第3章 夜のガスパール、スカルボ

世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。

愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。

『はてしない物語』 ミヒャエル・エンデ



 少尉を先頭に大佐とサルバドール氏が回転ドアの向こうへと入る。すると、どこからともなく、美しいニンフのような女が彼らの目の前に現れた。


「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ──まもなく閉館です。残念ですが」


決まり文句のような平家物語の出だしを言いながら、ニンフの女はサルバドール氏たちをゆっくりと観察もしていた。「あ、ちょっとだけ待ってください。もう借りたい本、決まってるんです」と、サルバドール氏が食い下がる。「ミニーちゃんの音の出る絵本です」と、少尉は言いながら、ニンフを無視して中へと進んでいき、子ども用図書コーナーを手際よく捜索しはじめた。少尉は以前にも何度かここへ来たことがあるようだ。少尉のキラキラさせていた瞳はだんだんと曇り空のようになり、涙の滴が溜まり始めた。あるべきものが何ひとつそこにはなかったのだ。つまり、子ども用図書コーナーに、一冊も本がなかったのだ。大佐が異変に気付き、ニンフに食い下がる。「あんなにたくさんあった子ども用の本が一冊もないって、どういうことかしら?」「市からの設備予算の削減と来客数の減少、とくにお子様、により、子ども用図書コーナーをビジネス用の貸出スペースにして、個室ブース化することにしたんです。そこで市民の方々もテレワークできるように。ある企業団体と提携も致しました。くだらない文学だとか哲学だとか詩だとか、古い街の歴史、そうしたものもこれからスペース削減する対象になってます」と、ニンフは機械的に大佐に返答した。「くだらない?あなたのほうがくだらないわよ」と、強気な大佐が食い下がる間、少尉は二階へと続く階段の段差と戦っていた。二階へは立ち入り禁止の看板が階段に立てかけられてもいた。嗅覚の発達した少尉は二階の書庫に追いやられた子ども用図書の紙の匂いと図書たちの悲鳴を察知していたのだった。「とりあえず、星野道夫さんの『旅をする木』とかってあります?それだけ借りて俺たち出ますので」とサルバドール氏が一触即発状態のふたりの間を取り持つかのように、ニンフに話しかけた。すると、ニンフは一瞬消え、青い文庫本を一冊持って、また彼らの目の前に現れた。「お連れの方が二階へ行こうとされてますが、二階は立ち入り禁止です、すぐにどうにかしてください。あと、他人様の子育てをどうこう言いたくありませんが、あんな服を小さな子に着せてるなんて、どうかしてますよ。頭にフルフェイスの宇宙船にいるようなヘルメットまでって……、虐待じゃないですか?」と、また機械的に大佐を睨みつけながら、ニンフはバーコードをスキャンした。「貸し出しの図書カードのご提示をお願いします」ニンフはちらりとサルバドール氏を見ながら図書カードの提示をせまった。大佐は少尉を追いかけて、二階へと向かった。サルバドール氏は図書カードを財布から取り出して、ニンフへ渡した。

「えーっと、お名前と、住所、年齢が消えかけてますけれど……サルバドール・ひろさん、これ、本名です?あと住所、獅子座レグルス、年齢27……住所と年齢はいいですけど名前が」ニンフに尋ねられ、サルバドール氏は自分の名前に自信が持てなかった。

「あー、そうです、あ、いや、違うかもしれません、あ、なんでもありません、それでいいです、俺の名前」

「あの、お名前、しっかり次回までに書いて来てくださいね」───とニンフがそう言いながら、服を脱ぎ始めた。それと同時にサルバドール氏のジーンズもトランクスもずり下げて、ニンフはサルバドール氏のレゾンデートルをじっと観察していた。「あの、こんなところで、するんです?」と、サルバドール氏は二階のふたりが戻ってくることにヒヤヒヤしながらも、ニンフにされるがままになっている。「ええ、きちんとバーコードを焼きごてで入れさせていただきます。二度とおかしな名前を言わなくて済みますから。フニャチンだと入れにくいので」そう言いながらサルバドール氏のレゾンデートルをもて遊び、勃起したところで、そこに焼きごてを押し付けた。凄まじい悲鳴を聞き、大佐が階下へと戻ってきた。受付のカウンター奥で、サルバドール氏がバーコード入りのペニスをぶら下げたまま、気絶している。

───ぼんやりとニンフみたいな女からサルバドール氏が本を受け取る間、サルバドール氏はニンフの裸をそのように想像し、勃起しないようにした。

「獅子座語じゃなくて、次からはカシオペア座語で正しい名前とご住所、ご記入し直して来てください。カシオペア座語話者はひとつの市民として認定しております。獅子座に現在、我が星では軍を派遣してファシストたちからカシオペア座語話者たちを救済しようとしていること、ニュースでご存知ですよね?」


 本が街から消え始めていることはサルバドール氏も知っていた。実用性のある本やカシオペア座でいま人気のある現代作家たちの本は書店でも置かれているが、他の星の本や思想哲学、詩といったたぐいのものは姿を消しつつあった。カシオペア座の国語授業では、実用書の読み方しか教えていない。文学だとかは教科書からとっくの昔に消えた。そうした消えた本たちの最後の砦が図書館でもあったが、ついに、この有り様だ。不穏な内容の本は特に厳重に取り扱われてもいた。実用性のあるもの、あるいはカシオペア座政府の息のかかった出版社たちから出された感動的なものや外交的にも内政的にも問題ないものは、大々的にプロモートされ、SNSではそれらの感想が載ると「イイネ」を押され、帯にあるようなこれまた当たり障りのない感想がついていく。ネットの検索ではそれらのトレンドに沿って検索のオススメが出てきて、カシオペア座が獅子座に対してやっているジェノサイドは上がってこないようにもされていた。こうして、カシオペア座の子どもたちは政府の認めた僅かな面白みのない本を学校の国語の時間に読むくらいになった。国語の小テストでは、『実用的な文章の読み書き』シリーズと『カシオペア座のただしい歴史』を毎回暗唱させられる。図書館も図書室もない市がほとんどだった。大人たちは、トレンドに上がってくる本を読むのに忙しかった。読むのはまだいい方かもしれない。皆忙しく、本なんて読む時間はなかった。トレンドに上がったニュースは1時間もすれば忘れ去られてしまうし、トレンドにない暗いことは、誰も知る機会はなかったし、そんなことを話題にしたり、意見を持つのは非効率か時代遅れか、キチガイのいずれかだった。効率重視の社会では、誰かと誰かをいちいち名前で区別なんてしない。職業、あるいは市民番号で区別する。あだ名や性別を想像させるようなものは差別に繋がる為、マナー違反と見なされてもいた。均一こそ平和的平等への第一歩なのだ。だから、ニンフの女が『平家物語』の出だしを言った時、サルバドール氏はやや驚き、身体が彼の意志とは別に反応しそうになったのだった。


 鐘が鳴り響く。ドーム天井よりももっと低い位置から音が響き渡り閉館の時刻を知らせていた。「そろそろお引き取り願います」と、ニンフは彼ら3人に言いながら、彼らを図書館から追い出そうとした。ミニーちゃんの絵本を一冊も手にすることができなかった少尉は、不満が爆発しそうな、そんな顔つきで、ドアのこちらとあちらとでニンフを見つめ、キラキラした瞳でニンフに尋ねた。「ところで、わたしたちはどうやっておうちに帰ればいいのですか?」「地図で調べてください。あるいは、地図にここが表示されていないなら、あなたたちの『家』に住んでいるとされる人たちとの関係性と名前を壁の絵のどれかに向かって叫んだらどうですか?」ニンフはそう言い終えると、ピシャリと回転ドアの留金を下ろし、図書館のシャッターが降りていった。


 サルバドール氏が覚えているのは、列車で別れたイザベルの名前くらいだった。

「イザベルしか覚えていないの?」

サルバドール氏は少し後ろめたい気持ちになりながらも頷いた。大佐はサルバドール氏を睨みながら、つぶやいた。図書館のシャッターの向こう側では読まれることを待つだけのテクストたちが悶え苦しみ喘ぎ、ニンフは嘲りながらオナニーしていた。

「ひろってほんと中二病だよね」

「ねえ!パパ!ママが思い出したよ!」


 サルバドール氏は、ふたりの瞳の中に映る自分を見つめた。あたりはすっかり漆黒の闇に覆われて、トラックのヘッドライトに反射する月明かりがリサ少尉の瞳を一層輝かせている。



夜のガスパール 第3曲 スカルボが終わった。───2022年5月27日 I.F

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