さざ波さんと、うみなちゃん

カタコト紳士

出会いは凪の日

 カモメが飛んだ。

「ごめんねえ、ご飯のお邪魔しちゃったかねえ」


 カモメが鳴いた。

「へえへえ。早くあっちへ行けってさあ」


 そう呟きながら堤防の上をするすると歩く、ひとりの少女がいた。黒く艶やかなロングヘアを揺らしながらご機嫌な笑顔で、開店準備で慌ただしいこの町唯一の商店街へと向かう。


「おじさん釣れますかー」


 少女の歩むその先には初老の釣り人の姿があった。歩調を早めて、釣り人が傍に抱えるクーラーボックスを覗きに駆け寄った。


「いやあ、全くだよ。せっかく始発に揺られて有名な釣り場に来たのにねえ」


 少女はクスリと笑いながら

「今日は美月の凪の日ですからねえ」

と穏やかな水面でぷかぷかしている浮きに目をやった。


小さめのクーラーボックスは蓋が開いたままで、中には小さなエアーポンプが繋がれており、生きたままのエビ餌を泳がせていた。


「君は地元の子かい。どうやったら魚がかかりそうか、アドバイスが欲しいなあ」


 釣り人はラクダ色のハンチングを軽く外して、わずかに頭を下げる。その仕草が面白かったのか、少女は再びクスリと笑った。


「美月の凪っていうのは3ヶ月に一回、霞も掛からないまん丸のお月様が出た次の朝、完全な凪になる日のことなんです。科学的には、潮の満ち引きだとか難しい理屈のせいで、魚たちが食欲を無くしちゃうんだって。だからどんなに美味しい餌をくっつけても釣れませんよ」


 ああ、こりゃ参ったな、という風な表情をして釣り人は徐に立ち上がった。

「またね」

「またね」


 少女は再び足を進める。そしてふと今来た道を振り返った。そこにはもう、ハンチングを被ったおじさんの姿はなかった。


 この日は一日中凪の筈なのに、ふいに一陣の海風が通り過ぎ、少女のセーラー服の襟をはためかせた。慌ててスカートを押さえるのだが、別にあたりに誰か覗く人間がいる訳でもなし。こういうのは本能のようなもので、なおざりにしていいものではないらしい。


「おばさん、おはよう」

 商店街に寄ったのは、昼食のお弁当を買うためだった。


「あら海南うみなちゃん、おはよう。今日も元気ね」

 お弁当屋さんの看板娘こと朝香おばさんは、とうとう四十を迎えたらしい。なのに見た目も考え方も結構若く感じられる。年頃の娘がいるせいで気持ちが若いのと、シングルマザーとして生きる底力のおかげだと街のみんなは噂している。


「今朝は何だか気分がいいの。そうだ、のり弁当ください」

「あら、お弁当を買ってくなんて珍しいじゃない。今日はお母さん、作ってくれなかったの」

 どうやら 少女は、いつもお弁当を購入する訳ではなく、これが久しぶりの注文らしかった。開け放った小窓から流れてくる揚げ物の油の匂いと、ジューッとと卵焼きを焼く音にどこか懐かしさを覚える。


「母が急用で家を空けているんです。あたしも寝坊しちゃったから手作り出来なくて」


 海南と呼ばれたその少女はえへへ、と反省混じりの表情を朝香に向けた。朝香が「のり一丁」とオーダーを伝えると、店の奥から野太い声で「あいよ」と返事が返ってきた。


 一家の大黒柱が亡くなって、親子三人が取り残されたこの家族には、当時憐れみの眼差しが注がれた。だけれど朝香が明るく気丈に振る舞いお弁当屋さんを切り盛りする姿に、町民たちはいつしか勇気をもらい、笑顔に包まれるようになったのだ。

 奥で調理を担当するのは朝香の大学生の息子で、学校が暇な時間はこうして店の手伝いをしている。


「入学式初日から大変だねえ。あす美も慌てて学校に飛んで行ったよ」

 朝香さんには、海南と同い年の娘がいて、中学までは同じ学校に通い、仲は良かった。


「高校は別々になっちゃったけど、また仲良くしてくれるかねえ。あの子も境遇の似ているあなたとは気が合うみたいだから」

「もちろんですよ。あす美ちゃんとはずっと友達でいるつもりです」


 社交辞令や咄嗟に取り繕う言葉ではなくて、あす美とは本心から親友でいたかった。


「はい、のり弁ね。380円いただきます」

「ほんと『たからや』のお弁当って美味しくって、リーズナブルで最高」


 お弁当が包まれたビニール袋を受け取り、海南は満面の笑みで答えた。


「ありがとねえ。お母さんにもよろしく伝えて」

「はーい」


 朝の商店街は、ここそこでシャッターを開く音が響く。アーケードを抜けた先には、いかにも田舎らしい古びた駅舎があり、片側一車線ずつ敷設された線路が北はトンネルへ、南は朝日に煌めく海沿いへと延びている。


 ちょうどトンネルを抜けてきたばかりの列車が、駅のホームに停車していた。少女と同じ制服を纏った女の子達が続々と改札口に雪崩れ込み、甲高い笑い声が溢れていく。この駅は地域では有名な女子校の最寄駅だ。


 紺地に白のラインで縁取られた地味なセーラー服のせいで、可愛い制服がいいという女子の殆どは入学を希望しない。田舎にぽつんとある学校だから遊ぶのにも不便で、かっこいい男子との出会いも期待できない。だから進学か、就職に有利になるという理由でココを選んだ生徒が大半だ。


 海南は地元で通える唯一の進学校だから、この窮屈な女子校を選んだ。私立の女子校に入学できるくらいの金銭面での余裕はあったから。


 初登校はまだ慣れないので、窮屈だけど電車組の生徒たちの波の一員となり、校門へと向かうことにした。煉瓦造りの校舎までは丘を登る一本道。坂の頂上には海が一望できる休憩スペースがあり、折角だからとベンチに腰を下ろして行くことにしたのだけれど…。

 海南は広く水平線を展望できる一角に、ひとり佇む女子の姿を見つけた。ただ海を眺めて何をする訳でなく、目も虚ろ。何故か不安が過ぎる。


 しばらく注視していると、スペースの端に廻らされた柵に足をかけ、乗り越えようとし始めた。その先は、ちょっとした崖で…

…もしかしたら。嫌な予感が少女の足を崖の方へと向かわせる。


「ちょっとあんた、危ないよ」

叫び声に見向きもせず、その女子はとうとう柵を跨いでしまった。こうなったら後には引けない。少女は思い切ってその背中に飛びつき引き戻そうとする。


「あの、何か用ですか?」

 ちらりとこちらを振り返るその子は、涼やかな眼で海南を射抜いた。ぶかぶかの制服のせいでわからなかったが、かなり華奢な体躯。力を込めて抱きしめたら折れてしまいそうだ。


「あ、いや、ね。落ちたら死んじゃうよ。ココたまに足を滑らせて怪我人が出るんだ」


 地元の人間なら、ここで起こった惨事ことについてはよく知っている。その昔、ここは罪人を私刑に処する絶壁だった。幕府の沙汰が無くしても、村がそうすべきと判断すればここで、罪人を死に追いやる事ができた。それでも処刑されるのは年に多くて数人。


 しかしある夜だけは違った…。


 その呪いのせいなのか、年に何回かは生死に係る事故が起きていて、鎮魂のための献花祭なども行われるほどだ。けれど「死んじゃうよ」なんて軽い言葉は『他所者』を引き止めるには十分でないだろう。


 この土地で生まれ育った少女が一度も顔を見たことがないこの子は、そんなことなど知らない新入生なのだから。


 海南はとりあえず誰か大人を呼ぶべきだと思った。その時、意外な言葉が返って来た。


「あなたは、わたしが死んでしまったら辛い?」

今出会ったばかりの人間に対して、吐く言葉だろうか。


「あなたは、わたしが居なくなったら寂しい?」

初対面の人間に対して、軽い気持ちで返事すべきでないことはわかっていた。でもその質問に答えたくなるのは、海南に人としての温かい心があったから。


「辛いよ、寂しいよ。だからこっちに来て」


 女の子は思い留まったのか、崖ぎりぎりで堪えた足をこちらに返した。ちょうど二人が目線を合わせる格好になって、海南はその子の顔を直ぐそばで見る事ができ、なんと綺麗な顔立ちで澄んだ瞳をしているのかと感じた。不思議だけれど妙に惹き込まれそうになる。


(あれ、何だろう。今ちょっとドキッとした)

海南は急に安堵したせいか、この女の子に心を動かされたように思えた。


「わたし、佐々木波美ささきなみっていうの。皆んなは縮めて『さざ波さん』て呼ぶわ」

「そう、可愛い名前だね。あたしは小畑海南こはたうみな


 さざ波さんは柵をこちら側に跨ぎ、コンクリートが敷かれた安全地帯に戻った。そして潮と改めて向き合う。丘を駆け上がって来た風が、波美の髪を揺らす。美月の凪の日に二度も風が吹くなんて普通ならありえないのに。


 女の子の、肩に届くより少し短い髪は、きらきらと銀色に輝いた。

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