月島美音
ボロディンの『弦楽四重奏曲第2番』の冒頭は、チェロによる美しい旋律で幕を開ける。
素朴だけれど気高い、僕はそんなイメージを持っていて、聴く人の心を一瞬で鷲掴みにしてくる、そんな名旋律だ。
吉田さん、前回から少しニュアンスを変えてきたな。
あんまりゴテゴテになりすぎない、あっさりしたテンポ感だ……と思ったら、フレーズ最後の三連符をたっぷり歌う。なるほど、ここを聴かせたいってことか。
たった四小節のフレーズが、今度は第一ヴァイオリンに引き継がれ、もう一度。
皆の意識が月島さんに向く。
チェロがさっきの三連符で作った雰囲気を壊しすぎないよう、少しゆっくりめのテンポ感で入ってきて……やや巻いていって冒頭の速度に戻り、五小節目以降、ヴァイオリンのフレーズが展開していく。
おっと、今までより速いというか、アグレッシブな感じ。
明石さんはここはしっとりめの演奏だった。解釈の違いに多少面食らうが、この程度なら許容範囲。あ、最後の四分音符はやや短めに行くんだ。明石さんは丁寧に収めていたけど、月島さんのこのニュアンスの方が、聴衆の印象には残るかも。
そこからはしばらく、同じフレーズが第一ヴァイオリンとチェロの間でやり取りされる。
そして練習番号Aに入ると、今度は別のメロディ。
先ほどまでの甘さが身を潜め、力強く、ロシアの民族っぽい雰囲気が押し出される。それでもフレーズ自体はキャッチーで、これも耳に残りやすい。
こういう民族っぽい親しみやすさも、ボロディンの魅力だ。
それにしても月島さん、楽しそうに弾くなあ。
「この曲が好き」という気持ちがとても音に乗っていて、こっちもテンションが上がる。
ちらりと周りを見ると、坂本さんも吉田さんも、心なしかいつもより表情が柔らかい。
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1楽章の通しが終わった。皆、自然と明石さんの方を向く。
「あー……」
ポリポリと頭を掻きながら、明石さんは何やら考えている様子だが、ややあって口を開いた。
「俺はさ。この曲の主役は、チェロだと思ってんのよ。今までそのつもりで組み立ててきたんだけど……」
その目線は月島さんの方へ向くと、彼女は慌てたように言った。
「す、すみません!私、楽しくてつい、自分勝手に弾いちゃってた……」
「そだな。普段はレッスンでソロの曲を練習することが多いと思うけど、これはアンサンブルだからな。他のパートとの対話が必要だ」
「はい……確かにこの曲は、チェロが素敵ですもんね。すみません、次からは――」
しかしここで、月島さんの喋りを明石さんが遮る。
「いや、そういうことじゃないんだ」
今度は僕らの方を見て、
「さて、みんな。
なるほど、そういうことか。でもそれについては……僕からは何とも言えない。坂本さんも同じような表情をしており、自然と吉田さんに注目が集まる。
「どうしたいもこうしたいも、路線変更、ってことじゃない?」
「吉田さん、いいんですか?『自分が主役』って話なのに」
「調君、高校生は大人に気を遣わなくていーの。
それに、あんなに嬉しそうに弾かれちゃったら、おじさん何も言えねーよ」
「そうねえ。若者が楽しそうに音楽やってるのは、やっぱり良いわよねえ……あらやだ、私もおばさんになったってことね」
「そうそう。だから今回の主役は、若者二人ってことで!」
「え、二人って、僕もですか!?」
「調ー、お前ヴォオラだからって、一歩引いて弾くのが癖になってんじゃねえか?この曲はヴィオラも美味しいとこたくさんあるんだし、もっと自分を出していいぞ」
「あ、明石さんまで!?
と言うか、この曲は作曲者のボロディンが、付き合って二十周年記念で奥さんに送った曲でしょう!?」
「いやまあ、それはそうなんだけど」
「じゃ、僕らが主役ってのは、おかしくないですか!?低音のチェロが夫で、高音の第一ヴァイオリンが妻。その掛け合いが、この曲の醍醐味じゃないですか」
「おいおい……」
捲し立てる僕を、明石先生が呆れた顔で遮る。月島さんと吉田さんを指さして、
「夫婦?」
「うっ……」
果てはうら若きJK。客観的に見ても、かなりの美少女だ。
一方は……ダメだ、コメントすることができない……。
言葉に詰まる僕を見て、吉田さん本人がけらけらと笑う。
「こーんな小太りのおっさんが旦那なんて、美音ちゃん泣いちゃうわー。行き遅れた高位貴族が、権力を縦に身分の低い下位貴族の娘を無理やり娶った、って感じ?」
「お、吉田さん、その解釈新しい!」
「明石さん、悪乗りしないでください。私は嫌ですよ、そんなボロディン」
「ですよねー」
若者たちを放って盛り上がる大人たち……僕たちが主役って言ってた癖にさ。
「ふふふ……」
あれ、何だか月島さん、笑ってる?
「どうしたの?」
「あ、すみません。皆さん、仲良いんだなー、って思って。何だか家族みたいですね」
「家族?」
そこに吉田さんが反応する。
「お、その解釈、良いかも!」
「え?」
「家族だよ、家族。二十年ともなれば、子供もいい年でしょ。ちょうど君たちと同じくらいの年齢かも。その感じでやってみるのはどう?」
「あら吉田さん、それは素敵ね」
「え、でも、ボロディン的にはこの曲は奥さんに……」
「調、それは確かにその通りだし、作曲家の意図を汲むことは大切だけどな。
『自分なりのイメージ』って奴をそこに注いでいかなきゃ、音楽の意義がないぞ」
「はあ……」
そうなのかな。僕は割と、「この曲が好き」っていう気持ちだけで弾いてるんだけど……。
考え込む僕を他所に、明石さんがまとめる。
「とりあえず今日出た『家族』ってキーワード。
いきなり音にするのは難しいだろうから、それは今後の課題ってことにしよう。
さ、話しすぎた。今日は1楽章と2楽章を重点的にやる感じにするか。
まずは冒頭から。吉田さん、最初のメロディの歌い方なんだけど――」
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1楽章を一時間ほど練習し、いったん休憩。明石さんと吉田さんは部屋を出ていった……明石さんはトイレ、吉田さんはたばこ、かな。
坂本さんは黙々と曲をさらっている。
月島さんは、イヤホンを耳につけて何か聞いている。次にやる2楽章だろうか……にしては、何だか神妙な顔つきだ。と思ったら、急に顔が明るくなった。この子、表情がコロコロ変わるんだな。
あんまり見ていても悪いし、僕は自分の練習に入ることにする。
「自分を出す」か……。
ヴィオラとはそもそも、伴奏楽器だ。メロディを担当することは少なく、和音を奏でたり、リズムを整えたりする役割が多い。
そう聞くと「つまらなそう」と思う人がいるかもしれないけど、そんなことはない。ヴィオラの演奏次第で、曲の表情や、メロディの弾きやすさがガラリと変わるのだ。
例えば冒頭のメロディ。チェロの四小節間と、それを受け継ぐヴァイオリン、最初の八小節間。
ヴィオラは裏で「レ」の音を八回弾くだけだ。しかしこれもなかなか奥深く、シンコペーションのリズムは速すぎるとメロディを煽ることになるし、遅すぎても足を引っ張ってしまう。
音色的にも、パリッと弾くかしっとり弾くかで全体の雰囲気が変わっちゃうから、良い塩梅がどこにあるのか、今も研究中。
地味だけど、僕的には結構こだわりポイントなんだよね。
「自分を出す」って、そういうことではないのだろうか。
自分……そんなことを考えていると、柚季の顔が思い浮かぶ。ああ、せっかく忘れてたのに。
どんより落ち込む気分の中、僕は何とはなしに弓を構える。オリジナルのフレーズ……柚季のために作った、例の曲の冒頭だ。結構いいメロディだと思うんだけどな。
「あーっ!!!!」
「わ、月島さん!?な、何!?」
「それ!その曲!」
ダダッと僕のところに駆け寄ってくる月島さん。
「な、何だよ」
「今、君が弾いたフレーズ、何!?」
「何って……」
彼女はゴソゴソとポケットから何かを取り出した。
「あ、その紙!?」
何かの切れ端のようなそれは、確かに見知ったもので。
二次元コードと、「聞いてほしい曲がある」のメッセージ。
「ここからWeTubeに繋がって曲が聴けるんだけど、今君が弾いてたのと同じ!最初はヴィオラのソロなんだけど、だんだんバンドサウンドになっていって……それ、ファンナイの新曲っぽいの!」
うーん、どう説明したものか……。
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