閑話 あの日のこと

 あの日以来、私には苦手なものが増えた。

 例えば、家事が苦手になった。食事だとか洗濯だとか生きるのに必要なことに気力がなくなった。

 例えば、夜に眠ることが苦手になった。明日が怖くて夜中に布団の中で怯えていることが増えた。

 例えば、選択をするのが苦手になった。問いかけに、何でも良い、と口にすることが多くなった。

 例えば──会社が苦手になった。


「準備は……よし。……良いよね?」


 会社を連想させるものが近くにあると気分が悪くなるようになった。

 スーツはいの一番に捨てた。視界に入るだけでその場から動けなくなるから。パンプスも捨てた。視界に入るだけで呼吸が乱れるから。弟のスーツや革靴も視界に入らないようにしてもらった。身体の震えが止まらなくなるから。

 弟の私服からフォーマルなものが消えた。伊達眼鏡やイヤーカフをすることが増えた。真面目な弟が遊び慣れた格好ばかりするようになった。

 私のせいためだ。


「姉さん、そろそろ遊び行くよ。……何やってるの?」

「忘れ物しちゃいけないですから」

「……さくらちゃんと遊ぶだけなんだから別に忘れ物あっても大丈夫だよ。あの子なら笑ってくれるだろうし。財布とスマホさえあれば良いから」


 そう言われて、それもそうだ、と納得した。ポーチをひっくり返して出していた中身を一つ一つ丁寧にポーチの中へ納めていく。遊びに行くだけなんだから。

 しかし、女の準備が財布とスマホだけで済むと思っているなら、我が弟ながら心配せざるを得ない。


「ほら、靴はどうする? サンダル? スニーカー? ブーツ?」

「んー……スニーカーで」

「はいはい。はい、どうぞ」


 弟によって玄関の収納から取り出されたスニーカーが優しく地面に置かれる。

 ポーチを弟に預けて立ったまま履くが、あまり運動をしていないせいか、少しだけふらついた。弟の手が素早く私の腕を掴む。勢いにびっくりして弟の顔を見れば、心配するような視線を向けられる。

 少しだけふらついた程度で心配されることにムッとしてしまうと同時に、心配してもらえることにどうしようもない安心感を覚えてしまう。心配されることで安心するだなんて、私は一体いくつのつもりなのだろうか。自嘲する。


「大丈夫ですよ。ありがとう」


 弟は軽く肩をすくめて腕を掴んでいた手を離した。

 玄関から外に出れば、如何にもお出掛け日和な太陽光が降り注いでいる。いや、むしろ、ここまで太陽が眩しいと紫外線のせいでお出掛け日和ではないのではないだろうか。なんてやくもないことを考える。


「さ、行くよ」


 声に振り返れば、弟がこちらに左手を差し出していた。

 意図がわからず、首を傾げてじっとその顔を見つめてしまう。


「手、繋ぐよ。デート、なんでしょ」


 揶揄からかうような弟の表情と声色に、言葉に詰まってしまった。

 確かに、昨日の夜、気持ちを誤魔化すために「明日は弟とデートです。」などと呟いたかもしれない。楽しんでおいで、という皆の声に勇気を貰ったかもしれない。普段はあまり呟かない弟が細かくチェックしてるとは思わなかったのは事実だ。

 揶揄われるのは心外だけれど、弟とデートすることに否はない。


「仕方ないなぁ。お姉ちゃんがデートしてあげる」


 恋人のようにしっかりと指を絡ませながら弟の手を握る。ずっと小さいと思っていた弟の手は、私の手を包み込んでくれるくらいに大きくなっていた。ずっと守ると思っていた弟の手は、私を守ろうとするくらいに大きくなっていた。

 ──立ち止まっている私を置いて弟が先に進んでいっているようで、どうしようもなく、こわい。

 ──お姉ちゃんなのに、弟の成長が、たまらなくおそろしい。

 ──今すぐの弟の手を引っ張って、家の中に戻りたい。

 ──奈落の底のようなあの部屋に閉じ籠っていたい。

 ──ずっとずっと、私と一緒に立ち止まっていてほしい。

 けど、私はお姉ちゃんだから。そんな気持ちに蓋をして、弟の手を引いて道路の方へと足を踏み出した。


「手を引っ張るのは良いけど、道、知ってるの?」

「……電車に乗るんですよね?」

「地下鉄ね」

「そう言おうと思ってました」

「言ってないじゃん」

「言おうと! 思って! ました!」

「さくらちゃんみたいな言い方しないの」


 くすくす、とどちらからでもなく笑い合う。




・・・・・

・・・・

・・・

・・




 楽しい時間なのに、弟とのデートなのに、目的地に近づくにつれて少しずつ口数が減っていってしまう。

 目に見えてオフィスが入っているであろうビルの数が増えてきた。外回りであろう会社員たちが歩き回っている姿が視界に入るようになった。

 ──思考が乱れるのがわかる。今すぐこの場から逃げ出したいと思ってしまっているのがわかる。

 弟が私の視界を遮って手を引っ張って歩くから、どうにか足を止めることはなかったけれど。


 弟の手に引かれるままに辿り着いたのは、大きなビル。その入口の自動ドアの前で足を止めてしまった。弟の手をぎゅっと握り締めて、これ以上は無理だと腕を引いて、立ち止まる。

 弟は何も言わずに手を握り返して待ってくれる。

 大丈夫。何も問題はないはずだ。


 ドアに近づく。弟の手を強く握る。

 また一歩近づく。弟の手を強く握る。

 また一歩近づく。弟の手を強く握る。

 また一歩。強く握る。一歩。強く。一歩。強く。一歩。強く。


 僅かに残った理性が、弟の手を心配する。こんなに強く握りしめたら弟が痛がるに決まってるから、今すぐ手を離して「痛かったよね、ごめんね」ってそう言おう。お姉ちゃんが弟に迷惑をかけるなんて、そんな情けない真似ができるわけがない。

 ──何度そう思おうとも、身体は言うことを聞いてはくれない。

 手の力はちっとも緩まないし、何か口に出そうとしても空気が口からこぼれるだけで、何の言葉も発せない。出来の悪い彫刻のように、ただ私は弟の手を握り締めながら俯いて固まってしまっていた。


 そこからはあまり記憶にない。

 きっと私は弟に手を引かれて後ろをついて回っていただけなのだと思う。

 どれくらい経ったのか、それすらも判然としない。永遠のような苦痛が過ぎた気がする。早く、ただ早く、この時間が終わってしまえば良いとそう思うだけだった。


「すみません、マネージャーさん。ご相談なんですが」


 すぐ近くで発されたはずの弟の声が遠くに聞こえる。

 強く、強く、縋り付くように弟の手を握り締めながら、ただ申し訳なくて、ただいたたまれなくて、ただただ罪悪感に押し潰されてしまいそうで、じっと床を見つめる。

 頭の中は真っ白で、呼吸が乱れる。視野は狭くなって、心臓の音だけが煩い。弟の手の温もりだけが、どうにか私をこの場に繋ぎとめていた。


 折角、マネージャーがちゃんとした本社のスタジオでレコーディングしたいって言ってくれたのに、折角、デートだって言って弟が連れ出してくれたのに、折角、さくらが一緒に遊ぼうって言って待っててくれるのに。

 やっぱり、だめだった。

 ほら、だめだった。

 ね、だめだった。

 永遠に、立ち止まったままだ。


 自罰するようにきつく握りしめた左手を、そっと温かいものが包み込んだ。

 温かいものは、手のひらに爪を食い込ませるくらいに強く握った手の指を、一本一本解きながら私の手に絡みついてくる。その温かさに縋りつくように、左手で絡みついてきた温かいものを強く握り締める。

 突然、頬に別の温かいものが触れて、狭くなった視野いっぱいに弟の顔が広がる。弟が、俯いた私の頬に右手を添えて、私を覗き込んでいるのだと気付くのには少し時間が必要だった。


「姉さん、聞こえる?」


 聞きなれた温かな声に、こくり、とどうにか頭を動かして頷く。


「姉さん、歌いたい?」


 こくり、と頷く。


「姉さん、さくらちゃんと一緒に遊びたい?」


 こくり、と頷く。


「姉さん、何も見たくないなら何も見なくて良いから。目を瞑って」


 こくり、と頷き、目を瞑る。

 真っ暗な世界に、両手と頬の温もりだけが広がる。


「姉さん、今俺と握ってる手をさくらちゃんにパスするから、そのままさくらちゃんと一緒に遊んでくれる?」


 一瞬だけ、繋いだ弟の手を強く握り締めてから、こくり、と時間をかけて頷く。

 ほんとうは、ずっと側に居てほしかったけど。ずっと手を握っててほしかったけど。ずっとずっと、その温かさに縋りついていたかったけど。


「そっか。じゃあ、今から姉さんにヘッドホンをするから、さくらちゃんと一緒に歌って遊んでおいで。俺はすぐ近くに居るから、きつくなったらとりあえずその場にしゃがみ込んで。約束だよ」


 こくり、と頷く。

 頬から温もりが消えて、両耳を何かが覆ってしまい、弟の声も含め完全に何も聞こえなくなった。

 そして、唯一残っていた弟との繋がりが右手から離れ、そこに別の手が入り込んでくる。それを弟と繋いでいたように、指を絡ませて恋人つなぎをする。少しだけ、安心感を覚える。

 弟の手に比べると小さくて指も細く角張ってもいない、全く異なる手。なのに、どこかこの感覚を知っている気がして、そこでようやく気が付いた。


 ああ、そっか。左手の温かいものはさくらの手の感覚だったんだね。


 それを理解するのと同時に、ヘッドホンからさくらの歌声が響いてきた。

 何回も、何十回も、さくらと一緒に歌うために練習した曲。さくらと一緒に遊びたくて練習した曲。配信外でどの歌にしよっかって2人で選んだ曲。私が大好きな曲。

 繋いだ両手の動きで目の前でさくらが歌っているのが伝わる。目を瞑って手を震わせている私に声を届けようと歌っているのが伝わる。大丈夫だよ、って、いつでも待ってるから、って、無理しなくていいんだよ、って、だから1人で落ちていかないで、って、そうさくらが泣いているのが伝わる。


 だから──ゆっくりとまぶたを持ち上げて、今度は私が歌い出す。


 真っ先に目に入ったのは、驚いたようなさくらの表情。

 さくら、こんな顔で驚くんだ。こんなに泣きそうな顔で目に涙を溜めてたんだ。

 親友なのに、今日が初めましてなんて、なんだか不思議な気分。


 さくらに私の気持ちを伝えるために歌う。もう大丈夫だよ、って、一緒に遊ぼう、って、今日がどれだけ楽しみだったか伝わるかな、って、だからあなたがそんな悲しみの底に向かって落ちる必要なんてないんだよ、って、さくらに届いてほしいと歌う。

 さくらが繋いだ手を強く握り締めるから、きっと、まだ私が無理をしていると思っていることが伝わって、大丈夫なのに、って伝わるように出来るだけ普段通りの声を心掛ける。


 さくらが手を握ってくれてるなら、私は大丈夫だから。




***




【NG版】脳○炸裂ガール/青丹あおにらん・朱見あけみさくら(Cover)




コメント:普通に歌ってる方より俺は好き

コメント:毎朝聞いてる

コメント:ゴリゴリの内輪ノリでファンサしてくれるほめるた!は有能

コメント:通常版に少しアレンジ加えた映像かと思ったら細かいところで結構違うからこれ一から作り直してんな・・・スタッフ気合い入り過ぎだろw

コメント:この曲の直前に垂直落○歌ってたらしくてどうやったらあの曲の直後にこんなテンションに持っていけるのかと

コメント:概要「さくらちゃんと一緒に歌って遊びました。NGになりました。」

コメント:お嬢とらんらんが楽しそうに笑い合ってるだけで最高

コメント:自由に掛け合い入れまくってるの好き

コメント:らんらんのふざけ具合に爆笑して、お嬢との絡みでにやついて、最後で泣かす。やっぱさくらんは最高

コメント:これお嬢の方で上げてるのが良いんだよな

コメント:00:02「いったッ!? マイクスタンドで足の指打った!?」「だいじょえっなんで裸足なんですか?」「裸足の方が歌いやすそれ今じゃなくない!? 足の心配して!?」「足……さくらちゃんのペディキュアかわいい」「良いでしょこれ、らんちゃんも塗いや自由過ぎない!?」「「……ぷっ、あはははははははははは!!!!」」出だしから最高

コメント:最初から笑ってて歌い出しからへにょへにょ声になってるお嬢いい・・・

コメント:笑ってるお嬢をさらに笑わせようとふざけまくってるらんらん草

コメント:らんらん隙あらばお嬢が歌ってるときにオタ芸入れるのやめろwww

コメント:初オフコラボでこの仲良さってマジ?

コメント:00:33 「私ラーメン食べたい」「私ビビンバ食べたい」知らんわwww

コメント:終始笑っててこっちまで笑顔になっちゃう

コメント:00:53 無駄にセクシーな声出すらんらんをお嬢が真似しようとしてるとこに「あは~ん」って謎のSE入るの草生えるわこんなんwwwしかもお嬢全然セクシーな声出せてねぇw

コメント:01:16「はぁ……はぁ……笑い過ぎてきついです……」「ねぇねぇ、らんちゃん」「はい、何ですか、さくらちゃん」「楽しい?」「──うん。さくらちゃんは楽しい?」「すっごく楽しい」「一緒だね」「一緒だよ」「「……ぷふ、くすくす、あはははははははははははっ!!!!!!」」はぁぁぁぁああ(クソでかため息)

コメント:ずっと笑ってほしくなっちゃう

コメント:らんらんのゲラがお嬢に感染してお嬢のこんな無邪気な笑い声を大量に浴びれるとからんらん良い仕事した

コメント:こいつらずっと2人で笑い合いながら生きててくんねぇかな

コメント:02:29~ 楽しむことしか頭にないカラオケみたいな歌い方最高

コメント:ほんま楽しそうでにやつきが止まらない

コメント:永遠にさくらんだけ摂取して生きていたい

コメント:02:58「100年後も遊びたいね」「100年後も遊びたいですね」「2人で?」「みんなで」「私とらんちゃんと、花弁どもとアオタンたちと」「弟くんと他のほめるた!のみんなと」「じゃあ、みんなには200年くらい生きて貰わなきゃね」「アオタンさんたちも花弁さんたちもみんな優しいから私たちの我儘くらいきっときいてくれますよ。私たちを置いて行ったら泣いちゃいます」「あとで、長生きしろよ、って言わなきゃね」「さくらちゃんも長生きしてくださいね」「うん。──らんちゃんも?」「私も」「100年後一緒に遊ぶって指切りしよ」「「100年後もまた一緒に遊びましょ、指切った」」涙でてきた

コメント:最後に指切りする2人のイラストは反則なんすわ

コメント:笑いと感動で情緒不安定なるわ

コメント:さすがに最後は台本ありだよな・・・?ガチでこれなら脳が破裂する

コメント:あと200年生きるかーーーーーーーー

コメント:すごくつらいことあってマジでしんどかったけど、らんらんとお嬢が100年後も遊ぶって言うから頑張って生きるよ

コメント:さくらんてぇてぇな・・・って思って見てたけど最後でリスナーとも一緒に遊んでるってお嬢とらんらんが思ってくれてるんだってわかって、しかも100年後も一緒に遊びたいとか言われてなんかもう自分でもわけわからんぐらい涙出たわw

コメント:これ初めて聞いた時もさくらんてぇてぇな、って思ってたけど、お嬢の過去を知ったあとに聞くと最後の指切りがマジでさ。たぶんこの頃にはらんらん、お嬢の過去知ってていつお嬢が居なくなってもおかしくないって不安いっぱいだったんだろうな。だから指切りで100年後も、って約束したって考えるとやばい




***




弟@aoni_otouto

裏話です。姉さんはずっと手が震えていたので、収録中は俺の代わりにさくらちゃんに手を握ってもらったまま、マイクを挟んでお互いに向かい合った状態で歌うことになりました。

青丹らん@ほめるた!@Aoni_Ran_Run

内緒って言いましたよね!?


朱見さくら@コラボ強化月間@Akemi_Imeka

らんちゃんのおててかわいかったさいこう


朱見さくら@コラボ強化月間@Akemi_Imeka

らんちゃん、いいねくれるけど何も言わないから恥ずかしがってる姿が容易に想像できて最高!!!!!!!!!!

青丹らん@ほめるた!@Aoni_Ran_Run

言わなくていいですから!!!

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