俺じゃなきゃ見逃しちゃうぜぇ!
「……っ」
茉莉の家から出た後、絵夢と才華を家まで送り届けたその帰り道のことだ。
俺はつい頭を抑えながら電柱に寄り掛かったが……これは別にいきなり体調が悪くなってしまったからではなく、単純に自らに催眠を掛けてもらうという経験の後に脳裏に浮かんだ一つの光景が原因だった。
「……クソッタレ」
いつ、一体どこでのことかも分からない不確かなその光景は虫唾が走るものだ。
真っ暗な部屋の中で絶望した様子の絵夢と才華、涙を流しながら声すらも出せないほどの恐怖に苛まれている二人を前にしているのは俺だった。
薄汚く二人を見下ろしている俺の姿に自分自身が気持ち悪さを感じたほどだ。
「茉莉の時にも見たよな確か……何を伝えようとしているんだ?」
俺はスマホを手に画面を覗き込んだ。
催眠アプリを起動しても相変わらず今までと何も変わらず……いや、強いて変わっていると言えばあの名前が書かれている画面に一つの変化が起きている。
俺の名前に繋がっていたピンクの線たち、その先に茉莉と絵夢、そして才華の名前が刻まれていた。
「やっぱりこれは茉莉たちだったのか。それなら残りの四つは……」
その内二つはほぼ間違いなく愛華とフィアナだろうか。
そして親しくなって体の関係を持ったと言えば近衛さんも入ってくるけど……もう一つはちょっと分からない。
それからジッとスマホの画面を見つめていたものの、いい加減こうしていても仕方ないと思い俺は歩き出した。
「まだ五時前か……ちょっと漫画でも見に行くかな」
六時過ぎくらいに帰っても基本的に家族から何かを言われることはないため、俺はちょっと遅くなっても良いかという軽い気持ちで本屋に向かった。
こうして本屋に来てロボットモノの新作とかを目にするとフィアナを誘って一緒に来るのも良いかなと思えるのだが、そうなってくると愛華が仲間外れにしないでと拗ねる様が目に浮かんだ。
最近はフィアナに釣られるように二次元の沼にハマりかけている愛華だが、あまり影響を受けすぎないようにとちょっと心配になる。
「……お」
なんてことを考えながら新作の本を見ていると、長らく連載が止まっていたはずの新刊が発売されていた。
あまりにも久しぶりに目にした作品だったので見逃しかけてしまったが、俺はしっかりとその本を手に取ってレジに向かった。
「注意深く見てなかったら危なかったわ。俺じゃなかったら見逃してたぜきっと」
一人で何を言ってんだと苦笑しつつ、俺は買い物袋を片手に本屋を出た。
そのまま真っ直ぐに家に向かっていたのだが、やはり辺りが少しずつ暗くなってくると俺もまたあの不可思議な光景を思い出してしまう。
「……………」
一人なので何も口にすることはないが、良く分からないにしても記憶に残る映像だったからこそ少しばかり気分は沈んだ。
そんな俺を救う……いや、暗闇の中から引き揚げてくれたのはおっぱいだった。
「弟君~!」
「のわっ!?」
背後からぷるるん柔らかな感触! そして首から回る二つの腕にビックリはしてもやはりその柔らかさに意識が集中した。
突然抱き着かれてビックリしたものの、声と胸の感触から俺はそれが誰かをすぐに理解した。
「松房さん?」
「ふふん♪ こんにちは弟君♪」
松房さんだった。
確かにここはまだ街中なので他の知り合いに出会うのもおかしくはないが、まさかこうして松房さんと今日出会うとは思わなかった。
「どうしたんですか?」
「ううん、弟君の後姿を見たからね。せっかくだし声を掛けようと思って」
「っ……なるほどです」
更に強く体を押し付けられ、むにゅりと凄い形に松房さんの胸が歪んでいるのがダイレクトに伝わってくる。
おまけに良い香りもしてきてついついスマホに手を伸ばしたくなる衝動に駆られてしまうが、俺が松房さんに催眠を使うことは絶対にないのでそこは安心していた。
(凄いよな。たとえ衝動的に使いたくはなっても行動まで伴わないのは)
手を伸ばしたくはなっても結局はそこまでだ……俺の手はやはり動かない。
しかし……こうして松房さんに抱きしめられるというのは何というか……ちょっとどうしたのかなと思ってしまう。
姉ちゃんを通じて更に仲良くなることは出来たのだが、ここまでしてくるほどではなかったはずだ。
「……うん?」
だがそこで俺は一つ気付いたことがあった。
茉莉たちもそうだが俺自身も実感した事実として、催眠アプリは使われた回数に応じて段々と耐性が付いていくものだと俺は認識した。
もちろんこの考えが間違っている可能性も無きにしも非ずだが、限りなく近いと俺はそう思っている……つまりだ。
この考えが正しいものであるとするならば、松房さんもあのクソ野郎にそれなりの回数催眠アプリを使われていたのだとしたら耐性が付いているのでは?
「どうしたの?」
「……いえ」
そうなるとあの記憶を消した力も催眠アプリによるものなので効かないと思ったけど、実際に松房さんは弟のことを忘れていたし……考え過ぎか?
あの状態の松房さんのことを考えるともしも思い出してしまったらそれこそ再び心を壊しかねないと思うので、今の彼女の様子を見るにいつも通りにしか見えないため本当に俺の考え過ぎみたいだ。
「弟君はもう帰る? ちょっとあたしとお話しないかな?」
「全然良いですよ。つってもあまり遅くまでは難しいですけど」
ということで俺は松房さんと一緒にもう少し過ごすことになった。
俺としては特に何も話すことはないと思っているけれど、それでもどうも俺の先ほどまでの考えがあまりにも甘く、そして的中していたことを知ることになる。
空いていたベンチに座り、キンキンに冷えたジュースを奢ってもらって飲んでいた時に松房さんは特大の爆弾を放り込んだ。
「実はね? 今週末にでも都と会うのを口実に君と話そうと思ったんだ」
「俺と?」
「うん。改めて甲斐君、あたしを助けてくれてありがとう」
「……………」
……はっ?
思わず手に持っていたジュースを落としそうになる程度にはポカンとしてしまったようだ。
松房さんは何を言っているんだ? 何を伝えようとしている? 何を覚えているんだと俺は心臓の動きが早くなるのを明確に感じていた。
突然だとビックリするよね、そう言って松房さんは苦笑しながら俺の両頬に手を添えた。
「思い出したのは先日……私に弟が居ること、弟にされていたこと、その全部を私は思い出したの」
「っ!?」
更に強く心臓が鼓動した。
もしかしたら松房さんにさえ聞こえるのではないかと言わんばかりにドクンドクンと強く鼓動する心臓は痛いほどだった。
なあ相棒、松房さんは完全に記憶を失くしたんじゃないのか?
そう問い詰めたい気分だが意味がないのも分かっているし、何ならもしかしたらと俺が想像していたことだこれは。
「……………」
俺は松房さんに返す言葉が見つからない。
パニックだということももちろんだが、あの悲劇を思い出したということはつまり俺もあのクソ野郎と同じ催眠アプリの持ち主だということを知っているはず……俺は少し恐れるように松房さんの言葉を待ち続けた。
「本当に突然でごめんね? あのことはあたしにとって忘れ去りたい過去、出来るなら二度と思い出しくない記憶……でも自分でも不思議なほどに落ち着いてて、何も思わないわけじゃないけど気にしても仕方ないかなって感覚なの」
「……そうなんですか?」
松房さんは頷いた。
あれほどの出来事を仕方ないで済ませられるのは彼女の心の強さか、そうは思ったけど俺としてはやっぱりあの涙が枯れ果てたような表情が脳裏に浮かぶ。
たとえ終わったことであり解決したことであっても、あれほどのことをされて平常で居られるわけがないはずだ。
それを気にしても仕方ないと思えるほどの何かを彼女は見つけたとでも?
(……まさか)
そこで俺はハッとしたが、松房さんは言葉を続けた。
「夢でも見るし起きている時にも不意にあの恐怖を思い出す。それでもその恐怖を打ち消してくれる声が聴こえるの。大丈夫だって、あたしを抱きしめて安心させてくれる人がいつも脳裏に現れるの――誰だと思う?」
「……………」
ニコリと笑った松房さんは俺の頬にキスをした。
「君だよ、弟君」
「……俺が」
松房さんもきっと俺の考えが纏まっていないことを理解しているはずだ。
よしよしと頭を撫でられ、またごめんねと言われてその大きな胸元に優しく抱き寄せられた。
近衛さんともまた違う年上の包容力のようなものを感じ、騒めいていた心が急激に落ち着いていく。
「いつも君の声が聴こえて、君に抱きしめられているような気分になって落ち着くんだよ凄く。君のことを考えれば考えるほど、弟やそれに連なる出来事を気にしても仕方ないんだって思えちゃうの」
「……それは」
それは依存というものでは……?
そんな風に思った俺の気持ちは松房さんに筒抜けだったらしく、クスクスと声を出して笑われた……でも本当に楽しそうだった。
「ある意味依存だし、ある意味で危うい状態なのは自分でも分かってる。狂ってるとまでは行かないけど、普通じゃないのは自分でも理解してる。それでも良いんだって思ってるの。それだけ君があたしの中で大きくなってるから」
「松房さん……」
「弟君は確かにあいつと同じ力を持ってたけど、君は違うんだって分かってる……君はあたしを助けてくれた。あの時あたしを抱きしめてくれた時に感じた優しさは嘘じゃないし、君の人となりはあたしの心に刻まれている……その上であたしは君のことを信頼してるし好きになったんだよ」
そう言って松房さんは微笑んだ。
結局、その日はもう遅いからとそこで別れることになったが……俺は俺でまた一つ悩みが増えてしまった気がした。
だが……同時に松房さんが助けてくれてありがとうと、俺は違うんだと言ってくれたその言葉が一つの変化を齎していた。
「……あの気持ち悪さがない?」
松房さんに会うまでに感じていた違う世界の自分を見たようなあの不快感が消えていたのだ。
その理由はおそらく……助けてくれてありがとうと言われたからだろう。
俺は決して不幸にしたのではなく、救うことが出来たのだという実感を持てたからに他ならない。
「そうだよな。俺は俺だ……あんな風に彼女たちを泣かす俺のことなんて知るかよ」
茉莉と絵夢、才華をあのように泣かす男の事なんざ気にしても仕方ない。
そんなことを気にするくらいならこれからのことを、それこそ彼女たちと過ごす幸せな日々のことを考えればいいだけのことだ。
今回松房さんに出会ったことでさっきも言ったが悩みも増えたものの、大事なことを気付かせてくれたことにいつかお礼を言わないとだなとそう思った。
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