二章 幽霊船の花嫁⑩

「「「――――!?」」」


「――化物めっ。みんなこの船からいますぐ逃げろっ」


 退却だ。この化物は自分達の手には負えない。逃げるしかない。


(――だからどうやって逃げるんだっ)

 

 時すでに遅し、超再生した触手が無情にも射出され再び冒険者に襲いかかり、足や腕にからみつき逃がすものかと巻き上げられる。


「や、やめ、やめてくれー、あ、がががが」


 巻きつかれた若い冒険者が白目を向く。

 足場を復活させダメージを与えたとてそれが何になる。今度は魚人ではなく自分達を文字通り餌にダメージを回復させるだけ。この霧のなかに入り込んだ時点で勝負は決まっていた。


「くそったれえええっ」


 シウスの拳が氷床に亀裂を走らせる。

 触手が冒険者たちの口にねじ込まれていく。種を植え付けているのか? 眼前ではなす術を無くし奴のおもちゃに成り果てた冒険者の無残な姿がシウスの視界に踊っていた。


 危険察知能力に置いて自信があった。それだけの修羅場を潜り抜けてきた自負があった。だが結果はこの有り様だ。まさに散々な結末だ。

 唯一、敗因をあげればあの女の所為で調子を狂わされた。

 まるで物見遊山の女の様子にぴりぴりと神経を尖らしている自分がバカみたいに思えて苛立った。その所為で普段の能力を発揮できなかった。


 シウスは自嘲気味に笑った。


「言い訳だったらいくらでも出てくるな……」


 卑劣な責任転嫁と迂闊だった己の落ち度に吐き気がする。

 確かに彼女のことが気になっていた。それは彼女がシウスの渇いた心にとって激毒のような『何か』を持っていたからだ。

 彼女のその『何か』にたまらなく嫉妬したのだろう。


 あの日、求めるものの為に己を戒め冒険の海に飛び込んだ。だからこそ目的を遂げるまでは、あの日、置いてきた『何か』から遠ざからなければならないと思っていた。

 だが、彼女ベアトリーチェはこんな危険地帯でさえその『何か』――『日常』を持っていた。それが何よりシウスの心をかき乱した。


「っ……親父、悪いな。約束のとこえしの麦、見つけられなかった。――もう一度、母ちゃんのイモだらけのスープ、家族みんなで食いたかったな」


 シウスの瞳から光が消えていく。




「――守護。してあげてもいいですよ?」



「――?」


 振り向けば、そこにはベアトリーチェがにこにことこちらを見ていた。先ほどの言葉はどうもこの女から発せられた言葉であると、遅まきながら認識する。


「何……、言ってんだ?」


「ですから。みなさんを守護してあげると言ったのです」


 まるで満席の居酒屋でようやく見つけたテーブル席だと思ったら、椅子が足りず右往左往していると横から私もうすぐ出ますからよかったらどうぞ、と譲るような声だった。

 シウスは一瞬唖然とし、言葉の意味を理解しようやく口をひらいた。


「何、言ってんだあんた? 守護するって……あんたが俺たちを守ってくるとでもいうのか? 相手はクラーケンだ。ギルドの討伐ランク8の化け物だ。あんたに何ができる」


「正確には私じゃないですけど、その通りです」


 シウスはこんなときでも平然と冗談をいう女に多少の怒りを覚えた。が、彼女の手を打ち払った瞬間と先ほどの責任転嫁が脳裏をかすめ罪悪感に怒りがしぼんでいく。


 目前には死が迫っているにも関わらず妙に冷静になっていく自分にどこか笑えてさえきた。

 それは彼女がまったく平然としているからかもしれない。彼女からすればここはまったくの別世界。非日常であるにも関わらず。彼女から伝わってくるのは日常のちょっとしたアクシデント程度だ。

 彼女はこの状況を日常だと思うことで己の自我を保っているのかもしれない。

 だから、彼女は飴を配っていたのかと考えた。飴を配ること自体彼女にとっての日常。


 それを行なうことで彼女は平静を保っていた。そう考えることができないだろうか? 


 それはきっと彼女なりの戦いだったのだろう。

 だったら、最後に付き合ってあげてもいいんじゃないのか?

 最後に『日常』を味わってもいいんじゃないか?


 シウスは心中で笑う。


「そうか。じゃあ俺たちを守護してくれ」


「あ、でもただじゃないですよ?」


「何が欲しいんだ?」


「あなたのそのミスリルの剣。それが欲しいです」


 シウスは自分の手にある剣に視線を落とした。それはエルフの友人に特別に打ってもらった大事なものであった。危険の海に自ら飛び込んでいくバカで無鉄砲な男に呆れを覚え、少しでも助けになればと譲りわたされた『妖精の剣』。


「こいつを渡せるわけないだろ」


「痛たたたっ、急に左手が痛みだしてきた」


 ベアトリーチェは右手で左手の甲を痛そうに摩り出した。それはシウスが飴玉を打ち払おうとしたときに怒りのあまりに弾いた左手ではあったが、甲の部分を払った覚えはない。


「おい、なんのまねだ」


 ベアトリーチェは恨みがましそうな顔でこちらをチラチラと見てくる。

 その露骨な様子が頭にくるが、左手を払ったのは事実であり、そのときの罪悪感がいやに胸を打つ。


 シウスは額に青筋をたてるが、あの世に剣は持ってはいけない。要求を了承した。


「ああ、俺らを守護、守ってくれたらやるよ。何に使うかしらね―が持ってけ」


 了承した理由をもっともらしくつけ加えるのなら最後に『日常』を感じさせてくれたお礼と、彼女に対しての罪悪感を消してしまいたかったのかもしれない。


「では商談成立ですね」


 ベアトリーチェは笑顔でパンっと手を打つ。


「あ、ちょっと揺れるかもしれませんので、気をつけてくださいね」

「――?」


 カチコチになった床をベアトリーチェが釣竿でこつこつと叩き満足そうに頷いている。


「うんうんカッチコチですね。これなら大丈夫そう」


 シウスがベアトリーチェの言葉に反応する間もなく、ベアトリーチェがその手にもった釣竿を頭上に掲げた。


「ゴーレムさーん!」


 ベアトリーチェの声に応えるように釣竿がなぜかキランと輝く。


  ●●●


 幽霊船から少し離れた船の上。甲板には、船員と船長がぼけーっと幽霊船を眺めていた。

 すると、突然船員が「あっ」と何か思い出したように声をあげた。


「そうだ、船長! あの人をこの船に乗せたのは――」

「御―――――――――――――――――――――――――――――――――――」


 轟く重低音が船内から爆発するように灰色の空へと一条の光が飛び出した。

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