第17話『銀面』
「ハルナ先生、『シンギュラ・ザッパ』って……あれが、『シンギュラ・ザッパ』なの!?」
エコがハルナに尋ねる。
湖面に浮かび上がったのは、全長40レーンはあろうかという黒々とした巨体。液体と固体の中間のような、滑らかな塊だった。
『シンギュラ・ザッパ』は雷撃による苦痛に悶え、身をよじって苦悶の声を上げている。巨体が痛みによじれる度、湖岸に大波が打ち寄せてくる。
「じゃあ、あれが『キメリア=カルリ』の“故郷”なんだ……。タークはあれに呑まれたんだ!」
ハルナは自分を恥じた。驚いたとはいえ、エコの前で言ってはならない名前を口走ってしまった……。
いや、別にエコには話しても良かったのだ。魔導士であれば、『シンギュラ・ザッパ』と『キメリア=カルリ』の秘密について知る権利はある。
だが行政魔導士の仕事だったとはいえ……タークを生贄に捧げようとした事実が、今は重苦しい罪悪感となってハルナの胸にのしかかっていた。
「エコ……許してください。私もまさかこうなるとは思っていなかったのです、……タークさんが『キメリア=カルリ』に寄生されるなんて。……『シンギュラ・ザッパ』とこの街の『境界魔法陣』の関わりについては、いずれ教えるつもりではいました……」
それがハルナの言い訳に過ぎないことはエコにもすぐに分かったが、エコにとっての問題はそこではない。
「そんなことより、タークを助けなきゃ……! ねえ、あの生き物からタークを取り戻す方法はないの? 早くしないと、タークが死んじゃうよ!」
「それは……」
ハルナが口ごもる。エコは体ごとハルナに向き直ると、静かにその顔を見据えた。
ハルナはエコの顔を見ることが出来なかった。目線を横に逸らし、胸の前で腕を組んで言う。
「……『シンギュラ・ザッパ』は、境界魔法陣の【依代】なんです。あれに触れることで、境界魔法陣にどういう影響が出るか分からない。……それを思うと、タークさんを救うことは私には……」
「タークを助けちゃいけないっていうの? ハルナ先生! タークはこの街の人じゃないんだよ……自分の故郷に帰るために、旅をしているだけ!」
ハルナの両肩を掴んで体を揺さぶりながら、エコがまっすぐな言葉を向ける。
「だ、だから……」
ハルナは激しく葛藤した。自分でも、何が正しいことなのか分からなくなっていた。
タークをこの街の“システム”に巻き込んでしまったのは、ハルナにとっても想定外の出来事だ。
旅人が『キメリア=カルリ』の寄生を受ける……これは、記録を見返しても極めて稀なことだった。
この街のシステムを熟知している者たちの間で、暗黙の了解となっている事実がある。
それは、井戸水の中に卵が含まれているといっても、心身ともに健やかな人間ならば寄生には至らないということだ。
ふつう『キメリア=カルリ』の卵が人体に入っても、幾重にも施されている免疫機能によって除去され、ほとんどが孵化しないまま体外に排出されてしまう。よしんば孵化に成功したとしても、免疫が働いている人間の中では、幼虫が体内のしかるべき場所に移動する前に体力を使い切り、死んでしまうのだ。
もちろんいずれの場合も寄生は成り立たず、『帰郷』は果たされない。だから『生贄』に選ばれるのは体の弱っている人間――、大半は病人や歳をとった人間だ。
その事実が意味するところは何か。
それは“『キメリア=カルリ』と『シンギュラ・ザッパ』はトレログ社会への貢献が少ない人間の命を水資源に変換するシステム”だということだ。
枯れた荒れ地に存在するトレログという街において、社会の役に立たない人間のために使える余分の水は一滴もない。
だが逆にそうした人間が『生贄』になれば……その人間が使うはずだった水資源は節約され、その肉体を材料にして、街に水が供給される。
そうやって初めて、この街に水の余裕が生まれている。
もしこのシステムが存在しなければ、トレログの生活は成り立たない。
その観点に立てば、魔導士たちが『キメリア=カルリ』の感染リスクから逃れていることについては“地下湖の水に頼らざるを得ない市民たち”と“水を自ら調達できる魔導士”とではそもそも背負うべきリスクレベルが異なる、という考え方ができる。
ハルナの考え方も、おおむねこの街の行政魔導士が持つこのような理屈の上に立脚していると言っていい。
ただし今回のような場合は話が違う。
どうしてタークが寄生を受けてしまったのか定かではないが、完全なシステムというものはあり得ない。数十年、数百年もの時間が経てば、こうしたイレギュラーはいずれ必ず起こるものなのだろう。
ハルナの心は激しく揺れていた。
境界魔法陣を守ることは行政魔導士としてハルナに与えられた使命だ。
――だが、目の前で苦しんでいる教え子を見捨てることが出来ない、指導者としてのハルナも確かにいる。
自己矛盾を抱えながら、この先も同じようにこの仕事を続けられるか? ハルナは自問自答したが……答えは出なかった。
「エコ……たしかに、タークさんはこの街の人間じゃないわ。でも『キメリア=カルリ』の寄生を受けてしまったからには、この街と切り離せない“縁”が繋がってしまったことも意味すると思うの……」
そう言っておいて、ハルナは自分が使った“縁”という言葉に違和感を覚えざるを得なかった。
「だから諦めろっていうの?」
エコが泣きそうになる。ハルナにもその気持ちは分かる……。
自分の家に仕えていた使用人や召使いたちが『シンギュラ・ザッパ』の生贄になることもたまにはあった。だがハルナの私情によってそれを止めることは出来ないし、伝えることも出来ない。それがこの街に住み、生まれた時からこの街の水を飲んで生きてきた者の縁、いや……運命なのだ。そう考えて諦めてきた。
――しかしそう考えると、やはり旅人であるタークがこの街の事情に巻き込まれるのは筋が違うと感じる。
ハルナは決意した……行政魔導士のルールには逆らえるが、自分の心が決めたルールには逆らえない。もしそんなことをしてしまったら、この先どうやって生きていけばいいのだろう。
「わかったわ。エコ、今回ばかりは私も協力します。……でも私は、『シンギュラ・ザッパ』に手を出すことには協力できないわ。万が一のことがあった時に……私は自分を許せなくなる」
「うん。他に方法はない? あの……『シンギュラ・ザッパ』に手を出さずにタークを助ける方法は」
「分からないわよ……。だって『シンギュラ・ザッパ』は私にとっても未知の存在なのよ。普段目にすることもないし……」
山のような巨体を前に二人が考えあぐねていると、突然、湖の奥が光った。魔法による攻撃の光だ。
エコとハルナは咄嗟に身構えたが、その魔法は二人ではなく、湖に横たわる巨体に向かって放たれたものだった。
「びえっ! びええぇええええ!!」
巨体が痛みに悶え、その長大な尾が湖岸に叩きつけられる。
「うわああ!!」
エコとハルナのいる岸辺に大波が押し寄せる。二人は湖中に引きずり込まれそうになったが、必死に踏ん張り、なんとかびしょぬれになるだけで済んだ。
「さっきの奴の仕業か! ――カナリヤ・ヴェーナ!」
「『シンギュラ・ザッパ』をやるつもり!?」
エコとハルナは顔を見合わせて頷き合い、魔法の来た方向……崖の上にある【祭壇】へと向かった。
「ひひひっ、うまく調整した甲斐があった。だいたい想像通りの働きをしている」
魔導士カナリヤ・ヴェーナはにやりと笑った。腕と身体が鮮血でべっとりと濡れている。新しい“魔法”を作ったばかりなのだ。
「出血量を抑えるために『忌み落とし』の程度は落ちたものの、持久力は増したようだ。さっきのは、攻撃力を上げるために寿命を削りすぎましたからねぇ」
そう言いつつ、血塗れた手でメモをとっていく。切断部位。出血量。苦しみや悲鳴の程度……その魔導士のもともとの実力と、今使っている魔法の力強さ……。恐ろしいスピードで文字を書きながら、カナリヤはニコニコと笑っていた。この作業が楽しくて仕方がないと言った様子だ。
カナリヤは他人の体に『忌み落とし』を施すことにかけて、誰にも負けない自信がある。体のどこをどの程度切り取れば魔力が増すか、どの程度の出血なら何分間生命活動を続けられるか。
「あれひとつでは……足りないかもしれませんねえ。すぐに次に取り掛からなければ。いやぁ、体力を使いますよ。“魔法”を使うのも楽じゃあありません……」
カナリヤは肩を落とし、ひとつ溜め息をついた。しかし次の瞬間、その表情から余裕が消える。
『シンギュラ・ザッパ』に魔法攻撃をかけていた半身の魔導士が、岸から飛来した炎の魔法によって撃墜されたのだ。
「ちッ!! ……さっきの連中か。せっかく見逃してやったのに邪魔するつもりか? ……とはいえ、この貴重な部下たちをむざむざ消費してしまえば、私としては本懐を果たせなくなる……。となれば……」
カナリヤは、背後をちらりと見た。
そこに、闇の中にさらに深い影を落としてたたずむ一人の魔導士がいた。
影のように存在感がないその男は、全身に長いローブを纏い、頭部には銀色のマスクをかぶっている。人相はうかがえない。
「どんなものか、試してみるとしましょうか? これは賭けですね。ま……しかし考えようによってはですよ。――チップの“元手”は大したことがない。別に、捨てても惜しくはない。そう思えば――試す価値は十分ある」
カナリヤは誰に話しかけるでもなく、呟いた。そして血まみれの手で足元の杖を拾い上げると、その先端を魔導士に押し付ける。
杖がその体に触れた瞬間、マスクをかぶった魔導士の身体がびくっ、と震える。
「行きなさい――“銀面”!」
脈動とともに、『忌み落とし』による膨大な魔力が波となって空間を渡っていった。
――――
崖の下。
「誰かこっちに来るよ……」
エコが警戒を強めた。【祭壇】のある崖の上からなにかが歩いてくる気配を感じる。二人は岩陰に身を潜めた。
その何者かは手元にわずかな魔法の明かりを灯して、坂道を下ってくる。
エコは先ほど炎の魔法で魔導士を攻撃したので、こちらの存在には気づかれているはずだ。
「あのカナリヤとかいう男? ――なら、こちらから先に攻撃すべきでは……」
ハルナが小声で言う。エコは首を振った。
「いや……違う気がする。近づき方が無用心すぎるよ――もしかしたら、ハルナ先生。さっきの人みたいに、あいつの部下が助けを求めて近づいて来てるのかもしれないでしょ……それと分かるまでは攻撃したくない」
「そうね……判断がつくまでは姿を現さないようにしましょう。警戒を怠らずに」
二人が暗い岩陰で息をひそめる中、人影は崖上からゆっくりと歩いてくる。
距離が近づくにつれ、おぼろげな明かりに照らされたその姿形がだんだんと認識できるようになる。
その人物の姿は、どこか異様だった。足取りはおぼつかず、ただ坂を下りてくるだけなのにぐらぐらと上体が揺れ、今にも倒れそうだ。
身長と体格から男性だということは分かるが、長いローブを纏っているせいでどういう体形かが分からない。
ひときわ異様に目を引くのが、頭部をすっぽりと覆っている銀色のマスクだ。甲冑の兜のようにぴったりと頭部をガードしているのに、本来あるべき位置に穴が一つも開いていない。つまり、この男は完全な暗闇の中にいるということだ。もちろん耳や鼻も覆われているので、五官のうち半分はまともに機能していないことになる。
「そこにいるのは分かっていますよ」
突然、暗闇から声が投げかけられる。銀色のマスクをかぶった魔導士ではなく、そのすぐ後ろにいる男のものだった。
「先ほどは、よくも私の“魔法”を撃ち落としてくれましたね……くくっ」
声は最後に嘲笑を付け加えると、返答を待たずにそのまま続けた。
「しかし、素晴らしい戦いでした……。あれほどの数の私の“魔法”――
その言葉を聞いて、唐突にエコが立ち上がる。
(エコ!?)
横にいたハルナが驚いた。
エコは立ち上がった勢いのまま岩陰から出て行き、カナリヤを睨んだ。
「『カナリヤ・ヴェーナ』というのはあなたね!? わたしはエコ!! ……あなたのしたことは、あなたの部下からすべて聞いた。なぜ、あの人たちにあんな酷いことをしたの!!」
その声色には、ほとばしるような怒りが篭っていた。一方で、カナリヤは人を小馬鹿にしたような態度を崩さない。
「エコとおっしゃるんですね。ご丁寧なご挨拶をどうも。……いかにも、私はカナリヤ・ヴェーナ。『フスコプサロの会』の幹部、【血の六芒星】の一人です。なるほど。魔法の数が合わないとは思っていましたが……私の部下から裏切り者が出たんですね? まあそれは置いておいて……酷いこと、というのは何のことでしょう?」
わざとらしい動作を付けて、意外そうにカナリヤが言う。エコはさらに語気を荒げた。
「誤魔化してもだめ! 何人もの魔導士の……半身を削り取り、殺したでしょう!」
「半身……? ああ、もしかして私の“魔法”のことを言っているのですか? あれは違います、違いますよ。別に酷いことじゃありません」
「なに……!?」
カナリヤの放った想定外の返答に、エコは思わず面食らってしまう。
「ははは、勘弁してください。全くの誤解だ……酷い誤解ですよ。誰が裏切ったか知りませんが、そいつの言葉を鵜呑みにしたんですか? それで私を糾弾する? まあ彼らの主観でものを言えばそういう話になってもおかしくはない。しかし私の言い分も聞いた上で、客観的に物事を判断すべきですよ。あなたは……先ほど戦った彼らが例外なく、他人の人生を狂わせ奪い取った重罪人だという事実を知っていましたか」
「ど……どういうこと……?」
エコは動揺し、聞き返してしまった。カナリヤはエコの動揺につけこむように笑った。
「殺人。強姦。強盗。そのいずれか、あるいはすべて。彼らはそういった罪を犯し、あまつさえそれを繰り返してきた連中です。生かしておいては街々の皆様に迷惑をかけ続ける。市民生活を脅かす。……そういう連中なのですから、私が彼らを『忌み落とし』させて前線に投入したところで……しかし、あなたは酷いお人よしですね。よくあんな人間の言う事が信じられましたねえ? 私が言うのもなんですが、あの人たち、嘘も平気でつくんですよ。悪事を犯しすぎて、もう罪の意識みたいなものは余分な持ち合わせがないのでしょうね」
「な、なに……?」
すると……さきほどエコたちに泣きついてきた魔導士も、罪を犯した人……だったのだろうか。一度そう考えてしまうと、エコの耳に残るあの末期の言葉も……嘘、というより、自分の犯した罪を棚に上げた恨み言に過ぎなかったのかと思えて、エコは自分の価値観が裏返る恐怖を抱いた。
「だけど……もしそれが事実だとしても、……人間をあんな風に傷つけて道具のように扱うことは……!」
エコは絞り出すように声を上げたが、カナリヤは片手を上げてそれを制した。
「言ったでしょう、あれは私の“魔法”だと。あなたが思うより手がかかっているんですよ……。詳しい話は省きますが、彼らには罪をつぐなうチャンスを与え、それが達成できれば解放すると約束を交わしてます。そして、それが達成できなかった時は私にその命をゆだねるという誓いを立てさせているんですよ。彼らに他の選択肢がないことは認めますが、あれは間接的に彼らが望んでやっていることなのです。そういう前提だからこそ、あれは私の“魔法”だと言っているわけです」
「……!」
エコは答えに窮する。この理屈は正統なのか? どちらの主張が正しく、どちらが嘘なのか? 重罪人相手ならば何をしてもいいのか? 罪は誰にあるのか……?
頭の回転が速いばかりに、エコは間接的に手を下した自分自身に罪がある可能性にまで思考の手を伸ばしてしまう。頭がパンクしそうだった。
間髪入れず、カナリヤが口を開く。
「ところで、ちょっとお聞きしてもよろしいですか」
このままこの男の話を聞き続けるのは……危ない。エコはなんとなくそう感じているが、金縛りにあったように体が動かない。
カナリヤはそのまま続ける。
「次のような罪を犯した者を、あなたならどう裁きますか。――親に勘当された腹いせに悪い仲間を伴ってその家に踏み入り、自分の家族を仲間に襲わせ、強姦、惨殺して金品を奪う……そんな重罪人を考えてみてくださいよ。さらに彼はその後もその罪を悔いることなく、同じようなことを七回くらい繰り返しているとしましょうか……。彼は魔導士の端くれでした。下手に魔法が使えるばかりに、その一件で味を占めたんでしょうねぇ。それからも強盗殺人、強姦殺人の引受人として平和な街を荒らしまくり、あらかた稼いだらまた他の街に行って同じことをやる。普通、行政魔導士は街を跨いで人間を追いかけることはしませんし、魔法が使えることを見せびらかせば市民は彼に手が出せなくなります。そんな人間をあなたが裁かなくてはいけないとしたら……どうしますか?」
エコは返答できない。わずかな間をとって、ふたたびカナリヤが話し始める。
「……あなたは正常です、答えが出ないのが普通ですよ。先ほど送り込んだ連中はみんなそういう輩です。まあ、でも、別段珍しくもないことですよ。……私は元行政魔導士でした。街を荒らした罪人たちを捕え、彼らを高位行政魔導士の裁きにかけるという役目のね。ですが先ほど述べた通り、街から出られたら私にそれを追う権限はありません。それに、高位行政魔導士の裁きって同じ魔導士にはごく甘いんですよね。市民生活がどんなに犯され、死んで、金品を奪われても……場合によっては無罪放免になることもあるんですよ。ねえ、これって狂ってるでしょう? だから私は自分の正義感に従い生きることにしました。裁きも自分で下すことにしました。本来なら生きている資格すらない連中に、“二度と罪を犯さない”と誓わせて部下として使ってやっている……のですが。くくっ、残念ながらそういう連中ほど、しばらく時間が経つと同じことをまたやるんですよねぇ。心って、一度腐ると元には戻らないんでしょうか?」
「でも……だからって! 彼らを『忌み落とし』させて差し向けたのは……あなたなんでしょ!? それだけは……どんな理由があろうと言い訳はできない!」
エコは言い返したが、それが精いっぱいだった。
カナリヤは勝ち誇ったかのように続ける。
物陰でハルナが詠唱を始めていた。
「では、あなたはいかに反省を知らない重罪人と言えども、自らの手で殺傷することは許されないというのですね。神のごとく寛大な慈悲をもって許してやるべきと? でもそれは単に、ご自分が死刑執行人になりたくないだけではないのですか? ……私が送り込み、私を裏切った男の最期について教えてくださいますか? ……あなたの主張を真とすれば、彼を殺したのは誰なのかが分かるはずです」
「う……っ」
胸に突き刺さるような言葉を受け、エコはたじろいでしまった。『殺してくれ』……つい先ほど耳にした、死にかけの魔導士の言葉が脳裏によみがえる。
『殺してくれ』と懇願されても、エコは彼をどうすることも出来なかった。とどめを刺したのはハルナだ……、しかし、エコも共犯だ。
カナリヤが畳みかけるように言う。
「私は、罪人は死刑になるべきだと考えます。そして死刑を言い渡したあと、それを執行する人間は必ず必要なのです。私は、彼らに再び罪を犯すようなことがあれば……私の命令に従わないようなことがあれば、もう人とは思わない。『忌み落とし』の実験体として扱うと、あらかじめ伝えているのですよ。そしてそれを言い渡した者の責任として、自らの手で彼らを裁いているのです。以上の理由から、私はこれが罪だとは思っておりません。むしろいいことをしているとすら考えていま――」
「『アーク・ライン』!!」
カナリヤの言葉を遮るように、ハルナの放った電熱光線がカナリヤに向かった。
高い魔力を持つハルナが数秒間に及ぶ長い詠唱をもって発動した魔法は、すさまじいエネルギーを迸らせながらカナリヤとその前にいる銀色のマスクをかぶった魔導士に殺到する。
しかし銀色のマスクをかぶった魔導士は、それをこともなげに眼前ではじき返した。
熱線は目に見えない魔法障壁に弾かれて乱反射し、エコのすぐ目の前を薙ぎ払い、焼き切った。
「あつっ!」
エコが数歩後ずさる。軽く火傷をしたが、幸い大事には至らないようだった。しかし、右足をもう半歩前に出していたら、指が焼き切れていただろう。
「もう一人はそこですか! “銀面”、やれ!」
カナリヤが目の前の魔導士に杖を押し当てたまま命令を下す。すると“銀面”と呼ばれた魔導士の目の前に凍てつく氷の刃が何本も形成され、ハルナに向かって矢継ぎ早に射出された。
ハルナは咄嗟に身を翻し、大きな岩の陰に飛び込む。氷の刃が、次々と岩に叩きつけられた。
氷の刃は鋭く、固い。ノミが打ち付けられるように、見る見るうちに岩の表面を削り取ってあたりにぶちまけていく。削り取られた破片が
「うわぁっ!」
高速で飛んでくる横殴りの破片と石礫の雨。エコはたまらず腕で頭を覆って地面を転がり、岩陰に避難した。
洞窟中に響き渡った音が完全に消えるまでにはしばらくの時間を要した。
暗闇の中で、エコは頭を抱えてしばらく身を固めていた。体の上にいくつもの岩の破片がのっかって重たい。息をひそめて様子を窺うと……“銀面”と呼ばれた魔導士も、カナリヤ・ヴェーナも、ハルナも、気配が感じられない。辺り一面、しんとしていた。
(ハルナ先生……まさか……死んだ? いや、きっと生きてる。それにしても、あの魔導士の魔法、これまで見たこともないほど強力だ……)
エコは目を凝らしたが、明かりの消えた洞窟の中には光がなく、状況が全く分からない。エコも魔法で辺りを照らすことは出来るが、そんなことをすれば“銀面”の強力な魔法が飛んでくるだろう。
すこし待っていると、暗闇の中に明かりが浮かび上がった。“銀面”とカナリヤ・ヴェーナだった。彼らも先ほどの魔法による瓦礫の被害を免れなかったらしく、服が岩の破片に塗れている。
「やれやれ……お前、加減というものを知らないのですか!?」
カナリヤが手に持った杖で“銀面”を殴りつけた。“銀面”はわずかによろけたが、転ぶほどではない。
「あんな威力の魔法を間近で撃てば、こうなるのは分かり切っているでしょうに……とはいえ、あの行政魔導士の女は消えうせましたかね。……もう一人は……ま、いいでしょう。よもや“銀面”にこれほどまでの力があるとは……うふふふふ、くくくははははは! 想像以上ですよ。実験は大成功です」
甲高い笑い声を上げながら、カナリヤが踵を返して崖の上に戻っていく。
(ハルナ先生が消えうせた……? でも、先生は岩の陰に隠れて――)
エコが慎重に首を動かし、ハルナがいた岩を視界に入れる。大岩は跡形もなくなり、代わりに鋭い氷の刃が墓標のように突き立っていた。
(うそ……大岩を完全に削り取ってしまうなんて。なんて威力なの?)
ぞっとした。ハルナの魔法を跳ね返す防御能力と、巨大な岩を完全に破壊する攻撃能力。これでは万に一つも勝ち目はない。しかしタークを助けるためには、倒せないまでも、あの二人を出し抜かなくてはならない。
(あの人、とんでもない魔導士だ。……でも彼らを何とかしないと、タークが……)
タークは『シンギュラ・ザッパ』の中にいるはずだ。なんとか、タークを『シンギュラ・ザッパ』の中から助け出さなくてはならない。
カナリヤは『シンギュラ・ザッパ』を殺そうとしているようだ。もしそんなことになれば、中にいるタークも一緒に死んでしまうかもしれない。
「ターク……。なんとか、あの二人の魔導士を倒さなきゃだめだ。ハルナ先生は……」
エコは慎重に立ち上がると、ハルナの安否を確認するため、闇の中を移動した。
時を同じくしてカナリヤの攻撃が再開され、地下湖に再び電光がきらめいた。
――――
タークは戸惑っていた。
(あんたが、あんたは……!? なんなんだこの記憶は!?)
自分の頭の中で多くの言葉と記憶が混ざる。自分と相手の境界線がぼけていく。
タークは自分の意識が他人の記憶に呑み込まれる恐怖を味わった。
(落ち着きたまえ。ターク・グレーン君、大丈夫だ……、冷静になるんだ)
タークは思考の整理が追い付かず、相対する男が言ったことを、そのまま繰り返した。
(大丈夫? 冷静になる……? あんたは魔導士シンギュラ・ザッパ……? 『トレログ』を作り出した魔導士……?)
(そうだ。君は故郷を追われ、流れ者になったんだね。いままで辛いことも沢山あったが、それを自分の力でなんとか乗り越えてきた……、自信を持ちなさい、私の記憶や意識に呑み込まれるほど、君の自我は弱くはないはずだね)
シンギュラ・ザッパの思念がおだやかな波となって、タークの思考をなだめようとする。痙攣したように落ち着かない。
いまタークのいる場所――『シンギュラ・ザッパ』の体内――は不思議な空間だった。物理的なものではなく、そこにいるものの思考や記憶を共有してしまう精神的で神秘的な場なのだ。
存在は場の揺らぎとなり、思考もまた場を渡る波紋となって、お互いに影響を与えあう。
今のタークの意識の中には、魔導士“シンギュラ・ザッパ”の記憶が無数の言葉となって流れ込んできていた。その勢いは波というより濁流のようで、絶えず処理し続けなくては自我が押し流されてしまう。
(トレログ……、かつてのこの地には十分な水がなく……大量の危険な魔物が生息していてとても人の住める場所ではなかった。それを作り変えるためにやってきたのがあんたで……。多くの犠牲者を出しながら、数十年の歳月をかけて今の『境界魔法陣』と『トレログ』の原型を作った……)
タークが今しがた得た知識をそのまま吐き出す。そうでもしないと、流れ込んでくる大量の記憶で頭の中があふれ出してしまいそうだ。シンギュラ・ザッパの思考がタークに応えた。
(ああ、そうさ。君の言う通りだよ。この地に眠る大量の地下資源を人々が活用する為には、なんとしてもこの土地に拠点となる都市を築かなくてはならなかった)
(だがしかし……あまりうまくは行かなかった……)
シンギュラ・ザッパは悲しみの感情と共に思った。タークがその先を引き継ぐ。
(人は水がなければ生きられない。作物も育たない。境界魔法陣が作れても、魔導士だけでは街は生み出せない……そこに生活がなければ。それが持続しない限りは)
魔導士は水が出せる。魔物を退けられる。しかし本当の意味での『都市』を作るには、そこで多くの人々が生活を営む必要がある。その為の環境を作るのが、かつての彼の役目だった。
(ターク君。私は最初、境界魔法陣に工夫することによってこの地に水を呼べないかと思った。その試みは多少上手くいったように思えた。しかしダメだった。水を呼ぼうにも、やはりこの周辺に飲める水はないのだ。ほとんど雨は降らないし、地下水もすぐに枯れる。……だから、私はなんとか魔法の力で水を作り出せないかと考えるようになった)
(魔法の力で水を出す……魔導士がいつもやっていることじゃないのか)
タークが疑問が波となって伝わる。しかしその時には、タークの頭に直接相手の答えが流れ込んできていた。
(それが違うんだな……いかに魔法といえど、無から有を作り出しているわけじゃない。周囲の空気から集めたり、他の物質を変化させて水を作っている。魔法と人間の力の限界を感じたよ。生涯をかけて学んできた魔法という技術は、この程度のものだったのかとね。私は病を得て早死にした。そして、死の瞬間『ミッグ・フォイル』が発動した……)
偉大なる魔導士の死と共に発動する最大の魔法、『ミッグ・フォイル』。使用者の悲願を叶えるこの現象が起こると、普通の魔法では達成不可能なことが起きるという。
(その結果できたのが、いまわれわれがいる地下湖とこの『シンギュラ・ザッパ』だというわけだ、ターク君。『ミッグ・フォイル』によって生まれた魔法生物……そもそも、これを生物と呼んでいいのか分からんがね)
(ああ。いろんなことを考えあわせると確かに、あんたが考えている通り……俺にもこの不可解な生き物は“魔法そのもの”に思える瞬間がある。まさに“魔法生物”と呼ぶにふさわしい存在だ)
『シンギュラ・ザッパ』は生き物と魔法の中間の存在である――と魔導士シンギュラ・ザッパは考えていた。この生き物には、普通の生物にあるような常識が通用しない。
“実体化”すると巨大なサンショウウオのような姿になる『シンギュラ・ザッパ』だが、水中に潜んでいるときは体が水になる。水と化した『シンギュラ・ザッパ』は存在がおぼろげになり……、湖のどの部分に存在するのかも不確実になる。
(ただ、分からんことがある……、私はこの地に潤沢な地下水があればどんなにいいかと夢想した。このように水に恵まれた地下湖が『トレログ』の地下に存在すれば、市民は水に困らんのにと……。そういう意味では私の悲願は叶ったんだ。――しかし、『キメリア=カルリ』は違う。あんなおぞましい寄生虫の存在を想像したことは一度もない。市民の命を水に変えるなどということは私は決して望まない。ましてや君のような無関係な人間を巻き込むことを望むわけが……完成したこのシステムが優れていることは分かる。だが私自身がこのような市民の犠牲を強いるシステムを考え出した事実は否定する)
魔導士シンギュラ・ザッパが強い否定の思念波を出した。タークはそれを色で表現するなら黒だと感じる。
(……だが、『キメリア=カルリ』は現実にいるんだ。俺の頭を乗っ取って、『シンギュラ・ザッパ』の下に生贄を運んで地下湖の水に変えている……中間宿主が人間で、最終宿主が『シンギュラ・ザッパ』となる魔法生物が……あんたが生みだしたものじゃないとすれば、他にどんな可能性がある? 別の魔導士が生みだした? そうではなく、あんた自身にも自分では認知できない無意識の闇があったってことじゃないのか)
(ちがう……ちがう! 街への貢献が少ない人民の命を犠牲にして水を作るシステムなど狂っている。それは絶対に私の望んだトレログの姿ではない。私はこんなものは生み出せない。我々の間に嘘偽りが成り立たないことを、ターク君もよく分かっているはずだ)
(確かにあんたは心底苦悩している……こんな街なら作らなかった方がよかったと後悔までしているようだし、俺を巻き込んだことを申し訳なく思ってくれている気持ちも伝わってくる。だがやはり、あんた自身にすら分からない部分は、俺にも分かるはずがない。鏡がなければ自分の姿が見えないのと同じく、心にも自分には見明かせない闇を抱えている……、それが人の心じゃないだろうか)
(やめてくれ……今や最大の理解者であるはずの君にまで、そんなことを思われるとは……)
その時、湖の上でカナリヤ・ヴェーナが手を焼いていた。“銀面”に命じて湖の中の“シンギュラ・ザッパ”への攻撃を続けているのに、なんの手ごたえも感じなかった。
「まさか逃げたのか……? いや、あんなデカブツが逃げられるほど大きな横穴は開いてはいないはずです。この湖はそれほど大それて広いわけではない。水深もたかが知れている……湖ではなく、池といってもいいくらいだ。“銀面”の魔法が通じないとは……考えにくい」
カナリヤの頭に、タークをこの【祭壇】に連れてきた時のことが思い出された。
「水……そうか、奴はここに現れた瞬間、水と全く変わらない姿で現れましたんでしたね。この湖の水が奴の身体そのものだとしたら……?」
そのまま少し考え込む。“銀面”はその傍らに、何言わずに突っ立っていた。
「はあー。……なに、この水のどこに『シンギュラ・ザッパ』がいるのか、そんなことは分からなくてもいいのです。何の問題もない。何の問題もね」
カナリヤはそう言うと、ひひひ、と乾いた笑い声を上げた。
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