今日の俺は一味違いますよ

 その日、一人の生徒がおかしかった。

 おかしかったというには少し言葉が正しくないかもしれない、正確にはちょっと様子がおかしかった……あ、もうこれはおかしいで良いかもしれない。


「……………」


 いつも変わらない授業時間、彼は――真崎甲斐は真面目に授業を受けていた。

 彼の親友でもある晃と省吾は甲斐のことをチラチラと見ては不思議そうに首を傾げており、最近になって甲斐と急激に距離を縮めた茉莉もだった。


「……甲斐君、どうしたんだろう」


 ボソッと呟く程度には甲斐の様子に首を傾げている。

 それもそのはずで、一体何が甲斐の身に起きているのかそれは分かりやすい形で今も尚続いていた。


「それじゃあここを……真崎、解いてみろ」

「分かりました」


 今は数学の時間、教師に指名された甲斐はサッと立ち上がった。

 そのまま堂々と黒板の前に立ち、チョークを持って迷うことなく数式を解いていきそれを傍で見ていた教師もうんうんと頷くほどだ。


「これでどうでしょうか?」

「うむ。完璧な答えだ。今日習ったばかりだというのに凄いじゃないか」

「いえいえ、これも先生の教えがあってこそでしょう。先生のような素晴らしい教育者に出会えたこと、それは俺にとって最高の幸せです」

「……真崎……お前」


 教師は感動した様子で甲斐を抱きしめた。

 甲斐の言葉に教育者としての心を刺激され、教師自身もこの仕事をしていて良かったと心から思っているような様子に、残された生徒たちは微笑ましく見つめる……なんてことはなく、今の歯の浮くような台詞を呟いた甲斐を何事かと見つめていた。

 その中には茉莉と親しくする彼に嫉妬の目を向けていた者も居たりして、今の甲斐がどれだけ変なのかを知らしてめていた。


「それじゃあこの問題は解けるか? 分からないところがあったら聞いてほしい、一緒に解いて行こう」

「いえ、全然大丈夫ですよ。言ったでしょう、先生の教えがあるからこそと。さあ、この答えでどうでしょうか?」

「うむ正解だ! いやぁどうしたんだ真崎、今日のお前は一味違うぞ」

「あはは、何度言わせるのですか? 先生の教えですよ」

「今学期の数学の成績、期待しておきなさい!」


 気分を良くした教師の気持ちも分からないでもないが、甲斐のことをある程度知っているクラスメイトたちだからこそ今の彼がおかしいということに気付くのだ。

 そう、今日の彼はどこかおかしかった。

 見た目はいつもと変わらないのに雰囲気がまるで違う……そう、まるで雰囲気がイケメンというか出来た人間のそれなのだ。


「ふぅ、無事に解くことが出来たな。これからも精進あるのみだ」


 問題を解けたことを決して驕ることなく、まだまだ頑張らねばと決意を新たにする姿も向上心の表れだった。

 一体彼の身に何が起きたのか、それは当然誰にも分からないことだ。

 彼の友人たちも今の甲斐にどう接して良いのか分からず、今日だけは遠巻きに甲斐を見つめていた。


「ね、ねえ甲斐君」

「うん? あぁ茉莉か。どうしたんだい?」


 友人たちでさえも遠巻きに眺める中、茉莉が甲斐に近づいた。

 茉莉にとって甲斐に向ける仄暗い想いは当然日々強くなっているが、今だけは困惑の方が遥かに大きかった。

 その困惑の中で甲斐に近づいたわけだが、やはり今日の甲斐はどこか違う。


「茉莉は今日も可愛くて綺麗だな。そんな君とこうして話が出来るのは俺にとって本当に幸せだよ」

「えっと……その……」

「ははっ、照れてしまったか? でもそんな君も可憐だ。なあ茉莉、もっと近くで君のことを見せてくれないか?」

「……はふぅ」


 茉莉、その場に腰を下ろすように尻もちを付いた。

 顔を真っ赤にした彼女は上手く立ち上がれないようで、そんな茉莉を見兼ねてか友人たちが助けようと傍にやって来る。

 しかしそれでも甲斐の攻めは止まらない。


「茉莉、手を貸すんだ」

「ふぁい……」


 おかしい、今日の甲斐は本当におかしい。

 けれども歯の浮くような言葉を伝えられて嫌な気分にはならず、それどころかもっと耳元で囁いてほしいなどと思ってしまうほどだった。

 結局、その後次の授業が始まるということでその場は収まったが……次の授業もその次の授業も、甲斐のそんな様子は続くのだった。


「……あ、先輩」

「うん?」


 ある休み時間のこと、職員室に用があったその帰りに甲斐は声を掛けられた。

 振り向いた先に居たのは絵夢で、彼女は甲斐のことを見つけて友人たちの中から抜けるようにして駆け寄ってきた。


「本間か。友人たちのことは良いのか?」

「あ、大丈夫です。先に戻ってと伝えましたので」


 絵夢の友人たちは甲斐にちょこんと頭を下げ、そのまま歩いて行った。

 それを見送った甲斐は絵夢に視線を戻し、やはりいつもと違う爽やかな微笑みを浮かべて口を開いた。


「それでわざわざ駆け寄って来るほどに話がしたかったのか?」

「先輩?」

「いや、この言い方は違うな。俺としてもお前と話がしたかった。だから嬉しかったぞ本間」

「……あの?」


 そして絵夢もまたいつもと違う甲斐の様子に首を傾げた。

 休み時間はそこまで長いというわけではないので言葉を交わすことが出来る時間も僅かでしかない、それはちょっと残念だが仕方のないことである。


「もう少し時間があれば良いんだがな。そうすればもっとお前と話ができるのに」

「せ、先輩……っ」


 とはいえ、困惑しながらも絵夢も絵夢で茉莉同様に恥ずかしかった。

 歯の浮く台詞を言われたわけではない、しかし甲斐の纏う雰囲気が優しくもありかっこよかったからだ。

 あの時、ストーカーを撃退してくれた日を彷彿とさせる雰囲気を抱かせるほどに。


「また時間を作ろうか本間」

「あ、はい!」


 一体甲斐の身に何が起きたのか、それは絵夢には分からない。

 しかし催眠の影響である程度甲斐のことが気になっていたからこそ、そして催眠状態で彼をご主人様と何度も呼ぶほどに躾けられたからこそ、無意識でも絵夢は甲斐の言葉に嬉しそうにするのだった。

 その後、絵夢と別れた甲斐は教室に戻ったが……そこで彼の雰囲気が変わった。


「……あれ?」


 まるでスイッチを押して人格が切り替わったかのように彼は辺りを見回した。


「なんで学校に居るんだ……? まだ起きてすぐのはずなのに……あれぇ?」


 何が起きているのか分からない、そう思わせるほどの困惑した姿だ。

 その後、不思議な視線を多く浴びながら甲斐は昼休みまでの時間を過ごし、そして待ちに待った昼休みだったがショックを隠し切れない風に机に突っ伏していた。


「……なんで……なんでだよぉ……!!」


 待ちに待った昼休み、それも今日は才華に相手をしてもらう日だった。

 色々と分からないことはあったものの、もしかしたら寝ぼけているのかもしれないと思えば全てに納得出来た。

 なので分からないことは考えず、昼休みに才華の体を思う存分味わって忘れようとした矢先に気付いたのだ。


「俺ちゃんと充電したぞ……なんで電池切れてんだよぉ!!」


 そう、スマホの充電が切れてしまっていた。

 こうなると今日はもう使えないことが確定してしまい、当然才華に対して発動していた予約催眠も切れてしまっている。


(最近の俺は毎日これだけを楽しみに生きているようなものなのに……あはは、なんてこったい)


 そんな風にショックを受けていた彼の元にある女子が近づいた。


「真崎君」

「……うあ?」


 今の声はと甲斐は顔を上げた。

 目の前に立ち甲斐を見下ろしていたのは才華だった。


「我妻? どうしたんだ?」


 いやこれから呼ぶつもりだったし好き勝手するつもりだったんだけどと甲斐は心の中で呟いた。


「ううん、良く分からない。でも何となく呼ばれた気がしたから……かな? ねえ真崎君、この昼休みは傍に居ても良い?」

「え? あ、あぁそいつは構わないけど」


 良かったと呟き、才華は隣の椅子を借りて甲斐のすぐ近くに腰を下ろした。

 才華は特に何を話すでもなく、ジッと甲斐に横顔を見つめてくるので彼としては一体どうしたんだと思う他ない。

 しかし、こうして彼女が傍に居るとやはり目が行くのが……。


「……でけえ」


 やはり大きいの一言だった。

 その後、いつもの調子を取り戻した甲斐の元に茉莉と友人たちが近づいた。


「えっと……マジで何のことだ?」

「お前、本当に寝ぼけてておかしくなってたのか?」

「まあでも、お前はそうじゃないとダメだって。あんなんお前じゃないし」

「……ねえ茉莉、そんなに凄かったの?」

「うん! 思わず下着がびしょ……こほん、とにかく凄かったんだから」

「へぇ……」


 結局、何が起きたのか甲斐には全く分からなかったのだった。

 まあ彼に記憶がないのも無理はなく、これはあくまで彼の軽はずみな実験が齎した出来事だったのだ。


『そういや催眠って自分にも掛けられるのか?』


 朝、起きたばかりの彼はそんなことを思いながら鏡を見ていた。

 催眠アプリを起動し鏡の中の自分にこんなことを命令したのだ。


『……う~ん、なあ俺。今日は一日イケメン的な過ごし方をしようぜ!』


 とまあ、これが全ての答えだ。

 このことは甲斐の記憶に残っていないが、少なくとも二度とこんなことをしようなどと思うことは不思議となかったのだとか。

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