第2章 夜のガスパール、絞首台、描いた絵と描かれた絵

その夜は彼にやがてどんな別の夜よりも暗く怖ろしいものに見えてきた、あたかもその夜が、もはや思考しない思考の傷口、思考以外のものによって皮肉にも思考として捉えられた思考の傷口から、現実のものとして生まれ出てきたのだとでもいうように。それはまさに夜そのものであった。夜の闇を作り出しているさまざまな像が、彼の周りに充ち溢れていた。

『謎の男トマ』 モーリス・ブランショ



 図書館の入り口までは海面が真っ二つに綺麗に割れた幅10メートルほどの道だった。サルバドール氏の立つ位置から入り口まではとても遠く、また近くもあった。両側は割れた海水が鏡面のようにもなっていて、そこにはいくつもの絵画が飾られている。サルバドール氏はその絵を一枚一枚見ながら光の中へと向かった。絵はとても懐かしさに溢れていた。どの絵も昔見た光景のように思えて、サルバドール氏の心の中の何かを揺らした。ドナウ川から見たハイデルベルクのお城、バルセロナの電車で登った先にある古い修道院、マニラの暑い熱風の吹く雑踏、親しみ深い海岸に続く坂道でTシャツにショートパンツ姿でぽつんと立つ女の子。


 サルバドール氏はその絵の前でしばらく立ち止まった。女の子に声をかけようとしたが、名前が思い出せない。目の奥に圧を感じる。鈍痛が首から頭にかけてゆっくりと襲った。あまりの鈍痛にサルバドール氏は天を仰いだ。割れた海面から覗く細い一本の線。そこには星がひしめき合い、こぼれ落ちるように輝いている。「まるで天の川の銀河鉄道だな」サルバドール氏がそうつぶやくと同時に、彼の目の前に4両編成の古めかしい列車が止まり、ドアが開いた。歩き疲れていたサルバドール氏は、疑問に思うこともなく、列車に乗り込んだ。列車の中は空いており、所々に誰かの影たちが座っている。サルバドール氏はひとりの少しふっくらしたつるつるの女の子の影の隣に座った。

「やっと来たのね、元気?」

女の子の影がそう声をかけてきた。

「なんとかやってるよ。きみはそっちでどう?」

「元気よ。喘息の発作も止まったの」

そう言いながら彼女はマルボロ・メンソールを箱から一本取り出してライターで火をつけ、浅く、ゆっくりと吸い込む。

「まだ煙草吸ってるんだね」と、サルバドール氏は懐かしそうに言った。

「もう喘息の症状もないから気にしないわ。あなたも吸う?」

「いや、僕はやめとくよ。そういや、僕は、ここ数年、ずっと筋トレしてるんだよ。数年前に熱射病で倒れてから、腰の調子も悪くなって、それから腰まわりの筋肉をもう少しつけて腰痛防止にもなるかな、と思ってさ」

女の子の影は少し呆れながらも優しく頷きながら、サルバドール氏の筋トレの話を聞いていた。

「きみのことを時々思い出していたりもする。最後の電話のこともずっと考えてるんだ」

唐突にサルバドール氏は影にそう言いかけてやめた。そこまで言ってしまうと、影が消えてしまう気がしたのだった。

「わたしは少しずるかったかも知れないけれど、本当はきちんとした助けが必要だったんだと思う。わたしたちの病院から退院して、しばらくして結婚して、素敵な旦那さんもいて、生まれたばかりの可愛い息子もいて。でも喘息と、あの子を生んでからなぜか色々不安定になってしまって、誰かにきちんと助けてもらわないとダメだったんだと思う」

「でも、きみにとっては幸せでもあったんだろ?なのにどうして?どうして突然旅に出たんだよ」と、サルバドール氏は女の子を少し責めた。サルバドール氏は本当は、「どうして俺を選ばなかったのか」と聞いてみたい気持ちが湧き上がってもいた。

「あの病院の中で、ふたり並んで、ずっとあなたのことをスケッチしていたとき、覚えてる?」

「覚えてるよ」とサルバドール氏は上の空で言った。目を閉じて、白い天井の世界のことをしばらく思い出す。17歳のまだどこかに純粋さを残した少年は、手脚、胴体を天井と同じ色の太いベルトでベッドに固定されていた。外傷という外傷はほとんどどこにも見当たらず、目を覚ました少年の意識はだんだんとはっきりと、自分が今どこにいるのか認識できるまでになっていた。意識の向こう側ではベッドの柵を中年の男が振りかざし何かを叫びながら、少年の顔を殴打し、他の職員たちに制止され、少年はベルトで中年の男を制止する職員とはまた別の職員たちにベッドに固定され、誰かにヒルナミンを打たれた。それでも少年は遠くなっていく意識に抗いながら中年の男とにらみ合っていた。

「あそこにぶち込まれたときのこともよく覚えてる、きみは知らないだろうけど」とサルバドール氏は影の女の子に言った。

「あなたが何度か話してくれたわよ、いつも可愛らしい背の低い大人しそうな女の子があなたのお見舞いに来てくれてた。覚えてる?」

背の低い女の子はサルバドール氏と数年付き合った彼女だった。その女の子の父親は見事な和彫の刺青を全身に入れている彫り師で、退院祝いにサルバドール氏の左腕と背中にいくつか刺青を入れてくれたりもした。大人しい女の子の顔立ちは決して誰もが言うような美人ではなかったが、それでもサルバドール氏はその女の子のことに夢中だった。少年に本を何冊か差し入れてくれたりもした。村上春樹の『国境の南、太陽の西』、『海辺のカフカ』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。読書しかしない分厚い眼鏡をかけた少女は少年にそうやって本の世界のことを教えてくれた。少女は日中、大型スーパーマーケットのレジを打ち、夕方になると学校へ向かう。少年と少女はその学校で出会い、容姿だけが取り柄だった少年は最大限にそれを活かし、少女と付き合うまでになったが、容姿のことなどはとるにたらないことだ、と教えてくれたのも少女だった。1年ほど付き合っていたある日、少年は入院し、少女は足げく見舞いに通うことになった。言葉をどこかへ置き去りにして入院した少年は少女と会話できるようになるまで、数か月かかった。

「あなたの中の暗いものと明るいものをきちんとありのままにあなた自身に見せてあげたかったの」

病院で、影の女の子は言葉を忘れかけていたサルバドール少年に一番最初に話しかけてきた。いつも、無言のままサルバドール少年は病院の昼飯を団らん室でとっている間、ずっと影の女の子は独り言のように何かを一生懸命言いながら、分厚いスケッチブックに絵を描いていた。

「俺は……、多分、きみが描き続けたスケッチのお陰じゃなくて、きみがそばで名前を呼び続けてくれたから、砂嵐の中を抜け出せたんだと思う。別に今さら何かを責めたい訳じゃないよ」

「あなたって昔と変わらないのね。いつも自分の気持ちばかり。だから今じゃ色んな名前、自分の名前すら思い出せないでいるのよ」女の子はまた呆れながらも優しく笑いながらそう言いながら、列車の窓を全開にした。

 海水の壁の絵たちが星の光に照らされ、サルバドール氏は吐き気がした。一枚の絵がひらひらと車内に落ちてきた。絵の中には10代の若者が全裸で白く広い病室の窓辺にいる。彼のレゾンデートルはやり場のないまだ少し勃起しかけたままでだらしなくぬるぬるしたままで、若者は快活を秘めながらもぼんやりとベッドの上に寝そべる同じく全裸のふっくらした女の子を見つめている。女の子は咳き込みながら煙草をくゆらせて、若者の向こう側にある窓の外に視線を向けている。女の子の腹はつるつるしていた。妊娠線が不思議とそのつるつるした腹の美しさを強調させているかのようでもあった。ヘソのあたりには鉛筆とスケッチブックと数枚のティッシュが丸められていて、白いシーツの女の子の股のあたりはしみが広がっている。閉鎖的なのにどこか牧歌的で親密な、そんな不埒な絵だった。

───当列車、サザンクロス行き急行列車『白鳥』にご搭乗の皆さまにご連絡いたします。当列車は、まもなく、『カシオペア座』に到着いたします。図書館をご利用の方は、カシオペア座でお降りください。


「そろそろ、あなたは降りないとだめよ」

「どうして?きみはどうするの?」

「あなたはカシオペア座で降りるの。そして、駅のプラットホームにあなたが最初に気になった絵の中の女の子がそこで待ってるはず。ショートパンツで髪の長い子よ。その女の子の手を絶対に放しちゃだめよ?わかった?」

「きみはどうするの?」

「わたしはデネブへ行かないといけないの」

「また会える?」

「わからない、時々立ち止まったら、その駅がどこなのか、空を見上げてわたしに手紙を書いてくれたら読むかも知れない」

「わかった」とサルバドール氏は窓の外を見ながら言った。女の子の影は虚ろなサルバドール氏の瞳を覗き込みながら、言い聞かせるかのように、続けた。

「最初の目的を見失っちゃだめよ。彷徨い続けることになると、人はどうしようもないくらいひとりぼっちになってしまうから。図書館へ何しに行くのか、ほんとわかってる?」

「うん。『旅をする木』を借りる。娘に読み聞かせするために。それが目的だよ」

「読んでどうするの?」

「俺にはどうにもならないよ、でも娘は喜ぶと思う。俺だけが本ひとりで読んでも、いつまでたっても、ひとりの世界からどこにも行けるわけでもないし、かといって日記や誰も読まない物語なんて書いたって、どうにもならない。結局、どこにも行けないことぐらいわかってる」

読んだ彼の本たちの言葉たちは最後のサルバドール氏の悲観的な発言に対してかなり不満気な表情をしながら影の女の子に直談判していた。書かれたものが、誰かに読まれることで本のテクストは息を吹き返し、この鉄道の回廊では意志を持つ。残念ながら、誰にも読まれることのないテクストたちはこの鉄道回廊にはたどり着けず、夜空を漂う数百万光年先の星屑として、あるいは暗いブラックホールに吸い込まれて、無となる。無は無であり、それ以下でもそれ以上でもない。のっぺりとした宇宙で読まれることを待つしかない。

 本当はサルバドール氏は違うことを話したかった。本のことなどどうでも良かった。サルバドール氏は結局、最後にかかってきた彼女からの出れなかった電話のことを言い出せなかった。まだ、聞くタイミングではないこともわかっていた。列車がカシオペア座で止まると、女の子の影はスケッチブックをサルバドール氏に渡した。

「あなたが今度はこのスケッチブックにスケッチする番よ。わかった?」

「わかったよ」と言い、サルバドール氏は力なく立ち上がった。

「待って、わたしに名前をつけてくれる?」

「名前?」

「あなたが書きたくなったら手紙の差出人にその名前を書いて」

「……イザベル。違う名前だったかも知れないけれど、きみは俺のイザベル」

「素敵な名前ね。ありがとう。あなたはわたしの親友よ、今までも、これからも」


 列車を降りると、影の女の子の言う通り、ひとりの女の子がサルバドール氏に近寄ってサルバドール氏を抱きしめた。

懐かしい匂いがした。

サルバドール氏はそのまま立ちすくみ、女の子の腕の中で泣きじゃくった。


「もう少しあなたが来るの遅かったら図書館に入れなくなるところだったの。闇が侵食しきると、入り口が消えてしまうのよ」

「ごめんね」

「泣いてる場合じゃないの。少尉が先に行って待ってるから、私たちも急ぎましょ。少し込み入ったことになってるのよ」

「待って、俺、スケッチブック入れ忘れたかも知れない」

「何を呑気なこと言ってるの。早く行くわよ」

大佐はそう言うと、サルバドール氏の手を引っ張り、海の道を走り出した。

「少尉が、回転ドアにノンノンしてくれてるのね」

「ノンノン?」

「そう、ノンノンって言いながら多分、ひっくり返って、ドアが閉まらないように、踏ん張ってくれてるみたい」

「僕らが入れるように?」

「あなたが、あそこで大事なものを探さないといけないんでしょ?そのためよ」


 列車の中から見上げた空とは違い、ふたりで走る空はまだオレンジ色で、闇には侵食されきっていなかった。少尉が侵食を食い止めているその闇は、幾分塩と湿気を含み、ふたりの頬を確かめるように撫でていた。大佐はサルバドール氏の名を叫び続けた。サルバドール氏に、その名前はまだ響いていなかった。それでもふたりは手を握り締めたまま、オレンジの道を走り抜ける。

 公園の絵もあった。絵の中で、ふっくらした女の子と優しそうな男が小さな男の子と3人でブランコに乗っている。黄金色の草原が広がる公園の3人は幸せそうな空気を絵の中からサルバドール氏と大佐へ届けるかのようにそこに収まっていた。宇宙の中に漂う星々のような彼らの世界は、奥行きがなくてのっぺりとした平面のようにも思えた。彼らは二度とこちら側で温かい手を握らせてはくれない。


「彼には何も見えなかったが、彼はそのために意気沮喪するどころか、かえってその視覚の不在を視線の頂点と化してしまっていた。彼の眼は、ものを見るのには役に立たないけれども、いまや異常な大きさに広がり、途方もない具合にどんどん成長し、そして地平線の上まで伸びてゆきながら、夜がその眼の中心に入り込んで昼を受け入れるがままに任せていた。その虚空のなかでは、視線と視線の対象とがひとつに溶け合っていた。何ひとつ見えないその眼が何ものかを把握したばかりでなく、その視覚の原因をも把握していたのである。何も見えない原因を成しているものを、彼は対象として見ていた。彼の内部には、彼自身の視線がひとつの像の形をとって入り込んできたが、それはまさに、その視線があらゆる像の死とみなされた悲劇的瞬間のことであった」『謎の男トマ』モーリス・ブランショ


ブランショの一節をメモした紙切れがいつの間にかサルバドール氏の手のひらの中でくしゃくしゃに丸められていた。


 サルバドール氏が再び頭痛と吐き気で天を仰ぎ、目をぎゅっと閉じて、また開いた。回転ドアはすぐ彼らの目の前にあった。宇宙飛行士専用スーツと公式ヘルメットをきちんと着用した少尉が大佐に敬礼した。サルバドール氏も大佐に敬礼した。


「あと五分しかありません。わたしのミニーちゃんの本を優先的に捜索開始します」


少尉がきっぱりと、そうサルバドール氏にキラキラの瞳で語り、少尉、大佐、サルバドール氏の順で回転ドアの先へと入って行った。

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