第1章 夜のガスパール、草原と海

「いつまでもそんなふうに浮遊していたら、人生はダメなんだ。定点を見つけないと」『さびしい宝石』パトリック・モディアノ



 玄関の扉の向こうへと、出た。こうして、ふたりは仲良くおててを繋いで公園へと向かうはずだった。玄関を出れば、いつもの見慣れた作業場が少し先にあるはずの光景。気にもとめない、いつもの光景が広がることをサルバドール氏が願ったり、期待めいたものを抱いたりしたことは、一度もなかった。


 サルバドール氏がドアを開け、鍵をジーンズのポケットから取り出し、うつむきながら外へ出る。ラヴェルの『夜のガスパール』を口ずさみながら、ドアに鍵をかけ、これから向かうはずの前方へ向きなおす。彼らの目の前に見慣れた光景は広がらず、どこまでも続く草原がただただ広がっていた。サルバドール氏はもう一度ドアのある後ろを振り向いた。


あるはずのドアや平家の家は、もともとなかったかのように、消えていた。これまでそこにあった、という記憶自体が虚構であるかのように、ありとあらゆるいつもの光景は消えていた。作業場も、倉庫も、事務所がわりの掘立て小屋も、トラックもない。あるものと言えば肩に背負っているマザーズバッグと小脇に抱えた少尉のミニーちゃんと、おててを繋ぐ少尉のキラキラした眼差しだけだ。不思議とこの非日常的な世界に唐突に投げ出されたにもかかわらず、サルバドール氏は不安や焦燥感を抱かなかった。広がる草原をはじめて見る少尉は草原とサルバドール氏を交互に見て、瞳を大きく開き、嬉しそうである。何がそうさせるのか、そんな少尉を見ていたサルバドール氏も理由なき期待に胸を少し躍らせていた。


──ねえ、すごいよ、もっと先に行ってみる?──


少尉はそう瞳でサルバドール氏に語りながら手を引っ張る。草花以外、何もない。つむじ風がサルバドール氏と少尉の間を抜けて、風が少し強く吹いた。少尉が西の方へ先に駆け出した。サルバドール氏は思わず、呼び止めようとした。少尉の名前が出ない。


「少尉!待って、俺とおてて繋がないとだめ」


俺、という前に、彼は一瞬戸惑った。少尉と自分との関係を示す何か名称があったはずなのに、それが何なのか思い出せず、仕方なく「俺」と言った。「俺」なのか、「私」なのか、《私》の中で彼は自問自答した。少尉と彼とを区別するものの1番大事なふたりの関係性の名称も、ふたりの名前も、つまり、ありとあらゆる、「名前」が消えたのだ。あったはずのいつもの玄関の扉の先の光景が消えたのとおなじように、それは消えてしまっていた。


 そんなサルバドール氏に少尉はお構いなく走る。彼は慌てて、少尉の手を掴み、握りしめ、少尉についていく。歩いても歩いても、走っても走っても、周りの景色は変わることなく、草原だった。昼過ぎの空は磨き上げたような雲ひとつない青さで、彼らを優しく風とともに包み込んでいた。


 どれくらい歩いたかわからない。サルバドール氏は少尉と歩きながら、古い写真のことをぼんやりと思い出した。遠い異国の今日と同じくらいに突き抜けた青空。その下に黄金色の小麦が広がる畑。無邪気にその畑の中を走り回る灰緑の瞳の女の子と、女の子を優しく見つめる背の高いスラヴ系の男が映っていた。ふたりの目元はとてもよく似ていたような気がする。「このひとはママのボーイフレンドだったの、でもわたしはずっとほんとのお父さんだと思ってたの」と言いながら、髪の長い女の子が日焼けした無鉄砲で傲慢さと自信に溢れた若い男にその古びた写真を大事そうに取り出して見せた。女の子の母親が撮ったその写真からは手に触れたくても二度と触れられない、儚さと牧歌的な愛情の一瞬が永遠に閉じ込められていた。若い男はしばらく写真を見つめたあと、何と言ったら良いのか言葉を見つけ出せないまま、女の子に写真を返し、「いいところだね」とだけ言った。本当はもっと表現すべき感情が、伝えたかった感情があったのだが、彼にはそれを伝える術がなかった。唐突に、少尉が立ち止まり、西南の方角に向かって指を指しながら、「あったわ。あそこ。わたしたちの行くべき場所」と言った──正確にはそう瞳で語った。


 サルバドール氏がその方角を見ると、ポツンとカラフルな滑り台が一台、建っている。滑り台に少尉が先に上がり、氏が少尉を膝に抱き抱え、滑り降りる。彼らの頬を5月の午後の風が撫でていく。また、滑り台へ登り、風を感じる。何度も繰り返すうちに、やがて、少尉は滑り台から離れ、氏の手を掴み、走り出す。草の上におむつ替えマットをレジャーシート代わりに敷き、ふたりは大佐の持たせてくれたゆで卵のスライスとトマトとレタスとベーコンのサンドウィッチを食べた。少尉は緑の紙パックに入った豆乳をごくごくと飲み、サルバドール氏は自前のステンレスの魔法瓶に詰めたドリップコーヒーを飲む。草原でこうしてふたり並んでいると、とても穏やかな疲労感とともに幸福がやってくるのをサルバドール氏は感じた。名前なんて、大差ないのかもしれない。少尉は少尉であり、不在の大佐は大佐だ。忘れたのは名前だけで、彼らが大事な人たちであることに変わりない。それは動物的な感覚でわかるのだ、とサルバドール氏はひとりごとを呟いた。──ここにシモーヌちゃんがいたらなぁ──サルバドール氏が大佐の名前を意識することもなく思い出すと、草原は、いつのまにか、見覚えのあるいつもの公園の風景に溶けていた。


「パパそろそろ図書館行きたいんだけど、リサちゃん滑り台やめて図書館行かん?」


少尉はそんな邪なサルバドール氏の誘いを無邪気に風へと乗せた。ブランコにも二人乗りし、また滑り台へ戻り、を繰り返すうちに、彼らの影は東の方角へと長く伸び始めていた。少尉の背中に小さな写真の中の異国の女の子の背中を重ねた。「何日も待ったの。アレックスがアパートのチャイムを鳴らしてくれるのを」ベッドの中でシモーヌ大佐がサルバドール氏に昔の話を聞かせてくれたことをサルバドール氏は思い出していた。アレックスは写真の中の男で女の子の母親のボーイフレンドだ。大佐が4歳か5歳になるまで、週に3,4日訪ねてきた。大佐のことを自分の子どものように可愛がり、よくアパートの傍に広がる草原で遊んでくれた。「階段を上る誰かの靴の音が聞こえるでしょ、そしたら、わたし、アレックスだと思い込んで、玄関のドアを開けるの。でもその足音は上の階の人のだったり、郵便屋さんのだったり。それでも何度も足音が聞こえるたびに、玄関のドアを開けて、アレックスって叫んでたんだ」、写真の中の男のアレックス氏は、ある日を境に、二度とアパートに来ることはなかった。「ふうん、なら俺がお父さんになってあげるし、親友にもなるし、彼氏にもなる」と、若い夢しかない男は髪の長い女の子にそう言って、女の子の涙を親指でそっと拭い去り、ふたりはまた眠る。───もう、ずっと昔のことのように思えた。消せないほどの悲しみや怒り、喪失感も不安定な心も、やがては記憶の底に澱のように沈殿し、偶然、何かの拍子に思い出したとしても、そこに温かく抱きしめてくれる誰かがいれば、その澱は曖昧な赦しとして自己再生され、他の誰かへ愛を伝える伝達手段になる、そしてそうやって愛の伝達を永劫回帰的に繰り返すと赦しは輪郭を持つはっきりとしたものになるのかもしれない───ふたりの影たちは、彼らから遠くへと逃れようとしていた。影がなくなったら大変なことになる。それは夜の到来を知らせることを意味するのだ。そこでサルバドール氏はもう一度、少尉に「そろそろ図書館行きませんか?」と提案した。少尉は明るく「ノーノー」と返すだけだった。腕時計を見ると既に午後5時を過ぎている。

「図書館にはミニーちゃんが待ってます。ミニーちゃんやよ?」

そんなことで釣られるような少尉ではなかった。少尉は「ミニー」とだけ言い、滑り台を指差した。何度かまた滑り台を滑り、少尉が満足したところで、ようやく、彼らは図書館へと向かった。


 また光景が草原に切り替わり、来た時とは違い、音楽がどこからともなく聴こえてくる。いつもの夕方の市内放送で流れるカラスの歌ではない。サルバドール氏は、また名前たちを見失った。草原は黄金色に染まっていた。図書館へ行く、ということも何故、図書館に行かなければいけないのか、よくわからなくなってもいた。草原と空とのあいだに図書館という名前がグニャリと歪み、オレンジ色の西側に横たわっていた。



サルバドール氏とリサ少尉がそのグニャグニャした巨大な3文字に近づく頃には、草原ではなく、砂浜にたどり着いていた。


図 書 館


3文字の間から波が打ち寄せてくる。

よく見ると、「書」には回転式ドアが正面にあった。高さも横幅も5メートルほどの巨大な回転ドアだ。

少尉は、再び、瞳をキラキラさせ、吸い込まれるかのようにして、回転ドアの向こう側へ行ってしまった。


サルバドール氏は茫然としながらも少尉の後を追い、「書」に近寄る。


しかし、回転ドアはどこにもなかった。


図 書 館


という巨大な白の大理石の彫刻が砂浜にあるだけだ。


サルバドール氏は世界中でたったひとりにされたような焦燥感に駆られながらも、夕陽に照らされるその彫刻にもたれかかり、彫刻の中に入る方法を考えはじめていた。名前の思い出せない誰かが距離感の不透明な声で彼を呼ぶのが聞こえた。サルバドール氏は彫刻と彫刻の隙間を通り、海の方へと顔を向ける。波と波が割れ、その先の遠く、光が天空へとそびえ立つ塔から海を真っ二つに割ってできた道を照らしている。マルタ・アルゲリッチの弾く夜のガスパールの三連符と共振するかのように光は揺らぎながらサルバドール氏の方へ差し込んでいる。


彼はその光の先で声の持ち主が手を振るのがわかった。


それが図書館への入り口だった。

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