逃げた先の驚愕
道無き道を、ライラの手を引っ張って走る。初秋の、まだ枯れていない下草が、裸足の足裏に痛い。それでもルージャは、荒い息を吐くライラを引っ張るようにして急な山道を駆け上った。とにかく、ライラを守ることができるところまで、逃げなければ。その思いだけが、ルージャの足を動かしていた。
そのルージャの足が、木の根に躓く。
「わっ!」
声を上げる前に、ルージャの顔は地面に激突していた。
「ルージャ!」
ルージャの上に倒れ込んだライラの重みに、思わず呻き声を上げてしまう。しかしライラは素早く身を起こし、頭を上げたルージャの横に倒れるように座り込んだ。そのライラの顔を、見詰める。戸惑いと疲れがライラの顔に浮かんでいるのを、ルージャはすぐに認めた。幼い頃からライラは病弱で、よく熱を出して寝込んでいた。何も考えず、強引に手を引いて走ったから、ライラの疲労はかなりのものになっているはずだ。
「大丈夫か、ライラ?」
しかしルージャの言葉に、ライラは首を横に振った。
「大丈夫。でも……」
ライラのその後の台詞は、分かっている。母のことが、心配なのだろう。ルージャは思わず、ライラの結われていない白金色の髪に手を伸ばした。何が起こったのかは分からない。だが「逃げろ」と言われたこと、そして伯母が剣を構えたということから考えると、ルージャやライラの命に拘わる何かが起こったということ、なのだろう。ルージャはそう、見当をつけた。ルージャの父や、ライラの父母の命が危険に曝されるような、何かが。
とにかく、逃げなければ。ライラから少しだけ身を離し、身体を起こす。幸い、木の根に躓いた足にも、地面にぶつけた鼻にも、痛さは感じない。まだ、走ることができる。しかし何処へ逃げれば良いのだろうか? 疑問が芽生え、ルージャは少し考え込んだ。ルージャもライラも、生まれ育った山腹の集落から出たことは少ない。集落と、時々作物を交換に行った山裾にある小さな村しか知らない。山をぐるりと回って、山裾の村へ降りて助けを求めれば、良いのだろうか? ルージャがそこまで考えた。まさにその時。
「なっ」
本能で鋭い風を感じ、ライラを庇うように地面に倒れ伏す。ルージャの赤い髪ギリギリを駆け抜けた冷たいものに、ルージャは戦慄を禁じ得なかった。これは、矢、だ。
「当たらなかったか」
用心を重ねて上半身を起こしたルージャの耳に、霧の向こうから、面白がっているような、ある意味残酷な声が響く。
「射殺すより、槍で刺し殺した方が楽しいさ」
別の声と共に、霧の中から出て来たのは、白い服に青黒いマントを纏った男達。皆一様に冷たい笑みを顔に貼付け、そしてそれぞれの手には、槍あるいは剣が鋭い光を放っているのが見える。
「ル、ルージャ……」
上半身を起こしたライラが、ルージャの腰をぎゅっと抱き締める。ライラを、守らなければ。そう思うルージャには、彼らの刃に対抗できる武器は、無い。ただ為す術も無く、死の刃がこちらに向かって来るのを、見ていることしかできない。ルージャはぎゅっと唇を噛み締めた。
不意にライラが、ルージャの傍に落ちていた細長い包みを握る。巻かれていた布が解け、現れた中身に、ルージャは目を見張った。これは、……剣? 剣の技は、父や伯父から習って知っている。自分はともかく、ライラを守ることが、できるかもしれない。しかし期待と共に、ライラから奪うようにして手に取った、その剣の軽さに、ルージャは肩を落とした。ルージャが手にしているものは、ただの木剣。ルージャが父と共に暮らしていた小屋の、小さな暖炉の上の壁に掛けられていた、見た目だけは本物の剣に見える、刀身に炎のような模様が彫られた飾り物の剣ではないか。こんなものを、伯母は何故、ルージャ達に持たせたのだ? 木剣をライラの手に戻しながら、ルージャは思わず地面を殴りそうになった。しかしそれでも、ライラは守り切る。目にした手頃な石を拾うと、ルージャは男達の集団の中から一人そろそろと近づいてきた男の顔にその石を投げた。石の投げ方も、父から習った。
狙いを過たず、ルージャの投げた石は男の目に当たる。
「ぐっ」
仰け反る男に、他の男達が色めき立った。
「生意気な」
「やっちまえ」
男達が手にした、剣や槍が放つ鋭い光が、ルージャとライラを取り囲む。もう一度石を拾ったルージャの右腕は、しかしすぐに男達の一人に取り押さえられた。
「女が居る」
ルージャの腕を押さえ、ルージャをライラから引き剥がす男の手を振り解こうと藻掻くルージャの視界に、怯えるライラの細い腕を掴む男の野卑た笑顔が映る。
「嬲り殺すのが良いか、犯して殺すのが良いか」
「止めろっ!」
ライラの叫び声が、遠くに聞こえる。足掻いても藻掻いても、ルージャを掴む男の手を振り解くことができない。勿論、ライラの許に戻ることも。どんなに強く叫んでも、ライラに迫る男達の腕は止まらない。首筋に突きつけられた鋭い感覚に、ルージャは唇が震えるのを感じた。自分は、無力だ。ライラを助けることすら、できない。このまま殺されてしまうのだろうか? 絶望が、ルージャの心を支配した。その時。
「わっ!」
「何だっ!」
男達の戸惑いの声より先に、ルージャの周りが眩し過ぎるほどの光に包まれる。あまりの眩しさに、ルージャは思わずぎゅっと目を閉じた。
「なっ……」
後ろから聞こえてくる、呆然とした男の声に、そろそろと目を開ける。気を失って地面に横たわるライラと、その腕の中に収まっている木剣が、光の残滓を僅かに見せている。そして、ライラを囲んでいた野卑た男達の姿は、何処にも無かった。
「これが、あの方の言っていた、女王の……」
ルージャの後ろで小さく呟く男の声が、不意に途切れる。自由になった右腕を下ろして振り向くと、横様に倒れた男の、首の無い身体が見えた。叫び声すら、出ない。身体を支える力を失い尻餅をついたルージャの横を、赤い上着の上に黒いマントを羽織った小柄な影が通り過ぎるのが、見えた。
「大丈夫だな」
青白い顔で地面に横たわるライラの傍らにしゃがみ、ライラの額と頬に小さな手を当てたその小柄な影を、呆然と見詰める。小さいがすっきりとした背中と、肩に流れる濃い色の髪、そしてライラを見てにこりと微笑む口元には、確かに見覚えがあった。……夕べの夢で、ルージャを騎士だと言っていた、ラウドという名前の、騎士団長に見えない騎士団長!
「君も、大丈夫なようだな」
そこまで思い出したルージャの目の前に、ラウドという名の小柄な騎士団長が立つ。ライラの腕の中にあったはずの木剣を、ラウドはルージャの手の中にしっかりと押し込んだ。
「これは、君が持っているんだ」
厳しい声が、ルージャの耳を打つ。ライラの方を振り向き、再びルージャを灰色の瞳で見詰めてから、ラウドは決意を求める声で言った。
「女王に、あの少女に、これ以上『女王の力』を使わせるな」
女王の、力? 耳慣れない言葉に、正直戸惑う。しばらく考えてやっと、ライラが先程使った、男達を消す『魔法』が、その力なのだと思い至った。確かに、有無を言わさず人間を消してしまう魔法は、優しい心を持つライラには重荷になるだろう。ライラのその力を狙う輩が現れ、ライラが悲しむような事態に陥るかもしれない。伯母の昔語りを思い出し、ルージャはラウドに首を縦に振って見せた。ライラは、ルージャが守る。
「それで良い」
ルージャの態度に、ラウドが口の端を上げる。次の瞬間、小柄な騎士団長の姿は、煙のように掻き消えた。
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