恋よりも恋に近しい

増田朋美

恋よりも恋に近しい

水穂さんたちがかわのやを去ってしまって数日が過ぎた。それから、養老渓谷には、たんぽぽがなくなってあじさいが咲くようになり、雨がよく降る季節になった。

また、優と繭子さんは、かわのやに泊めてもらいながら生活するようになったが、優は一つ心配なことがあった。それは繭子さんがこのところ物思いに耽ることが多くなったことである。

「一体どうしたんだ?なにかあったのか?」

優がそう聞いても、繭子さんは、答えない。なんだか寂しそうな表情をしている。

「一体どうしたんだよ。そんなに寂しそうな顔をして、なにか嫌なことでもあったのか?」

優が聞くと、繭子さんは、そんなことはないという顔で、首を横に降った。

「何をそんなに考えているの?」

繭子さんは、またテーブルのうえにあった国語辞典をじっと見つめた。

「わかった。ちょっと待ってて。」

優が国語辞典をとって、五十音の一覧を一つづつ指さしていくと、繭子さんは、あの字で止まった。優が、あから始まる単語を指差して行くと、

「会う」の文字で繭子さんは頷いた。優はそれを紙に書いた。そして繭子さんがもう一度国語辞典を見つめているので、優はまた同じことをすると、今度は「したい」という文字で繭子さんは頷いた。「会う」、「したい」つまり、「会いたい」ということだ。

「会いたい。誰に?」

優が思わずそうきくと、

「ああ、あ。」

と繭子さんは言った。自分でも名前を言えなくて、困っているようだ。優は、

「じゃあ、この文字一覧で、会いたい人の名前を言ってご覧。」

と、言うと、繭子さんは、まず、「み」で頷き、次に「ず」、最後に、「ほ」という文字の前で頷いた。

「み、ず、ほ。つまり水穂さんか。もう一度水穂さんに会いたいということか。」

優がそうきくと、繭子さんは、にこやかに笑って、頷いた。

「そうかも知れないけど、、、。」

と、優は、思わず考え込んでしまう。これだけ重度の障害がある繭子さんが、水穂さんに会いにいくとなれば、何人分の人件費が必要になるだろう?それを考えても優はゾッとした。自分たちにあるものは、両親からの仕送りしかなかった。優が働いてということもできなかった。可能であれば優も仕事を持ちたかったが、繭子さんがいるとそれはできなかった。だって、繭子さんには、自分の意思を示すことだって、誰かの助けが無ければできないのだから。誰かが必ずそばについていなければならない。人を雇えばいいじゃないかという人もいるかも知れないが、優は他人にまかせてしまうと、不自由なところが必ず出てしまうということをなんとなく感じていたので、それはできなかった。それに、人を雇う費用も無いというのが正直なところだった。

「そうかも知れないけど、繭子がここを離れていくのは、事実無理なんだ。そんな無理なこと、言うものでは無いよ。誰でもできることとできないこともあるからね。」

とりあえず繭子さんにそう言うが、繭子さんは気持ちを抑えられなかったのだろうか、

「うう、あ。」

と声をあげて泣き出してしまった。多分意識はしっかりしているのに自分の体が動かないので、それに苛立っているのだろう。それで余計に感じすぎてしまうこともあるのかもしれない。こういう重度な障害を持っていると、自分の置かれた立場とか、そういうのを把握できる正確な知能は持っていないほうがかえって扱いやすいのではないかと優も思った事がある。もちろん、繭子さんには、それを言ったことはまず無いけど。

「泣いても仕方ないんだよ。ここから静岡まで行くには、ほんとうに遠いんだ。繭子には、そういうことはできないんだよ。」

優は、そう言ったが、繭子さんは、泣くばかりだった。もし、まともな判断ができる人だったら、仕方ないとして諦めると思うのだが、恋をするとそういうわけには行かなくなってしまうようなのだ。例えば、「忙しくても会いたい」という矛盾した言葉を口にする人がいるが、そういうふうに、できないことであってもできるようになりたいと思ってしまうのが、恋愛感情というものであるらしい。

「繭子、あの人は、繭子には手が届かない人だ。自分と付き合っては行けないって、本人もそう言ったじゃないか。繭子が、水穂さんと付き合ったら、繭子まで不利な立場になる。そう彼は言っただろう。だから、繭子は無理なんだ。水穂さんにもう一回会いたいだなんて、金輪際思わないでくれよ。」

優は優しくそういったつもりであったが、その言葉は、繭子さんを傷つけてしまったようである。

「ああ、ああ。」

繭子さんは、声をあげて泣いていた。それと同時に、

「お夕食ができましたよ。」

と優しい声で、歳をとった大女将さんが入ってきた。泣いている繭子さんを見て、

「どうしたの?もしかして、久しぶりに兄弟げんかでもしたの?」

と、優しく言ってくれた。

「ああ、あ。」

繭子さんはそう言っているが、やっぱり言葉にならないのだ。どんなに頑張っても言葉にならない。それは繭子さん自身も知っていて、時々それに苛ついてしまうこともある。いくら国語辞典を使って、単語を示しても、口に出していう方法より、言葉を確実に伝える方法は無いのだ。

「いや、そういうことでは無いんですけどね。繭子が、どうしても、水穂さんに会いたいって言って、聞かないものですから。」

優は、思わず正直に話してしまった。本当はごまかしてしまおうと思ったけど、そういうことはできないようだ。

「そう、繭子さんは、水穂さんのことが本当に好きなのね。」

大女将さんはそう言ってくれた。こういうことは年長者の為せる技だ。すぐに反応するのではなく、一度相手のいった言葉を受け止めてからなにか言うというのは、若い人ではなく年長者でないとできない。

「それで、水穂さんにもう一度会いたいと思ったのね。」

大女将さんは、優しくそういった。繭子さんは、ウンウンとしっかり頷いた。

「そうなのね。こんな事言ってもどうかと思うけど、それを人生の目標にしてもいいかもしれないわよ。繭子さんの人生の目標は、大事な水穂さんに会いにいくこと。それで考えてみたらどうかしら?まだ今はできなくても、いつか必ず、水穂さんに会いにいくんだ。そう思っていれば、望みが叶うかもしれないわよ。大事なことはね、その時が来るまで諦めずに、思い続けていくということよ。」

女将さんはそう言ってくれた。まあ、繭子さんに慰めの言葉になっているかどうかわからないが、繭子さんは泣くのをやめてくれた。

「良かったわ。繭子さんがまた泣き止んでくれて。私は嬉しいな。」

こういうふうに私はなになにという気持ちになることができるのも、年寄の為せる技だった。優は大事なことは、言葉に主語をちゃんとつけて話すことだと思った。

「繭子、水穂さんは、繭子に、自分と付き合うのは無理だ、やめてくれと言ったんだ。なぜかと言うと、自分と一緒にいると、繭子が余計に可哀想だと思われるのが、水穂さんは、忍びないのだそうだ。だから繭子も、水穂さんのことは会いに行かないで、そっとしておいてあげようね。」

優は、自分の言いたいことを、できるだけ細かく噛み砕き、至るところに固有名詞を入れて、繭子を説得したつもりだったが、

「ああ、あ。」

と繭子さんはまた何か言った。女将さんが、なにかいいたそうだから、聞き取ってあげましょうと言って、国語辞典を手に取った。繭子さんはあの文字の前で頷いた。大女将さんがあで始まる単語を指さしていくと、「愛」という言葉の前で繭子さんは頷く。

「そう、愛していると言いたいのね。」

大女将さんは、そういった。

「何を言っているんだ。愛していれば状況が変わるほど、世の中はそんな甘いものではないんだよ。繭子、よく考えてご覧、お前も、水穂さんと一緒にいることで、汚いとか、そういうレッテルを貼られてしまうんだぞ。それにお前は重度の障害があるんだし。お前はそれに耐えていけるか?無理だろう?だから水穂さんは、自分と付き合うなといったんじゃないか。」

優はそういったのであるが、繭子さんは、今度はだの文字の前でうなずいた。そして、同じ様にだではじまる単語を辿っていき、大丈夫の前で止まった。

「お前がいくら大丈夫だと言っても、現実はそうは行かないんだよ。それに今の時代は簡単に相手を捨てることができるし、水穂さんにもし捨てられてしまったら、お前はどうするんだ。そうならないようにするためにも、ここにずっといることが一番なんだよ。」

「優くん。こういうときはできるだけ黙ってあげたほうがいいわよ。繭子さんが自分の答えを見つけることができたら、それでおしまいにしてあげればいいの。」

大女将さんは、優に年長者らしく言った。流石に、こういう発言ができるのは、人生経験を積み重ねた人だった。そうでなければ、若い人をそっと見守るなんてことはできない。

「あたしたちは、ゆっくりその時を待ってあげましょう。」

「そうですね、、、。」

優は、結局できることは、自分もそうするしか無いと思いながら、大きなため息を着いた。

それと同時に、静岡では。

「水穂さん大丈夫ですか?今日は当たる食品は入れてないと思ったんですが、なんか私、入れてしまったかな?」

と、のび子が咳き込んでいる水穂さんを見て、そう言っていた。のび子も、最近は、短時間であるが、介護施設で働くようになっている。フルタイムで働くことは諦めたというが、その代わり、時々こうして水穂さんの元へ現れて、水穂さんと少し喋るのが日課になっていた。今日は、水穂さんに、ケーキを買って食べさせたのであるが、数分後に水穂さんは咳き込みだしたので、のび子もびっくりしてしまっていた。

「あたし、生クリームを使用していないケーキを買ってきたんですけどね。それでも、いけなかったのかな。」

ついに水穂さんの口元から赤い液体が漏れてきた。のび子はそれを急いで拭き取った。

「本当にごめんなさい。なんだか悪いことしてしまったみたいですね。」

水穂さんに薬を飲ませて、咳き込むのを止めることに成功したのび子は、少し休みましょうと言って、水穂さんに掛ふとんをかけてやった。最近は、厚手の布団もいらない季節になっている。

「いえ、大丈夫です。驚かせてしまってごめんなさい。」

水穂さんは、そう言ったが、のび子はごめんなさいと再度謝罪した。不意に、のび子のスマートフォンがなる。とってみてみると、自分のツイッターで新たなフォロワーが来たことをお知らせしていた。でも、のび子が知る由もないアカウントだった。ツイッターというものは誰でも勝手に断りなしにフォローできる様になっているので、のび子は珍しいことだとは思わず、その新しいフォロワーに、ダイレクトメッセージで、フォローありがとうございます、と打ち込んだ。

すると、メッセージにすぐ返信があった。

「須田のび子さんですよね。あのとき養老渓谷でお会いした、村瀬優です。」

メッセージにはそう書かれていた。のび子はは?あの人が?と思って、思わず、

「本当にあのときの望月優さんですか?」

と打ち込んだ。すると、数分でそうですと返ってきた。それでは村瀬優さんで間違いないとのび子は確信した。

「その節は、本当にお世話になりました。短い間だったけど、養老渓谷で、楽しい時間を過ごせました。ありがとうございます。」

と、のび子は、ダイレクトメッセージで送った。すると優が、

「実は、ちょっと相談したいことがありまして。繭子が水穂さんに会いたいと言っているんですが、水穂さんはどうしていますか?」

と、メッセージを送ってきた。のび子はまだ繭子さんが水穂さんのことを覚えているとは驚いたが、繭子さんのような重度の障害がある人はそうなってしまうのかと思って、そこは言わないで置いて、

「ええ、あまり捗々しくない状態が続いていて、今日も、私があげた食べ物で発作を起こしました。」

とだけ送った。すると、少し間があいて、

「そうですか、水穂さんも大変なんですね。お体がそのような状態では、どこかへ来てもらうことは無理ですよね。本当にすみません。」

というメッセージが送られてきた。のび子は、何故か、繭子さんに嫉妬の気持ちとか、そういうものは一切湧いてこず、むしろ、繭子さんにもう一回あわせてあげたいと思ってしまった。何故かわからないけどそう思ってしまった。なぜなんだろう、繭子さんが普通の人だったら、こんな事考えないかもしれない。でも、のび子はそう思ってしまったのだった。

「謝らなくても大丈夫ですよ。繭子さんがそう思っていらっしゃるなら、実現させてあげましょうよ。誰かお手伝いさんをお願いして、どこか静かな場所へ行くのはどうかしら?お手伝いをしてくれる会社なんて、今はたくさんあるし。そういうビジネス、私の施設でもやってるわよ。」

のび子がそうダイレクトメッセージを送ると、

「そうですか、のび子さんは、働き始めたんですか。」

と、返事が返ってきた。のび子は、急いで、ああ、大した仕事では無いけどね、と急いで訂正するが、優は、仕事ができるだけでもすごいですよとのび子を褒めてくれた。

「そんな、すごいことじゃありません。でも、繭子さんのような人だって、今は旅行に出ることは罪じゃないはずです。場合によっては、そういう手伝ってくれる企業だってあるはずです。それを探しましょう。優さんも探してほしいけど、私も、どこかにそういう企業がないか、探してみます。」

のび子がそうダイレクトメッセージで送信すると、優は、ありがとうございますといっただけで、あとは何も返答が来なかった。のび子としてみれば、繭子さんを手伝うに当たって必要なものなどを聞きたかったが、優はそれ以上返事をよこしてこなかった。のび子は多分大事な用事でもあったんだろうと思って、そのまま、千葉県と静岡県で、障害者や病気の人の移動を手伝ってくれる企業を探し始めた。確かに、高齢化社会と言えるだけあって、寝たきりの高齢者を親族の結婚式に出席させるなど、お手伝いをしてくれる会社はたくさんあった。千葉にも静岡にもちゃんとある。それなら、言うことなし、文句無しで、繭子さんも水穂さんも行ってくれるのではないか。のび子はそう確信した。

よる遅くになって、のび子からダイレクトメッセージがきた。優がそれを開けてみると、たくさんの介護タクシーにまつわるリンクが乗せられていた。中には、格安で障害者を連れて行ってくれる企業もある。だけど、格安な会社は、値段が安い分、扱いがずさんなのではないかという不安があった。それに、介護を伴ったお出かけをしてくれる企業は、一般の人から見たら、かなり高価だった。基本介助料を筆頭に、階段解除料など、様々な場所で、料金が発生し、それを全部支払わなければならないからだった。せっかくのび子さんが調べてくれたのに申し訳ないと優は思ったが、やはり、繭子さんを静岡に連れて行くことは無理だなと思った。その旨を、できるだけ自分なりの言葉でまとめて、のび子さんに送信した。実を言うと、繭子さんは、生活保護を受けているとか、障害年金を申請しているとか、そういうことはしていなかった。もう、焼身自殺を図って、重い障害をおって何年になるか不詳だが、繭子さんの両親もまだまだ働ける年齢だし、自立しなくてもやっていけるからと言うのが理由であった。でも、本当は、繭子さんが、重度の障害者であることを受け入れたくないという気持ちから、そうさせているのか、それとも単にしないのか、そのあたりは優も聞いたことがなかった。

のび子さんに断りのメッセージを送ると、しばらくしてこんな内容が返ってきた。

「あら、福祉サービス利用されてないんですか?障害者手帳とかヘルプマークとか、そういうのは作らなかったの?それなら、作ったほうがいいわよ。こういうときに役に立つから。」

のび子さんは、親切にそう言ってくれているのであるが、優はそれをしてしまうことは、繭子を傷つけてしまうようで、できないのだった。明らかに重度の障害を負ってしまった繭子に、それで年金をどうのというのは、可哀想な気がしたのだ。

「そうですね。」

と、優は一言だけ送った。

「もし、可能であれば、作ってもらうといいわ。みんなそれを見せて、公共施設の割引とか、そうさせてもらっているわ。きっと損は無いと思うわよ。」

のび子から、そうダイレクトメッセージが返ってくるが、優は、そうだなという気にはなれなかった。なにか国のサービスを受けて生活することは、恥ずかしいような、そんな気がした。

「でも誰かにバレたら。」

優は思わず送ってしまう。

「ああ、バレたら、バレたで放っておけばいいと杉ちゃんから聞いたことあるわ。そういうことを言いふらすやつは、碌な人間ではないって、みんな言ってくれるし、仮になにか言われたとしても、気にしなければ大丈夫。」

のび子はそう言うが、優は、気にしなければという言葉がいかに難しい言葉なのか知っていた。それは、ほんとに、実現できそうで実はできない言葉であることも。特に繭子さんのように、意識はしっかりしていて、なおかつ重度の障害を持った人にはできないことも知っていた。

「のび子さんも変わりましたね。なんだか明るくなったみたい。」

そうメッセージを送ってみると、

「まあ、仕事をしていく上で、必要なことよ。」

と返ってきた。そうか、仕事か。それをしていれば、なんだか関所を通り抜けるときの切り札を持っているのと同じくらい、人間は強くなれるし変わってしまうものだ。同時に、失ってしまうものもあるだろう。それは、よくわからないけど、必ずあるに違いない。

「じゃあ、企業の名前をあげておいたから、優さんが、繭子さんにふさわしいな、安心して任せられるなという企業を選んでよ。そうしたら私が連絡して見るから。とりあえず、仕事があるんで今回はここまでね。」

と、のび子さんは、ダイレクトメッセージでそう言っていた。優は、繭子の思いが単に恋愛以上のものになっていることを初めて知って、なんだか申し訳ない気がしてしまった。

やっぱりやめたほうがいい。

優はそう思った。

だから、明日もう一度、繭子を説得しなければ。

優はそう思いながら、スマートフォンを置いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋よりも恋に近しい 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ