回想〜アリスとセシル〜

 少しだけ、昔の話をしよう。


「くっそだる。父上も母上もぐちぐちうるせぇんだよな」


 セシル・ルルミアがまだ十を過ぎた頃の話。

 勉学やマナーといった貴族としての当たり前を押し付けられた毎日を送っていた彼は、日々に退屈を覚えていた。


 自由気ままで面倒臭がりのセシルであったが、幼少期は一段と深いものであった。

 何せ、自分のしたいことよりも侯爵家としての自分を求められ、強要されてしまう日々。自分とは違い、優秀で真面目な弟と比べてくる周囲。

 嫌気がささない方が難しい。これで甘んじて受け入れられるぐらいなら、セシルは今頃「無能貴族」だと言われずに侯爵家の嫡男として慕われていただろう。


 ───でも、セシル・ルルミアはよくも悪くも我が強い方だった。


 故に、ある日セシルは家を飛び出す。

 護衛も誰も連れず、自分のしたいことをしたいがために一人で外の世界へと飛び出した。

 しかし、箱入り貴族のボンボンが外に出たとしても、小遣いの大金があるだけで何ができるわけでもない。


 ただ、街中を彷徨って知らぬ人から声をかけられるだけ。

 唯一よかったのは、野盗や詐欺に合わなかったことだろう。


 でも、セシルとしてはそっちの方が刺激があってよかったと思っている。

 つまらない人生に刺激があれば、幾分か自由になれるのでは? そう思ったから。

 しかし、蓋を開けても結局は平和な一日が広がるだけ。

 次第に面倒臭くなってきたセシルは、日が暮れる頃には屋敷への帰路を歩こうとしていた。


 その時、ふと見えた。

 街を抜けたすぐ先にある、小さな教会の影を。

 聖職者でなければ信者でもない。足を運ぶ理由など何もなかったが、セシルは寄り道程度の感覚で、教会へと足を運んだのであった。


 すると───


「…………ッ!」


 教会の中に広がる景色。

 正確に言えば、礼拝堂いっぱいに広がるステンドグラス。茜色の日差しを受け、赤緑青黄色と輝く天井に、セシルは息を飲んだ。


 こんなにも綺麗なものがここにあったのか。

 芸術品にも広がる大海にも関心も感動も受けたことのなかったセシルは、初めて心を動かされた。

 そして、そこで出会ったのだ。


「あのー、もうお祈りは終わってますけど……」


 礼拝堂の奥から箒を片手に声をかけてくる少女。

 艶やかな銀髪は極彩色の光によって輝き、聖女の再誕のような幻想的な絵画と思ってしまうほど美しくセシルの視界に映る。

 息を飲むのは二度目だ。でも、それもすぐに終わる。


「わ、悪い、気にしないでくれ」

「気にするんだけど……だってお掃除してる最中だし、もう閉める予定だったんだもん」


 申し訳ないと思うのなら、ここで踵を返す方がよかっただろう。

 信者でも聖職者ですらないセシルが足を運ぶ理由など特になかったはずだし、そもそも空想的な女神を信仰する気さえない。

 いつもの自分であれば、普通に謝罪して回れ右をしていただろう。

 けど、その時のセシルは何故か動かなかった。


「……もう少し、いさせてくれないか?」


 懇願するように紡がれた言葉は、そんなものであった。

 どうして? その時のセシルは、自分でも分かっていなかった。


 煌びやかに輝くステンドグラスに心奪われてしまったから?

 退屈で、自由もへったくれもない世界に美しさを見てしまったから?

 ただ、ずっと見ていたい───それだけは分かった。


「しょうがないなぁ、もう」


 少女はため息を吐いて教団の横に箒を置くと、セシルの下まで近寄った。

 そして近くの長椅子に座ると、セシルに向かって何度か背もたれを叩いて見せた。


「座ったら? 立ちっぱなしよりも座った方が楽に見られるんだよ」


 促され、セシルはなんの警戒もなく少女の横に座った。

 そして、再び天井に広がるステンドグラスを眺める。


「……知らなかった、この街にこんな場所があったなんてさ」

「ふふっ、おかしな人だなぁ。教会なんて、どこの街にもあるのに」

「そりゃそうだ」


 でも、知らなかったんだ。

 自分の小さな世界ではこんなに美しい景色があるだなんて露にも思わなかった。


「……目に見えるものこそ、世界である」

「あ? 急にどうした?」

「んー、なんとなく? 言ってみただけ」


 少女はセシルの顔を覗き込んだ。


「女神様の教えなんだけどね、世界って本や誰かの言葉ではもっと広がってるんだけど、実際にあるかどうかって自分の目で見ないと真実じゃないんだよ。作り話かもしれないし、嘘かもしれないし」

「結局は他人を信じるなってことか? 現実逃避の延長線の偶像も、随分現実的な教えを言うんだな」

「違うよ、そうじゃないんだよ───結局は、自分の目で世界を見てこいってこと」


 そう語る少女の瞳には何が映っているのか?

 透き通った、美しい双眸はセシルと同じステンドグラスに向けられていた。


「……狭いよね、自分の世界って。一人で行ける距離なんて限られてるし、お金も食べ物も有限だし」

「…………」

「私も、結局はこの街しか知らないんだ。ここで働いているのも、自分の限界がここで終わってるから」


 それは辛いからなのか?

 自分も、同じようなことを思って今日この日……屋敷を飛び出した。

 だからからか、同情に似た感情がセシルに芽生える。

 だが───


「けどね、終着点が決まってるからって私は苦しいなんて思わないよ!」


 少女は立ち上がる。

 同情の余地さえ与えないほどの……満面な笑みを浮かべて。


「だって、この世界ですら美しいんだから! 狭いかもしれないし、窮屈かもしれない───でも、私の人生が暗いとは思ってない! だって、シスターも優しいし、この街の皆もいい人ばかり! この教会もとっても綺麗なんだよ!」


 女神の教えを否定してしまいそうな言葉。

 唐突で、矛盾で、眩しいぐらいに前向きで、どこか見透かされているようなもの。特段退屈なだけで落ち込んでもいなかったはずの心に、どこか温かさが残っていくのを感じた。


「だから、君の世界も思ってるよりつまらなくない! 新しい景色を見られた……もっとたくさんあるかもしれない! でも、今この瞬間が綺麗だって、そう思えたんだったら……それはいいことで、落ち込む理由なんてないんだよ!」


 故に、セシルは───


「ははっ、なんじゃそりゃ」

「あ、やっと笑った。つまんなそーな顔してたからちょっと心配だったんだよ」

「だから励ましたってか? 変わってんなぁ、お前」

「変わってないよ、シスターだもん! 困っていそうな人には手を差し伸べるのがお仕事ですえっへん!」

「店仕舞いじゃなかったのかよ」

「残業ってやつだね、社畜根性バンザイ!」


 大袈裟に手を上げる少女を見て、セシルはもう一度その顔に笑みを浮かべた。

 ただ横にいてくれるだけなのに、退屈で窮屈だと思っていた世界が綺麗に映る───そんな感覚を覚える。


「なぁ、お前……名前は?」

「アリス! 平民ながら家名はないけど……君は?」

「俺か? 俺はセシルだ」


 セシルは家名を名乗らなかった。

 平民相手に気を使ったからか? いや、そうじゃなくて───


「……また、来てもいいか?」

「うんっ! ここはいつでも誰でも歓迎だからね! 来る者拒まず───あ、次はもうちょっと早い時間に来てほしいんだよ。残業は好きじゃないのです」


 ───ここにもう一度、訪れたいから。

 貴族と平民という壁で、少女の横に座れないのは嫌だと思ったから。


 そんなことを思った日。

 これこそが、最愛者ラヴァーであるアリスとの出会いであった。

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