第2話 八尾比丘尼
両親も寝静まった真夜中、俺はこっそりと家を抜け出した。
「すごい満月だな……大きい」
道に出ると、誰も歩いていない。車も通っていなかったから、ぼんやりと夜空を見上げることも出来た。街灯以外の明かりが消えた空には、いつもよりも明るい星々と見たこともないくらい大きく見える満月が浮かんでいる。
ふと、満月が自分に迫って来る気がした。そんなはずない、そう言い切る自信を失う程に。
俺は不安を振るい落とすように
別に無策なわけじゃない。八尾比丘尼は、人魚の肉を食べた人間だと安藤は言った。だったら、水のあるところに行けば会えるんじゃないかって思ったんだ。
「うわ……真っ暗。これ、魚いるんだよな?」
近くの川には、車用と歩行者用、それぞれの橋が架かっている。俺はそれほど川幅のない川の橋から身を乗り出し、吸い込まれそうな程真っ暗な
「わっ!?」
その時、ぐいっと肩をつかまれ後ろに引かれる。バランスを崩した俺が驚きの声を上げて振り返ると、そこには暗くてもわかるほど青ざめた顔の女性が立っていた。茶色の長い髪がばさりと広がった。
「こんな時間にこんなところで何してるの? 危ないじゃない!?」
「へ!? あ、すみません……」
「わかればよろしい」
時刻は真夜中零時近く。小学四年生が出歩いていい時間ではない、よな。俺が素直に謝ると、女性は腰に両手をあててため息をついた。
ここで、俺はあることに気付く。小学生の俺は勿論のこと、こんな真夜中に女性が出歩いてもいけないだろう。男性でもそうだが。
「……ところで、おねえさんも出歩いてますよね? 何かあったんですか?」
「え? あ~……えっとね」
突然歯切れの悪くなるおねえさん。明後日の方向を見ていたけれど、何かを諦めたのかこちらをじっと見つめて来た。
おねえさんの瞳は、日本人のものじゃない。テレビで見る外国人のものでもなく、血のような赤色だ。例えるなら、朝焼けの色。とても綺麗だと思った。
「で、でもあなたこそが問題なの! どうしてここに?」
「……おねえさんは、八尾比丘尼って知ってますか?」
「―――っ」
「俺、その名前を今日初めて知って。で、満月の夜に現れるって訊いたから、人魚に関係するって言うし、水がある川なら会えるかなって思ったんです」
俺が言い切ると同時に顔を上げておねえさんを見上げると、おねえさんをさっきのようにまた青ざめている。目も泳いでいるような気がするし、何か変なこと言ったかな。
首を傾げると、おねえさんは肩をすくめた。そして、苦笑を交えて俺と目を合わせるために膝に手を置く。
「人魚の肉を食べたとはいえ、もとは人間だもの。水に未練があるとかないとか、そういう感情はないのよ」
「そうなのか。……ん? 何でそんなこと知ってるんですか?」
「隠しても、きみは無闇に探し回りそうだし。――わたしが、きみの探している八尾比丘尼。ヤオって呼んで」
「え? ……えええぇぇぇぇっ!?」
「叫びすぎ」
ヤオさんに導かれたのは、川原の堤防部分。川原に下りる坂になっているところって言ったらわかりやすいかな。そこに隣り合って座った。
満月を見上げ、ヤオさんはくすりと微笑む。寂しげに笑って、俺が想像もしなかったことを話し出した。
「わたしは見た目、多分千年くらい変わってない。おかしな奴って思うかも知れないけど、八尾比丘尼になって何年過ぎたかもわからない。だから……もう、自分の本当の名前も忘れちゃった」
「だから、ヤオ?」
「そういうこと。きっと、わたしはこれからも独りで生きていく。大怪我をしたらどうかわからないけど、少なくとも
千年は生き続けていると言うヤオさん。彼女の見た目は高校生くらいだけど、本当の年齢は途方もない。古着に見える洋服は見た目相応だし、茶色の髪も染めたのかなで通りそうだ。
けれど彼女曰く、髪は日に焼けたものらしい。服も、昔お世話になった人にもらったのだとか。
「じゃあ、満月の夜だけ現れて他人をさらうって言うのは?」
「そんな話になってるんだ。きっと、昔にわたしが頼んだからね。……昔は、真夜中に出歩く子どもをさらう人さらいがいたから。わたしみたいな怪しい存在のせいにしてしまってって言ったの」
「じゃあ、
いきり立つ俺に、ヤオさんは「優しいのね」と笑った。よく笑う人だと思うけれど、そこには底知れない悲しみが隠れている気がする。何故か、目が離せなかった。
「いいの。だって、そうすれば子どもたちが怖い目に合わずに済むでしょ?」
「そうかもしれないけどっ。……ヤオさんが悲しいじゃないか」
何故か、涙が出て来た。俺が慌てて袖で目を拭うと、ふわりとあたたかいものに包まれた。それがヤオさんだと気付いたのは、耳元に彼女の声を聞いたから。
「ありがとね。――初めて逢った人にそんなこと言われたのは初めて」
「俺は透夜。鹿野山透夜だ。『初めて逢った人』じゃない」
「そうだね、透夜」
いつの間にか、敬語が抜けていた。ヤオさんはそれを指摘するでもなく、俺の頭を撫でてくれた。きっとそうして欲しいのは、彼女の方なのに。
しばらく俺を撫でていたヤオさんは、ふっとため息をついた。その息が俺の前髪を揺らして、顔を上げた。
ヤオさんは悲しそうに、そして同時に諦めた表情をしていた。
「そろそろ、行かないと」
「行く? 何処に」
「噂が、わたしがここにいるって噂がきみのような小学生にも届いた。そして、きみみたいに探す子がまた出て来る可能性がある。……八尾比丘尼は、アヤカシモドキ。人とかかわっていいはずがない」
「あやかし、もどき」
何を言われたのかわからない。ぽかんと口を開けた間抜け面の俺を見て、ヤオさんは優しい顔で立ち上がった。そして一度だけ、俺の髪を
「わたしは、永遠を生きるから。透夜くんは幸せに死ぬんだよ。――約束ね」
「――っ、待ってよ! 俺は」
「これは夢。きみは、今夢の中にいる。そしてきっと、明日には忘れて学校に行くの。……ね?」
「俺は……」
言葉が出て来ない。のどにつかえて、出て来いと呼んでも出てはいけないんだとだだをこねる。わかってる。彼女を引き留めてはいけない。ヤオさんと俺たちの生きる時間は違いすぎるんだ。
例え俺がヤオさんに言いたいことがあったとしても、言うべきじゃない。
だから俺は、ヤオさんに笑顔で手を振った。
「元気でな、ヤオさん!」
「きみもね、透夜くん。幸せになるんだよ」
わたしがなれない分も。何故か、ヤオさんの声が聞こえた気がした。
視界がにじむのがもどかしい。ヤオさんは俺の手を引いて街灯が多い道まで連れて行ってくれて、俺を見送ってくれた。
彼女が何処に行くのか、俺には訊けなかった。
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