初めての

 教えてもらった住所を地図アプリに入れ、そのガイドに従って歩く。道中のドラッグストアで、スポーツドリンクやゼリー飲料、熱冷ましのシートやらを調達した。


「あ、この公園……」


 見覚えのあるそこは、カルテット練習の帰り、美音を送った時に立ち寄った公園だ。

 あの時はまだ、関係も少しぎこちなかったっけ。たった三か月前のはずなのに、何だかもう、随分前のことのような気がする。


 あの時、この公園から家まではすぐと言っていた。

 果たしてその通り、五分と経たずして、目的のマンションに到着。


「……大丈夫」


 そう自分に言い聞かせながら、彼女の部屋番号のインターホンを押す。


「……はい」

「あの、月島さんの友人の、藤奏です。学校からのプリントを届けに来ました」

「……調、ありがと。入って」


 応答してくれたのは美音本人だったようだ。

 オートロックの解除を確認すると玄関のドアを開け、エレベーターに乗る。

 そして彼女の部屋まで辿り着き、改めてインターホンを押した。


 程なくして、鍵を開ける音が。


「どうぞ」

「お邪魔します……」


 部屋着姿の美音。やや顔が赤いように感じるが、ひとまず動けてはいるようだ。僕はリビングに通される。


「そこの椅子に座って」

「うん」


 ダイニングテーブルの一席を促され、腰掛ける。彼女ははす向かいの席に着いた。


「ごめんね、急に押しかけて」

「ううん、あかねちんが押し付けたんでしょ?」

「まあ、否定はしないけど……。それより、具合はどう?」

「朝の熱が三十七.八くらいで、もともとめちゃくちゃ重症って訳ではなかったんだ。午前中に寝てたら、今は三十七度前後までは下がったよ」

「そうか……よかった。お母さんは、仕事?」

「うん。もう高校生だし、さすがに娘の風邪くらいで仕事は休めないよ」


 そう言う美音は、やっぱり寂しそうに見えて。


「美音。昨日のこと、ごめんよ。デビューのことは、この前事務所できっぱり断ったんだから、僕が蒸し返すことじゃなかった」

「ん……もういいよ。今日、来てくれたし」

「ありがとう。あと、チョコレートも。すごく美味しかった」

「食べてくれたんだ……よかった」


 呟くように微笑む美音。僕もそれ以上のことを言えなくて、少しの沈黙が流れる。


「ヴァイオリン、弾きたいなあ……」


 美音がポツリと言った。


「うん、早く治して、また弾いたらいいよ」


 しかし僕のそのコメントに、彼女は何やら苦笑した様子で否定する。


「ううん、そういうことじゃないの」


 ええと、どういうことだろう。美音の意図が分からない。

 僕が困惑した様子を見て取ったのか、彼女が語り出す。


「『REDAWN』が終わっちゃったから。

 私、調の創る音楽が好き。調と一緒に弾くのが楽しい。

 だから昨日、調が『他の人の曲で』なんて言い出した時、何だか悲しくなっちゃって。私の方こそごめんね、調は何も悪くないのに」


 ……何だよ。

 

 そんなの、そんな言葉聞いたら、僕ももう我慢なんてできない。

 思わず椅子から立ち上がる。


「僕もだよ。

 『REDAWN』はさ。美音、君のことを考えながら創ったんだ。

 四季色カルテットの本番が終わるときに、美音と一緒に弾けなくなるって、初めて気づいてさ。バカだよね。楽しすぎて、終わりが来るなんて、ちっとも考えてなかった。

 だから、出てきた曲を、わざわざ二重奏デュオにして。

 君と一緒に、もっと音楽を続けたかったんだ。

 今回の『REDAWN』はいったん区切りがついたけど、これからも、僕と一緒に音楽をしてほしい。……いや、それだけじゃない」


 改めて、真っ直ぐ彼女の眼を見た。


「美音、僕、君のことが好きだ。

 演奏者プレイヤーとしてでもなく、友人としてでもなく。

 恋人として、僕と付き合ってほしい」


 ……今言うべきでは、なかったのでは?

 風邪で弱っている女の子に、自分の都合で気持ちをぶつけるなんて。


 僕の中の冷静な部分が、そんな非難を浴びせてくる。


 でも、自分を抑えることができなかった。


 そんなグルグルと渦巻く感情で一杯一杯になり、彼女が返事をするまで、とてつもなく長い時間が経っているような気がする。でも実際は、そんなことはなくて。


「……私も、だよ」


 美音はまずそう言った。


「私も、調のことが好き。

 初めて会ったときは、楽器がすごい上手な人だなあって。でも、ファンナイのメロだって知ってからは、妙に納得しちゃった。

 でも調はさ、こんなに大人気のクリエイターなのに、そんなこと全然気にしてなくて。純粋に音楽が大好きで。

 周りのことをちゃんと見ていて、私のこともいつも気にかけてくれて。

 そんな調と一緒にいるのが楽しくて。

 ホントは私もう、調がいない生活なんて考えられない」

「美音――」

「うん。私も、調と恋人として付き合いたい」

「……ありがとう。

 あと、ごめん。僕もう、我慢できない。そっち行っていい?」

「え、え?」


 僕は彼女の返事をまたず、テーブルをぐるりと回り、その隣へ。

 彼女の手を取って少し上に引っ張ると、つられてその場に立つ形になる。

 そのまま、その肩を抱き締めた。


「わ、わ……」


 驚きながらも、僕の背中に回ったその腕が優しく押し付けられるのを感じて、僕ももっと力を込める。


「美音、好きだよ」

「私も好き」

「好きだ」

「好き」

「好きだ――」


 二人して何度も、お互いの気持ちを確かめ合うように、同じ言葉を口にしていた。


 どのくらいそうしていたか分からないけれど、僕は彼女の肩に手を置いて、いったん離れる。


「……キス、したい」


 ふと漏れてしまったその一言に、彼女は頬を赤らめ、少し顔を背けた。


「風邪、感染うつっちゃうから……」


 こんな時でも僕の心配をしてくれる彼女が、とても愛おしくて。


「もう、遅いよ」


 彼女の頬に手を当て、そのおでこに口づけた。


「……これでお終い?」


 何だか寂し気に、目を潤ませる美音。

 僕はゆっくり首を横に振る。


 彼女が目を瞑った。

 今度は、その唇に、一度だけ――。

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