恋に歳の差なんて
蔵
しっかり者のあの子
今日も暑い。
空は青く雲はなし。7月に入ってからずっとこれだ。嫌になる。向こう側にあるはずの信号機が暑さではるか遠くに見えてきた。なんだかゆらゆらしているし、これが蜃気楼ってやつだろうか。
赤くぼんやりした信号が青に変わると、信号待ちをしていた一団がため息をついて歩き出す。前に誰もいなくなったところで我に返って、太陽を避けようと下を向いたまま一歩遅れで歩き出した。せっかく上からの攻撃を避けても、横断歩道の白い部分が逃がさんとばかりに太陽光を跳ね返してくるのであまり意味はない。思わず左腕で前を遮る。
汗を拭いながら顔を上げると、信号の青がちかちかと点滅している。暑い中こうして毎日登校しているだけでも重労働なのだから、そう急かされても走ったりする体力など残っていない。
歩く速度を変えずにいると、横断歩道ギリギリに停まったワゴンが目に入った。運転手の顔を見たわけでもないのに圧を感じるのは何故だろう。ちょっと小走りするそぶりを見せると、もう少しで渡り切る、というところで小さな手に思い切り引かれた。
突然のことで態勢を崩しながら段差を超えて歩道に上がると、背後でさっきのワゴンが動き出す。ずり落ちた鞄を肩にかけなおすと、太陽を反射する赤いランドセルを背負った2つ結びが、俺の腰の辺りでで不機嫌そうな顔をして口を開く。
「また、クラクション鳴らされたいんですか?」
◇
大きな梅の木が鎮座する公園は、この町のシンボルだ。普通に通学路を歩くより公園内を横切る方が近道なので、小学生の頃からずっとこの公園を歩いて登校している。半年程前から同行者が1人増えたが、それはずっと変わらない。
「
「はあ……ごめんね」
「本当に思っていないのなら謝罪なんていりません。意味がないので」
ごめん、と言いかけてすんでのところで止めた。
置き場のない沈黙が気まずくて、なんとなく周りを見回す。朝の公園はどこか清浄できれいだ。朝の光が葉っぱの形を濃くかたどって道を照らしている。早起きも夏も好きになれないが、この場所は好きかもしれない。
少し前を歩くランドセルを見ると、まだ不機嫌そうにスタスタと早歩きをしていた。くるみちゃんは俺を説教するときはこちらを見ない。呆れて顔も見たくないということだろうか。
ふと、初めて会った時のことを思い出す。
前日の晩、ついつい夜更かしをして、寝ぼけた目をこすりながら横断歩道をふらふらと歩いていた。その日は小雨が降っていて、自分の傘で信号機が見えていなかったのがいけなかったのかもしれない。
横断歩道を半分くらい渡ったところで、けたたましくクラクションが鳴る。傘を傾けて前を向くと、青だと思っていた信号はいつの間にか赤く輝いていたらしい。目の前の歩道を通りかかったサラリーマンの顔を見たとき、あ、これやばいのかも、と直感した。車が突っ込んでくる音がやけに遠くで聞こえる。
「走れ!」
足を止めそうになった時、車のエンジン音に紛れて、高い声がした。その声につられて、持っていた傘を放り出して目の前の歩道へ走る。濡れた道路が走りにくい。足にぐっと力を入れて、滑る足を踏ん張りながらおもいきり走った。
歩道に足がかかるかかからないかの所で、すぐ後ろを猛スピードでワゴンが通過する。どうやら止まる気はなかったようだ。
呆然と横断歩道を振り返る。さっきまで手に持っていたビニール傘は、ワゴンのスピードに吹き飛ばされてガードレールに引っかかっていた。慌てて傘を回収すると、車は何事もなかったかのようにいつも通り行き来を始めた。傘を畳んで振り返ると、赤いランドセルが目に入る。
「死にたいんですか?」
その時も、不機嫌な顔をしていた。それが、あの時「走れ」と声をかけてくれた小学生、
あの日から、この小さな女の子は毎日同じ時間に同じ信号で俺を待ち、一緒に登校している。いや、してくれている、ということになるのか。出会った時はまだ5年生だったくるみちゃんは、今では小学6年生になっている。あの日していたマフラーは姿を消し、今は半そでを着て帽子を被っていた。
くるみちゃん曰く「危なっかしいからしょうがない」という、半年続くこの不思議な登校時間をなんだかんだ気に入っているだけに、くるみちゃんの機嫌を損なってしまうのは残念だ。毎朝20分程度の道のりが、こんなにも楽しみの1つになっている。
「前」
「え?」
「前を見て歩いてください」
「あ、はい」
一度こちらを振り返ったと思ったらまた注意された。身長も年齢も俺の方がいくらか上のはずなのに、彼女の方が全然大人だ。実際は中学3年と小学6年生なのに、彼女には毎日注意されてばかり。昨日母さんに言われた「頼りない」が頭の中でチクリと鳴った。
しばらく無言のまま歩いていると、公園の出口に差し掛かった。この公園を出て右に曲がれば俺の通う中学、左に曲がればくるみちゃんの通う小学校だ。いつも出口で手を振る俺に、彼女が頭を下げて別れる。こんなところまでしっかりした子である。
道が舗装されたコンクリートから、シロツメクサが敷かれた土に変わろうかというとき、くるみちゃんが足を止める。すぐ後ろにいた俺もつられて足を止めた。
「どうしたの?」
くるみちゃんが答えないので、彼女の顔を覗き込む。いつもなら「女性の顔をいきなり覗き込むのは失礼です」とかなんとか言われて怒られるのだが、今日は何故か何も言われない。
まっすぐ前を見たまま固まったくるみちゃんは、ランドセルの肩紐をぎゅっと握りしめている。小さな手は少し震えて、肩紐に細かいしわが寄っているのが見えた。
「ああ」
くるみちゃんの目線の先を見て気づいた。公園の出口に大きな犬がいる。遮るように前にまわり、膝を折る。下から見上げる彼女の顔は、大きなショッピングモールに1人取り残された子供のようで、年相応に怯えている。
「大丈夫だよ」
固まっているくるみちゃんの両手を握って笑ってみた。怯えた顔はそのままだが、犬から注意を逸らせたことで少し落ち着いたらしい。弱々しく手を握り返してくれた。
「ちょっと休もうか」
まだ時間あるし、と声をかけ手を引く。一瞬何か言いたげに口を開いたが、すぐに悔しそうに引き結ばれた。手が辛くないように少しかがんでコンクリートを戻る。確か噴水の前にベンチがあったはずだ。
歩いている間、くるみちゃんは一度も顔を上げなかった。頼りない俺なんかに、こうして手を引かれるのは嫌なのかもしれない。そもそも一緒に登校しているのだって、彼女が「1人じゃ心配なので、あなたが」と申し出てくれてのことだった。
信号の前で小学生の女の子に制服の裾を引っ張られたときは驚いたが、彼女なりの気遣いなのだろう。それが、もう半年も続いている。
知り合いならともかく、普通一度信号で見かけただけの見知らぬ男子中学生と毎日登校なんてしないよな。責任感の強い子なのかもしれない。
考えながら日差しを避けて歩き、桑の木が影を作るベンチに腰掛けた。中々座ろうとしないくるみちゃんを促すと、ポケットからハンカチを取り出し、背の低い彼女は半ばよじ登るような形でその上に座る。
隣に腰を下ろす。念のため時計を見ると、まだ遅刻するような時間ではない。飲み物でもすすめようか、と鞄をあさると、くるみちゃんが帽子を被りなおした。
「ごめんなさい」
「ん?」
飲みかけの麦茶しかない鞄を閉じると、くるみちゃんが消え入りそうな声で呟いた。だから、と声が少し大きくなる。
「犬……私のせいで……学校が」
遅れちゃうのに……とうつむく。つばの広い帽子から少しだけ見える口元は、さっきのように引き結ばれている。悔しいときにする癖なのだろうか。
「まだ全然大丈夫だよ。犬いなくなったら行こうか」
くるみちゃんは犬が苦手らしい。特に大きな犬は昔噛まれたことがあるとかで怖い、と一度話してくれた。
いつもは責任感たっぷりにリードしてくれる彼女が、こうして自分より強そうな動物に怯えているところはかわいそうでもあるが、正直ちょっとかわいい。子供らしいところもあるのだな、と安心する。
「金川さんはずるいです」
勝手に安心していると、くるみちゃんが赤い顔をしてこちらを睨む。
「ずるい?何が?」
「犬」
犬。
犬、の一言で黙ったくるみちゃんは、その次を続けようとしない。犬が苦手じゃなくてずるい、ということだろうか。本当は犬と仲良くしたいとか?だとしたら小型犬とかから慣れていってもらうとか、できることはしてあげたいが……。
「金川さんは」
「えっ、はい」
お隣の家のチワワの事を考えていたら、くるみちゃんが勢いよくこちらを向いた。
「今現在お付き合いしている方はいるのでしょうか」
「お付き合い……?」
お付き合い?犬との?いや、たぶん違うだろう。そんな回りくどい言い方をするような子ではない、はず。だとしたら、恋人とかそういう意味でのお付き合いか。
……なんで?
「いないのなら、年下をどう思いますか?」
「どうって……うーん……」
「煮え切らないですね本当に」
「すみません」
思わず謝ったが、何故急にお見合いの席みたいな質問をされているのだろう。もちろんお見合いに行ったことなんてないけど。今どきは小学生でも付き合う付き合わないとか彼氏彼女とか早いうちからあるらしいから、くるみちゃんも興味があるのだろうか。
まあ、俺から見ても、くるみちゃんはかわいい女の子だ。いつも2つに結われている長い髪はくせがなくてきれいだし、帽子の下に時々見える顔はまだ幼さを残しているが、こちらを見る目は時々どきっとする程きれいで、しっかりと意志が宿っている。性格もしっかりしているし、おそらく小学校でも人気があるだろう。
ちょっと気持ちの悪い分析をしてはみたが、色恋沙汰に興味が出てくる年齢なのかもしれない。だとしたら、年上っぽいアドバイスとかしたほうが良いのか?と、くるみちゃんの方を見ると、また呆れた目をして地面につかない両足をぶらぶらと動かしていた。
年上とか年下とか言う前に、俺は中学生だし、小学生の恋愛とかはこの2年ちょっとで忘れてしまった。そもそも小学生の恋愛って何?バレンタインにチョコ渡すとかそういう程度のほほえましいやつじゃないのか?
目の前の噴水が水しぶきを上げるのを見ながら考えていると、小さな指が2本目の前に現れた。
「2回です」
目の前にはいつの間にベンチからおりたのか、ピースサインをするくるみちゃんが立っている。2回です、のサインだろうか。
「私の好きな人は、2回、私を犬から助けてくれた人です」
わかりましたか?と顔の前でピースサインが揺れる。
好きな人。
へえ、くるみちゃん、好きな人いるんだ。なるほどね。ふーん。なるほどなるほど。
ちょっと意外で理解するのに時間がかかったけど、くるみちゃんにも好きな人がいるらしい。しかし、いかにも小学生女子が好きそうな話題なのに不機嫌そうな顔をしている。俺の反応が気に食わないのだろうか。だとしたら、なんて返せば良い?正解がわからない。
へえ~誰?も違うし、いいね~!はうざい気がする。叶うといいね、とか?恋人なんていたこともないのになんか偉そうだな。小学生女子からの問の最適解とか、中学の授業で教えといてくれないか。
「えと、変わってるね?」
ひねり出した答えは、不正解だったらしい。不機嫌そうな顔は更に歪んで、もはやさげすむような目をしていた。くるみちゃんの大きなため息が噴水の音にかき消される。
「やっぱり、覚えてないですか?」
「ごめんなさい……」
今日だけで何度謝っているのだろう。くるみちゃんも呆れきって、いつもみたいに「また謝った」って言ってくれなくなってしまった。朝から小学生に呆れられる中学生の横を、ムクドリがバカにしたように鳴きながら歩いていく。
「私、去年の秋にこの公園で大きな犬に吠えられたことがあって」
くるみちゃんは何故か、観念した、というような顔をして話し始めた。ベンチに敷いていたハンカチについた土を手で払いながら畳む。
「怖くて動けなくなっちゃって」
「うん」
「その時、通りかかった中学生が、大丈夫だよって手をつないでくれたんです」
「中学生が……」
まるでさっきみたいなシチュエーションだ。確かにこの公園は広いから、大きな犬が散歩していることも多い。遊んでほしくて近寄ったゴールデンレトリバーが怖くて大泣きしている小さな子とかもいたっけ。
「ここまで言ってもわからないですか」
「えーと……」
さっきまで付き合う付き合わないとかいう学生っぽい甘酸っぱい話をしていたはずなのに、くるみちゃんはあきらかにイライラしている。腰に手を当て、地面に埋まった石を蹴り上げて掘り起こそうとしていた。
「あ、靴汚れちゃうよ。せっかくかわいいのに」
「そういうところですよ」
「え……」
土でつま先が少し黒くなった靴を気にする様子もなく、くるみちゃんはランドセルを背負いなおした。少し浮いたランドセルの赤い光沢が反射して、まぶしさに目を細める。
「私、今日で2回目なんです。金川さんに助けてもらったの」
「2回目?」
「だから、交通事故なんかで死なれては困るんです」
交通事故……確かにいつか車にひかれそうとか友達にもよく言われるけど……。助けてもらうのが2回目で交通事故で死なれるのが困る、とはどういうことだろう。
立って、とくるみちゃんに急かされ、ベンチから立ち上がる。小学6年生にしては小さい彼女の、少し茶色がかった髪が帽子の下で太陽の光を浴びて光った。
「金川さん来年高校生ですよね?」
「え、うん。」
「私は中学生です」
「そうだね」
「中学生と高校生なら、恋人同士でもおかしくないと思いませんか?」
「へ?」
「私が中学生になるときまでに、返事は考えておいてください」
遅刻しますよ、と背を向けて歩き出すくるみちゃんの背中を、ぼんやり見送る。
中学生と高校生が恋人同士。くるみちゃんが中学生になった時、俺は高校生。今は7月。
なんとなく理解しかけている頭が、理解しちゃいけないような気がしているのか混乱している。急に頭に浮かんだ、今より背が伸びて大人びた制服姿のくるみちゃんがやけにリアルで、急激に顔に熱が集まるのがわかった。
今まで人を好きになったことがないから恋人同士のあれこれはわからないが、中学生と高校生が手をつなぐのは、小学生と中学生のそれとは全く別物だということはわかる。
「いつまでぼーっとしてるんですか」
振り返ると揺れる2つ結びにもうとっくに恋をしていたことは、だれにも言えない。
恋に歳の差なんて 蔵 @kura_18
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