失恋ソングもいいじゃない
遂に、この日が来たか……。
ネット上で「メロ」として活動している僕だけれど、ソロ時代もファンナイ時代も、自身の顔や肉声をネット上にあげたことはない。僕にとっては、曲を作ること、その曲にみんなが感想を言ってくれること、が楽しいのであって、有名になりたいとか、そういう気持ちはあまりない。
そういう訳だから、所謂「身バレ」が起こる可能性はほぼないだろうと思っていた。
でも、こんなところでバレてしまうなんて……。
僕は目の前の少女を見つめる……すごく真剣な表情だ。
月島さんは、とても素直な心を持っていて、嘘偽りのない人だと思う。
……まだ出会って二日目で何が分かるんだ。そう思う人もいるかもしれないけれど、彼女の演奏を聴いて、僕はそう感じたんだ。
ああ、この人は本当に、『メロ』が、『メロの音楽』が好きなんだ……。
そう思った瞬間、僕の口から言葉がこぼれ出ていた。
「……うん。実は、僕が『メロ』だ」
「やっぱり!!」
彼女の声のトーンが一段階上がる。
「あ、でもお願い、このことは……」
思わず小声で懇願する僕。
「あ、うん、大丈夫よ。もちろん、他の人に言うつもりなんてないから」
「そうか、よかった……。やっぱり身バレしちゃうと、色々活動もしにくくなりそうだし、怖いから」
「そうよ!わざわざ『メロ』の音楽活動を妨げるなんてこと、ファンとしてできるわけないじゃない!
「ちょ、声、声がデカい!!」
「あ、ごめん……」
ふう、素直過ぎるのも時には考え物だね。
「私はただ、『こんな素敵な曲を作るのはどんな人なんだろう』ってずっと思ってたから。『もしかしたら』って思い始めちゃうと、確かめずにはいられなくて。
まさか、こんな同い年の男の子だなんて、想像してなかったけどね」
「あはは、どんな人だと思ってたの?」
「ええと、二十代後半くらいで、爽やかだけど知的な感じ?」
「む……ごめん、期待に沿えなくて」
「ふふ、良いよ、そんなこと」
「そう言ってくれると助かる。
じゃあこの件は、くれぐれも口外無用、二人だけの秘密、ってことで」
「二人だけ……うん、もちろん」
「よろしくね」
話が広まっちゃうリスクは、もちろんあるだろう。
でも、ここまで『ファンです』って面と向かって言われたのは初めてだから、なるべく誠実な対応をしたい。
あーでも、八代さんには一応報告しておかないといけないかぁ……うわー、怒られそう。
そんなことを考えていると、彼女がヴァイオリンを取り出した。
ササっと準備を終えてフレーズを弾き出す……あ、これ、『Citrus Season』のイントロだ。ヴァイオリンだから、本来のフレーズの一オクターブ上だけど。
「うーん、やっぱりヴァイオリンで弾いちゃうとイメージ違うよね。明るくなり過ぎちゃう」
「ふふ、
ヴァイオリンとヴィオラ。
二つの楽器の違いは、まずその大きさ。
ヴァイオリンよりヴィオラの方が一回り大きい分、楽器の胴内で音がややこもり、低い音域、昏めの音色になる。
そしてもう一つの違いは、張ってある弦の音程。
どちらも四本の弦が貼ってあって、左手の指で弦を押さえない状態で弾いた場合、ヴァイオリンは、低い方からそれぞれソ・レ・ラ・ミの音が鳴る。
一方のヴィオラは、低い方からド・ソ・レ・ラの音。
「ソ・レ・ラ」の弦は共通で、ヴァイオリンは更に高い方に弦(ミ)が増え、ヴィオラは更に低い方に弦(ド)が増える、と考えると分かりやすい。
音楽をやっていると、「ドレミファソラシド」は「CDEFGABC」のアルファベットを当てはめて言うことも多く、特に日本のクラシック界はドイツからの影響が強いから、「シーディーイー」という英語読みでなく、「ツェーデーエー」とドイツ語読みで音を言い表すのが一般的なのだ。
ちなみに「ドレミファソラシド」はイタリア語で、キリスト教の賛歌の歌詞の頭文字から取られた、らしい。
まあそういう訳で、「ヴィオラのC線」というのは「ヴィオラでドの音が出る弦」、つまり「ヴァイオリンにはない低い方の弦」を指すんだな。
「だよねー!
私、ヴァイオリン弾きだけど、ヴィオラの音も好きなんだ。暖かい感じの時もあれば、寒い感じの時もある。不思議な楽器だよね。
クラシックを知らない人たちにとっては、ヴィオラってマイナーな楽器だと思うけど、この曲がきっかけで、ヴィオラの魅力に気付いてくれる人が増えるといいよね」
「あ、ごめん。この曲は僕が私的に作ったもので、発表するつもりはないんだ」
僕がさらっと述べると、
「ええーーーーーー!!!何で、何で!?
絶対もったいないよ、こんなに良い曲なのに」
うーん。
仕方がないので、僕は経緯を説明することにする。
「まあ恥ずかしいから簡単に言うと、この曲、ある女の子に告白するために作ったんだ……完璧振られちゃったけどね。
月島さんが拾った二次元コードは、彼女に送った手紙の切れ端。
そういう曲だから、世に出ることは考えてない。今の流行りにはあんまり合ってないと思うし」
僕がそう言うと、彼女は何だかしんみりした表情で、
「……そうなんだ」
と一言呟いた。
「……ごめんね、何だか暗い雰囲気にしちゃって」
「ううん、こちらこそ、辛い話をさせちゃって、ごめん」
場を沈黙が支配する……音楽室だというのに。
すると月島さんはヴァイオリンを構えて、旋律を奏で始めた。これは――。
一通り演奏が落ち着いたところで、僕は彼女に尋ねる。
「ブラームス?」
「うん、『雨の歌』。私、ブラームスも好きなんだ」
彼女が弾いたのは、ブラームスのヴァイオリンソナタ第1番『雨の歌』の第一楽章だ。
「ボロディンの、特に今やってるカルテットは、奥さんとラブラブ~、って感じ。もちろんそれはそれで素敵なんだけどね。
ブラームスは逆に、内向的で、人に言えない複雑な気持ちを隠してる、って感じ。うーん、ブラームスの良さは、言葉で説明するのが難しいんだけど……」
「いや、分かるよ、月島さん。僕もブラームスは好きだ」
「うん。ほら、ブラームスってさ、やっぱりクララとのエピソードが有名じゃない」
ブラームスには、ロベルト・シューマンという恩人がいる。シューマンもクラシック史に名を遺す作曲家で、ブラームスの二十三歳年上。
ブラームスが二十歳の頃。
当時既に作曲家として名を馳せていたシューマンの元に、彼は自身の曲を引っ提げて訪れた。若きブラームスの才能に惚れ込んだシューマンは、ブラームスが世に出るのに尽力してくれたらしい。
これだけなら美談だが、シューマンにはクララという妻がいた。美しい女性だったようで、彼は十四歳年上のクララに恋をしてしまう。
恩師の妻への禁断の愛だ。
結局彼らが結ばれることはなかったが、このエピソードはクラシック界では有名で、ブラームスの音楽を語る上で引き合いに出されることも多い。
「ブラームスがクララへの恋心を直接表したような曲はないかもしれないけど、でもやっぱり、作曲のモチベーションと言うか、インスピレーションの原因の一つにはなっていたと思うの。だって音楽って、感情表現だから。
だからさ。想いを込めた曲ほど、それは形にするべきだよ。失恋ソングもいいじゃない。
今じゃなくてもいいかもしれないけど、気持ちが落ち着いたら、『Citrus Season』もちゃんと発表した方がいいと思うな、私は」
うーん、そういう考え方もあるのか……。
「ところでその女の子、『Citrus Season』聴いてくれたの?」
「はは、それが、僕のミスで、そのときはアップロードできてなかったんだ。でも、彼女には既に恋人がいて、全然脈なしだったんだよね……はあ」
ダメだ、笑い話にしちゃいたかったけど、最後にため息が漏れてしまう。
でもそんな僕に、彼女も声をかけてくれる。
「じゃあ私が、この曲を聴いた第一号なんだ、えへへ」
「まあ、そうなるね」
「なるほどね。あ、それはそうと、ボロディンの練習に付き合ってくれない?
二楽章がさあ――」
それでも、月島さんと一緒に音楽活動に打ち込んでいると、この時の僕は、失恋の傷みを忘れられていたんだ。
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