生きろ➀


 


 少し汗ばむような、べたべたした空気が顔に貼りつく。今日は、初夏の陽気だ。

「ねえお里江ちゃん。最近は、誰も来ないね」

 総司はここのところ毎日のように同じ台詞を口にしている。額の汗を拭いながら、この汗は暑さのせいなのか、自分の熱が上がっているからなのかとぼんやり考えた。だが「自分で拭けるから」と里江から手拭を取り上げるだけの元気はまだある。やはり暑さのせいだろう。

 もう治らない。いや、治るかもしれない。治ったら、すぐに勇たちに追いつかねば。気持ちは振り子のようにいったりきたりする。

「みなさんお忙しいでしょうからね。けれど、すぐに薩長の軍を蹴散らして、会いにきてくれますよ」

 里江の台詞も、毎度同じである。

 同じような問いかけに、苛立ちの色も見せずに同じように答えてくれることが、総司にとってはなんだか心地よかった。

「近藤先生はどうしているだろう。島崎先生に、土方さん。皆……」

「きっと、今頃勇ましく戦っていらっしゃいますよ」

 総司には、その里江の声が少し震えているように思えた。気のせいだろうと、深く考えないことにした。

 

 この日の瓦版には、「近藤勇他新選組隊士、板橋獄中へ」と書かれていた。里江の袂には、くしゃくしゃに丸められたそれが入っていたが、総司には知る由もなかった。


 *** 

 

 さくらは、ぼんやりと格子窓の外を眺めている。

 斬首と聞いて、さくらは「それならば今ここで腹を切る」と息巻いた。どうせ死ぬのなら、武士として腹を切らせてくれと。だが、香川は鼻で笑いながらこう言った。

「武士として? 笑わせるでない。お前はただの密偵の女だろう。新選組の幹部だなんて、近藤や土方は騙せたかもしれんが、我らは違う」

 別に、敵に認めて欲しいとは思っていない。「密偵の女」であるのは事実だ。それでも、新選組で、諸士調役・監察方の筆頭として任務に邁進してきた日々が、バッサリと斬り捨てられたような屈辱感をさくらは覚えた。これが負けるということなのだ。思い知った。さくらは、淡々と「その日」を待つことになった。

 座敷牢にぽつんと座り、することもなく冷静になると、いよいよ自分は死ぬのだという現実がずん、とのしかかってくる。あの世には先に逝った仲間もいる。そう思えばいくらか気休めにはなったが、やはり、まだこの世で奮闘している仲間を残していくのは気がかりである。

 ——こんなことなら、もっと、きちんと別れの言葉を告げればよかったか……。

 歳三の顔を思い浮かべる。いつでも死ぬ覚悟はできているつもりだった。だが、死ぬ前にもう一目だけ。こんな風に、未練が残る。

 今、気持ちを話して分かち合えるのは勇しかいないというのに、二人は別の座敷牢に入れられていた。さくらと同じく取り調べを終えた勇は、手慰みに本を取り寄せ静かに過ごしているらしい。

「私も、本でも読むかな……」

 この期に及んで読書が何になる、と思っていたが、気を紛らわすにはうってつけだろうと気が付いた。どんな本がいいだろうか。考えていると、とたとた、と足音が聞こえてきた。

「おねえちゃん。おはよう」

 さくらのもとにやってきたのは、トミという名の少女だ。この座敷牢を含む脇本陣を預かる岡田家親族の子供らしく、時折母親に怒られながらもこうして座敷牢に遊びに来る。トミ曰く、普通なら「おっかないおじさん」ばかりの中、「おねえちゃんがいるなんて珍しい」から、遊びに来るのだという。さくらがなぜ座敷牢にいるのかを知ってか知らずか、物怖じせずに接してくれていた。もう髪を結い上げることもせず、与えられた粗末な着物を着たさくらは実際より老けて見えるはずだ。おねえちゃんと呼ばれることに少々の罪悪感はあったものの、まんざらでもなく。「おねえちゃんなんかじゃないよ」と否定することなくそのままにしている。この程度は、お天道様も許してくれるだろう。

「お武家さま、元気そうだったよ」

「そうか。ありがとう」

 勇と会うことを許されていなかったさくらにとって、トミがこうして伝えてくれる勇の様子は、貴重な情報だった。

「おにいちゃんたちは、寝てた」

 と、トミは続けた。相馬と野村のことだ。二人は同じ座敷牢に入っている。

「ふふ、そうか、寝てたか」

「おねえちゃんは、いつまでここにいてくれるの?」

「……わからない」

 さくらははぐらかした。トミはそれを聞いてにこっと微笑んだ。

「なるべく長くいてね! はい、これ」

 トミは格子の隙間から折り鶴を差し入れてきた。さくらは短く礼を言った。これ以上仲良くなってしまえば、トミを悲しませてしまう。

「トミ。もう、ここに来てはいけないよ」

「どうして?」

「どうしてもだ。鶴を、ありがとう」


***


 最期に二言三言くらいは交わさせてやろうという情けだろうか。刑に処される当日の午前、さくらはようやく勇との対面を許され、座敷牢を訪ねた。

 目の前の勇は、痩せて、かつての覇気のようなものがなかった。それでも、今朝方髪と髭を整えてもらったのだと笑うその顔は、さくらのよく知っている勇の笑顔だった。

「さくら、老けたな」

「し、失礼な……!」

 さくらだって、髪を梳き、髷を結ってもらった。迷った末、女の髷を。

 勇に会えたら話したいことがたくさんあったはずなのに、言葉が出てこなかった。「波乱万丈だったよな」と人生を振り返るのも、「歳三や総司はどうしているだろうか」と答えのわからぬ問いを投げかけるのも、違う気がした。どの道揃ってあの世に行くのだから。そんな諦めの気持ちが大きいからかもしれない。

 だが、勇は衝撃的なことを口にした。

「さくら。お前は生きろ」



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