とっておきの場所

 初めての登校、初めての制服、初めての友達。


 海南にとってさざ波さんとの出会いは、衝撃的で強烈な印象を残した。既に生徒の見当たらない登校路を二人、ゆっくり進む。剪定された植木で飾られた校門を抜けて校舎までたどり着いた頃には、顔にうっすらと汗が滲んでいた。


 ローファーを上履きに履き替え、説明会で渡されたプリントに書かれた教室に向かう。


「おんなじクラスだねえ」

「ほんと、偶然だね」


 黒板には『左から五番目の列に並ぶように』

と大きな文字で殴り書きがされてあった。先生もまさか初日から、二人も遅刻してくるとは思わなかっただろう。


「とーこーろーでー」


 海南はさざ波さんとの距離を縮めて

「このカツラはヤバいんじゃない?普通に黒髪じゃないと、怒られるよ」と、忠告した。


 フフ。さざ波さんは笑う。

「ウィッグじゃなくてカツラなんだ。引っ張って確かめてみる?」


 その言葉に応じて、海南は軽く銀色の髪を手前に引いてみた。カツラは…取れない。


「わたしこういう髪なの。学校にもちゃんと許可を取ってあるわ」

 もしかして混血か海外の人かも。それで海南は納得することにした。


 講堂の扉をそっと開け、音を立てないように五番目の列の最後尾に並ぶ。それを見た黒いスーツの男性教諭がつかつかと近づいて来たと思ったら、海南の背中を力任せに叩いた。


(いきなり何なの。喝って奴?)

 目が合った。わかってるよな、と言わんがばかりの視線は、海南に早くも失態を自覚させるのに十分な表現だった。先生がやっと目を逸らしてくれたと思ったら、今度は海南の後ろ側に回ろうとする。同じようにさざ波さんの背中も叩いたりするのか。あんなに線の細い子だから、怪我でもしたら大変だ。だけどここで言い合いになる訳にもいかないから、振り返る事も出来ない。

 すぐに後ろから大きく咳き込む声がした。このか細い息遣いはさざ波さんのものに間違いない。結構注目を集めるかと思ったけれど、皆んな校長の話に夢中なのか、こちらに目を遣る者はいなかった。


 とりあえずは悪目立ちせずに済んだ。


 教室に戻るとすぐに、自己紹介のためのLHRが始まった。机の隅に貼られている氏名を印刷したシール、その順番通り各々が席に着く。



「ほーい。じゃあ一番から自己紹介していこうか。内容は好きに喋っていいぞ」

 教壇に立ったのは、先ほど講堂で背中を叩いてきた男性教諭。さっきは気づかなかったが、結構若い感じで何だかお兄さんといった雰囲気だ。

 新しいクラスのせいで、海南を変な緊張が襲う。自己紹介の順番がひとつひとつ近づいてくる。ドキドキが我慢できなくて、先生に助けを求めようとしても、小さな椅子に腰掛けて俯いているから気づいてもくれない。


 とうとう海南の自己紹介の番。

「あの、その、こ小畑海南といいます。趣味は少女漫画と、あとは…その…釣りのおじさんとお喋りする事で


 あははは。

 教室に笑いが溢れる。またもや失態を晒した。もう消えてしまいたい。「そ、それだけ…です」真っ赤な顔になった海南は、さっさと椅子に腰を落ち着けたかった。


 ガタン!

 後ろから起立する音がした。

「佐々木波美。運動は苦手、海を眺めるのが好き。馴れ合いは嫌いです。以上」


 緊張で気がつかなかったが、海南の次の席にはさざ波さんが座っていた。嬉しかった。後ろでさざ波さんが見守ってくれていると思うと、海南は勇気が湧いてくる。キッパリと、素直に自分の事を伝えられる姿は、とてもクールに感じた。



 海南が恥ずかしさで突っ伏した顔を上げると、自己紹介の順番は次の女子に回っていた。こっそり後ろを振り返って「後ろに居てくれて嬉しい」と小声でさざ波さんに告げる。さざ波さんは涼しい笑顔でただただ、うん、と首を傾けてくれるのだった。


 自己紹介の時間は滞りなく終了し、先生から学校のルールや部活の入部の手順など、学校生活における注意点を確認された。部活の一覧表には、釣り部なんていうのもあって、海南は目を輝かせていた。そしたらLHRは終わっていて下校時間。


「ねえねえ、渚中の小畑さんだよね」

 三人組の女子が海南の席を取り囲んだ。この学校に知り合いは少ない筈だし、この子達は誰なんだ。


「テニス部のエースだった小畑さんよね、私あなたに憧れてたの」

 ああ、女子校ってウザい?と直感した海南に対し、言葉を立て続けに投げてくる。


「ねえ、このあと一緒にカフェに行かない?雰囲気あるお店見つけちゃったんだ」

 カフェ、というのは麓の商店街に軒を連ねる、最近改装されたばかりの喫茶店のことだろう。商店街は、ここに女子校が建ってから、生徒たちの需要のおかげで随分と景気回復している。元々は魚屋、八百屋、乾物屋、生活用品の店に寂れた書店、そんなのが雑多にシャッターを開けている、潰れかけのアーケード街だった。

 それが駅近くの、たこ焼きとかき氷のお店に女子生徒が集まるようになり、生活用品店は可愛らしい文房具を置いてお客を増やし、閉店予定だった洋服店はティーンズファッションのお店に入れ替わった。


「あ、そうだね。さざ波さんも一緒なら行きたいかな、ねえ、さざ波さん」

 海南は後ろの席に目をやったけれど、机の主はもういなくなっていた。


(えええ、さざ波さん先に帰っちゃったの?つれないなあ)


「あの、また今度。さざ波さんと一緒なら付き合うから」

 せっかく出来た最初の友達だから、皆んなに良く知ってもらいたいし、これからも同じグループでいたい。


「ねえ、小畑さん。さざ波さんって誰よ」

「あのね、佐々木さんの事。今までそう呼ばれてたみたいだから」

「ふーん」

 三人組女子はまた今度ねと、海南の意を汲み取ってくれたようだ。


 朝来た道を真っ直ぐ帰る。太陽が落ちようとしている水平線を眺めながら、堤防の上をとぼとぼ歩く。


「あー、さざ波さんは電車通学かねえ。今日はもう会えないかねえ」

 そうひとりごちた。その時


「うみなちゃん、呼んだ?」

 目の前で声がした。慌てて目線を落とすと、さざ波さんが堤防に腰掛け、脚をぶらんぶらんさせている。


「ちょ、何でこんなとこに居るの。地元の人間以外は釣り人しか来ない場所だよ」

「うみなちゃんに会いたかったの」


 海南を待たずにさっさと下校した筈なのに、ここに来るのを待っていたなんて、不思議でしかない。でも…


「あたしも、何だかさざ波さんに会いたかった気がするんだ」

 自然にそんな言葉が出てきた。理由はわからないが、海南の心臓は大きな鼓動を打っていた。


「ね、隣座らない?」

「そうねえ、傍に寄せてもらおうか」

 溜息混じりにそう答える。


「ここ、あたしのとっておきの場所なんだけど」

 海南は自分こそ、この場所を一番よく知る者だと信じていた。だから悔しいという思いをしたのと、さざ波さんと大好きを共有していることが嬉しいと思ったのと、ごちゃ混ぜの気分だ。


「それと、うみなちゃんって呼ばれるの、なんか恥ずかしい」

 そっぽを向いてそう告げる。


「だってうみなちゃんは、うみなちゃんでしょう」

「地元じゃ『うっしー』て呼ばれてきたから、女の子らしい呼び方に慣れてないんです」


フフ。

「何でうっしーなの?」

「昔流行ったゲームキャラの捩りだよ。そのキャラばっかり使ってたから」

 海南の顔が赤く染まっているのは、夕焼けのせいだと、都合よく捉えて欲しいと思った。


「ま、いっか。ここって夕陽が一番綺麗に見られる場所なんだ。だから好き」

「わたしもココ、好きだよ」


 そう言って、二人は身を寄せ合った。


「うっしー」

「やめれ」

 さざ波さんのクスクス笑う声が、微かな風に溶けていった。

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