夏服

 すっかり夏服が馴染んだ暑い日。


 学校に戻ってきたさざ波さんは、まず海南に心配させた事を謝り、そして自分が悪さをして家から出して貰えなかったと打ち明けてくれた。こんな優しいさざ波さんでも悪さするのかなと海南は疑問に思う。けれど、若気の至りや物の弾みということもあるだろうし、さざ波さんの言うことを素直に受け入れるべきだとも考えた。


 やっとさざ波さんとの平和な毎日が戻って来る筈だったのに、嫌な噂話が再会の喜びを邪魔する。


「ちょっと前にここら辺で、女の人が男に乱暴される事件があったらしいよ…」

「ちょ、怖ー。校門過ぎたらさっさと電車に乗らなきゃだねー」

「なんか、美月の夜だっけ。その夜に出歩いてたから仕方ないって」

「そんなの犯人が全部悪いに決まってんじゃん」


 この土地の人間なら誰でも知っている掟がある。


 女は

『美月の夜には表へ出るな。凪の朝には海を見るな』

 男は

『美月の夜には酒を呑むな。凪の朝には船を出すな』


 と言い伝えられていて、皆ちゃんと守っている筈だ。

 ところが、海南は血の気の引く思いをしていた。


(この前、夢遊病になった日って美月の夜だったはず)


 この土地に長く住んでいるのに、美月のことをそんなに詳しく知らないし、掟の意味もわからない。ただその文言に従ってきただけだ。


「どうしたの。表情が固いよ」

ひとり考え込む海南に、さざ波さんはそっと声をかけてくれた。


「あのね、すごく悩んでることがあって」

 さざ波さんは真剣な面持ちで話を聞いている。海南は、本当にさざ波さんとは唯一無二の仲だと改めて思った。そして、ちゃんと真剣に相談に乗ってもらおうと決心した。


「放課後いつもの場所で。悩みを聞いて貰いたいんだ」

 さざ波さんはただこくりと頭を縦に振って、海南の思いを受け入れた。


 もう夏真っ盛りで陽が高く、こんな時間には夕焼けは望めない。蝉の鳴く声と、ジリジリ照りつける太陽が全身を怠くさせる。いつもの場所、小屋の側には新しい漁具が放置されていた。


「聞いて」

 海南はさざ波さんに、今まであったこと、悩みを洗いざらい吐き出した。さざ波さんは静かに話を聴いて、時に相槌を打ちながら一緒に悩む努力をしてくれた。


 話が終わりに差し掛かり、無言が何秒も続くようになった。すると突然さざ波さんが海南の左手をとり

「そう」とだけ言うと、手の甲にキスをした。そしてそのままテロテロと、海南の肌を舐め始める。さざ波さんの舌先は腕の上部に向けてゆっくりと進み、半袖をめくりながら二の腕までをゆっくりと味わう。

 今度は背後から右手側に回り、首筋の匂いを確かめたあと、袖口から腋下近くを丹念に舐め上げた。


「ちょっと、さざ波さん。それはやらないって約束したでしょう」

 はっと気がついたように、さざ波さんは海南の腕を解き放った。


「なんでなの」

 そんなの、単純に嫌だから。そう答えたかったが、海南はもうさざ波さんの心を傷つけたくなくて、その言葉を飲み込んだ。


けれど、さざ波さんの言葉の意味は、海南の考えていたものと違う意味だった。


「うみなちゃんの味、右と左で違う」

「どういうこと?意味がわからないよ」


「本当のうみなちゃんはどこに行っちゃったの」

「あたし?あたしはここに、さざ波さんの前に居るよ」


 さざ波さんからの立て続けの質問に、海南はイライラして強い言葉を漏らしてしまった。


 出口のない問答が続くのかと思われた。けれど、そのやり取りは呆気なく遮られる。


「あれー。うっしーじゃん」

 声をかけて来たのは、お弁当屋『たからや』の娘であり、海南の中学時代からの親友あす美だった。


「久しぶりにここに来てみたらあ、ねえ。何やってたの?」

 隣にいる女の子と喋る場面を見て、推し測れない様な子だったっけ、と疑問に思う海南。


「あの、この子…」

 あす美にはぜひ、さざ波さんを紹介したい。


 ……なのに振り返るとそこに彼女の姿はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る