第87話 自分ルールその一の消失

 俺は二人分の飲み物が置かれたトレイを持って綾奈と共に二階へ上がり、手が離せない俺の代わりに、綾奈に部屋のドアを開けてもらい、二人して部屋に入り、トレイをローテーブルに置くと、綾奈が抱きついてきた。

「綾奈!?」

 綾奈は俺の腰に手を回し、力強く抱きしめてくる。

「……今日ずっと、こうしたいって思ってた。今朝も、授業中もずっと我慢してて、授業もあまり集中出来なかった」

 そこまで思ってくれていたことに素直に嬉しくなったのと、授業に集中出来なかったと言う言葉に心配もした。

 まぁ、仮に今日学校に行ったとしても、俺も授業に集中出来なかったはずだから人のことは言えない。

「俺も」

 綾奈の耳元で囁くと、俺も綾奈を抱きしめ返した。

 それから三十秒程、抱きしめあっていると、綾奈が顔を上げて俺の目を見てきた。

 いつ見てもとても綺麗な黒の瞳に俺は吸い込まれそうになる。

「真人君」

 綾奈の美しい瞳に意識を集中していると、綾奈が俺の名前を呼んだ。

 その顔は微笑んでいたけど、頬は真っ赤になっていた。

「なに?」

 俺は綾奈の頭を優しく撫でて、口調も優しくして綾奈の次の言葉を待つ。

「……キスして」

「っ!?」

 綾奈からの予想もしてなかった要求に、俺は驚き息を飲んだ。

 どういう事だ?付き合いたての頃はキスするのを怖がっていた綾奈が、さっきは玄関前で自分から二度もキスをし、今もこうして自分から俺のキスを求めている。

 嬉しい申し出ではあるのだけど、今はその疑問の方が強かった。

「何かあった?」

「え?」

「綾奈からそう言ってくれるのは凄く嬉しい。けど、ちょっと前までキスをするの怖いって言ってたから、綾奈に何か心境の変化があったのかなって気になって」

 空気を読めば、綾奈からの要求があったらすぐに肯定してキスをするのが一番なのはわかっている。

 でも、今の俺は自分が先程口にした疑問が先行してしまい、綾奈の心境の変化が知りたい気持ちの方が強かった。

「じ、実は少し前から、キスしてみたいって気持ちはあったの」

「そうなの?」

「うん。もちろん怖さも残ってたけどね。それで、一昨日旅館でキスの話が出て、それがきっかけでキスしたいって気持ちが少しずつ強くなっていって……はっきりとキスをしてみたいと思ったのは昨日なの」

「え?」

「真人君が寝た後、真人君の寝顔を見てると、キスしてみたいって感情がどんどん強くなっていくのがわかって、それでさっき……」

「そっか。話してくれてありがとう」

 俺は綾奈の頭を撫でていた右手を、綾奈の頬に持っていった。

「あ……」

 一瞬びっくりした表情をした綾奈だったけど、すぐに微笑み、それから目を閉じて顎を上に上げた。

 俺はゆっくりと綾奈の顔に自分の顔を近づけていき、そして唇を合わせた。

 初めて俺から綾奈にキスをした。

「ん……」

 キスをした瞬間、綾奈から可愛らしくも艶かしい声が漏れる。

 ただ唇を重ねただけのキス。

 だけど俺の心はなんとも言えない幸福感に溢れ、脳は痺れて機能を低下させていた。

 まだ離したくない、もっと綾奈の唇を味わっていたいと思った俺は、ついばむように綾奈にキスをする。

「っ!……ん、んん!」

 綾奈からまた可愛らしい声が漏れる。

 やがて俺の腰に回していた綾奈の腕が離れ、俺の胸をパンパンと叩き出した。

 軽く叩かれたので痛くはないのだけど、それが何を意味しているのか理解した俺は綾奈から唇を離した。

「ぷはぁ!……ま、真人君、長いよぉ……」

 深く呼吸をして息を整わせる綾奈。というか、もしかして……。

「綾奈?まさかとは思うけど、キスの間、息を止めてた?」

「え?……う、うん」

「鼻で呼吸はしようと思わなかったの?」

「鼻?…………あ」

 どうやら本当に念頭になかったようだ。

 綾奈の反応に俺が苦笑していると、それを見た綾奈は頬を膨らませた。

「むぅ……そんな余裕なかったんだもん」

「ごめんごめん」

 俺は綾奈の頭を優しく撫でた。

「じゃあ、鼻で呼吸するのもわかったところで……もう一回する?」

「へっ!?……えっと、その…………は、はい」

 俺からの提案を聞いた綾奈は、頬を赤くし、慌てた様子でキョロキョロと視線を泳がせた後下を向いて肯定してくれた。

「じゃあ……綾奈」

「……はい」

 綾奈の名前を呼ぶと、綾奈は顔を上げてくれたので、ゆっくりと顔を近づけていき再度俺からキスをした。

 俺の頭の中には、キスをしないという自分ルールはもうどこにも存在していなかった。

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