封じ込めた気持ちを呼び覚ますマネをしてしまったら、再燃した恋心で苦しむのではないかとも考えた。

 俺は緊張しながら茉子を見ていたのだが、茉子は目を瞑り、口角を上げて首をふるふると横に振った。

「お礼を言うのは私の方だよ。真人お兄ちゃん」

「え?」

「私の初恋が、真人お兄ちゃんで良かった。私の気持ちは実らなかったけど、それでも真人お兄ちゃんに恋したことは、私の自慢なんだよ。だからありがとう、だよ。真人お兄ちゃん」

 茉子は俺ににこっと微笑んだ。

 まだまだあどけない中学二年生のはずなのに、その茉子の笑顔は、今の綾奈に勝るとも劣らないほどの美しさがあった。

「……強いな。茉子は」

「そう思うのは、きっと真人お兄ちゃんのおかげだよ」

「俺の?」

 俺は、特に茉子に何かをしてやった覚えはない。それなのに、どうして俺のおかげなんだろう?

「真人お兄ちゃんを好きになったから……他の人だったら、きっとこんな風には思わなかった。だから、お兄ちゃんが私を強いって思ってくれるのは、全部真人お兄ちゃんのおかげ」

「茉子……」

 俺は、この子にこんなにも慕われていたんだな。

 俺の右隣にいた綾奈が、俺の手を掴んだ。

「綾奈?」

 一体何事かと思ったのだが、綾奈は掴んだ俺の手をゆっくりと両手で持ち上げた。


 そして、茉子の頭の上にそっと俺の手を置いた。

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