第52話 満員電車で急接近

 電車に乗車した俺たちは、現在帰宅ラッシュのただ中にいた。

 部活がある日は帰宅ラッシュの電車に乗ることもしばしばあるのだけど、今日はいつにも増して乗客が多い。

 このすし詰め状態と言える電車内で、何とか綾奈さんをドアのそばに移動させて、俺は綾奈さんが乗客の波に押しつぶされないように、ドアに手をつけた状態で綾奈さんの正面に立っている。

 所謂壁ドン状態だ。

 綾奈さんが頬を赤くして、上目遣いで俺の顔を見てくる。

 普段ならその表情に照れてしまうのだけど、この密集状態で電車が揺れる度に、そばにいる人達の圧が俺の背中に集中して、気を抜けば綾奈さんもろともに押しつぶされてしまう危険があるため、そんな余裕はなかった。

 一つ目の駅は通過したので、残り後二駅。

 この状態が後二駅も続くと思うとかなりキツいが、目の前の大切な人を押しつぶしてしまわないように何とか堪えようとした。だけど……。

「真人君、無理しないでいいよ」

 そう言うと綾奈さんは、俺の腰に自分の両手を回し、俺の身体を自分へと引き寄せた。

「っ!」

 綾奈さんはほとんど力は入れていなかったけど、俺の身体は驚くほど簡単に綾奈さんへと引き寄せられた。

 疲れていたからなのか、それとも綾奈さんとくっつきたかったからなのかはわからない。

 綾奈さんに引き寄せられた俺は、肘で壁ドンをしている状態だ。

 綾奈さんの髪から香るいい匂いが、綾奈さんの決して小さくない胸の感触が、俺の思考を停止させる。

 綾奈さんが顔を上げたことで、その綺麗で可愛すぎる顔がもの凄く近くにある。

 鼻と鼻がくっつきそうな程近い。

 おれの視線は綾奈さんの目から、唇へと移動する。

 綺麗なピンク色で凄く柔らかそうな唇。

 俺はそんな唇を見て、思わず生唾を飲み込んだ。

 顔を少しだけ下に動かせばキスが出来てしまう距離。

 そんなシチュエーションに、俺は綾奈さんとキスをしたいという衝動に駆られる。

 一年間想い続けて、昨日告白して付き合いだした大好きな人。

 自分とほぼ同じ時期から俺に好意を寄せてくれていた人と、キスをしたいというのは当然の欲求だと思う。

 綾奈さんの目に視線を戻すと、綾奈さんは目を大きく見開いている。

 頬も真っ赤になっていて、自分が引き寄せたけど予想以上に密着して、更に俺の顔が間近にあることでそうなっているのだろうか。

 綾奈さんの視線が俺の目から少し下がり、恐らくだが俺の唇を見ているのだろう。

 緊張しすぎてカッサカサになった俺の唇なんか見ても面白くないだろうに。

 それから綾奈さんは更に頬を赤くして視線を俺の目へと戻した。

 お互いの視線が絡み合って、お互いの吐いた息も感じられる。

 綾奈さんが至近距離で俺に微笑んでくれる。

 綾奈さんも俺とキスしたいと思ってくれているのだろうか?

 そんなことを思っていると、綾奈さんは下を向いてそのまま俺の胸へと顔を埋めた。綾奈さんの手は変わらず俺の腰にある。

 そりゃそうか。こんな所でキスなんか出来るわけがない。

 こんな公衆の面前でキスなんてしたらムードもへったくれもないもんな。

 それに、ファーストキスだから、するならもっとロマンチックなシチュエーションでしたい。

 そんな劣情を抱いてしまった俺は内心で綾奈さんに謝罪をした。

 目線を下に持っていくと、綾奈さんの頭頂部がすぐ近くにあった。

 綾奈さんの髪から香る良い匂いが更に強く香ってくる。

 それにしても綾奈さんの髪、綺麗だよな。

 絹のように美しい黒髪で、とてもさらさらで、指通りも滑らかそうな髪だ。

「…………」

 俺は綾奈さんの頭を撫でたい衝動にかられ、それが自分の理性と必死に戦っていたが、今回は衝動に軍配が上がり、あいている左手をそっと綾奈さんの頭に置いた。

「……!」

 すると綾奈さんの肩がビクッと跳ねた。

 やっぱり突然頭を触られたら嫌だよな。

 俺が綾奈さんの頭から手を離すと、綾奈さんは顔を上げ俺の顔を見る。

 なんかビックリしてるというよりも、しょんぼりした表情を俺に向けてくる。

「ごめん、嫌だったよね」

 俺が謝罪をすると、綾奈さんはふるふると首を横に振った。

「い、いきなりでびっくりしただけで……その、もっと撫でてほしい……です」

 顔を赤らめてそう言うと、綾奈さんは再び俺の胸へ顔を埋めた。

 大好きな彼女にそんな事を言われ、俺の心臓はうるさいくらい高鳴っている。

 これ、絶対綾奈さんに聞こえるやつだ。

 そんな事を思いながら、俺は再び綾奈さんの頭に手を伸ばした。

「……ん」

 綾奈さんはまた少し肩をビクッとさせて、それと同時に艶かしい声を出して、頭を撫でているだけなのに、変な気分になってきた。

 頭を撫で始めてから少しして、綾奈さんはまた頭を上げて俺の顔を見る。

「……えへへ」

 綾奈さんは頬を赤らめながら、俺に目をトロンさせた笑みを向けてきた。

 そしてまた俺の胸へ、今度は頭ではなく頬を擦り付けてきた。

 校門で俺に駆け寄ってきて手を握ってきた時は犬みたいだと思っていたけど、今の一連の動作は甘えてくる猫を彷彿とさせた。

 こんな可愛い女の子が俺を心から好いてくれている。

 そんな幸せを噛み締めながら、俺は降りる駅に到着するまで綾奈さんの頭を撫で続けた。



 真人君の手、やっぱり大きいな

 私と真人君は今、自宅に帰る為、電車に揺られている。

 辺りはすっかり暗くなっていて、仕事帰りのサラリーマンや、部活終わりの学生達で、車内はぎゅうぎゅうになっている。

 今、私は真人君の胸に自分の頬を付けていて、真人君に頭を撫でられている。

 真人君に撫でられるの……凄く気持ちいい。

 大切な物を扱うように優しく撫でられていると、真人君も私のことが好きなんだなと改めて実感出来る。

 真人君の心臓の音が大きくて凄く早い。真人君もドキドキしてくれているんだ。

 そう思うと彼への愛しさがまた込み上げてくる。

 告白されて、私からも告白して付き合ったのはつい昨日のことなのに、それなのに昨日より比べものにならないくらい真人君のことが愛おしくてたまらない。

 それにさっき、お互いの鼻が付きそうなくらい真人君の顔が近かった。

 真人君が帰宅ラッシュの人混みに押しつぶされないように私を守ってくれていて、でもやっぱりキツそうにしていたから真人君の腰に手を回して、真人君を引き寄せたんだけど、思った以上に密着しちゃった。

 少し顔を動かしたら……キ、キス出来そうな、そんな距離で見つめ合っていると、真人君の視線が私の唇に動いた。

 ドキドキして視線を動かしていたら、私も真人君の唇を見てしまって更にドキドキしてしまった。

 真人君は、私とキス、したいのかな?

 私は……正直よくわからない。

 でも、もし真人君がキスしたいって思ってたら、私は……。

 私は真人君に撫でられながら、そんなことを考えていた。

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