第16話『帰郷』

 湖の中……タークは静かに溺れていた。


(息が出来ない……体が言うことを聞かない……死ぬっ……!)

 タークの視界は真っ暗になっていた。湖中に飛び込んだ後急に身動きが取れなくなり、その際大量の水を飲み込んでしまったのだ。水面に上がろうと必死に喘いだが、無駄なようだった。

 呼吸が足りず、体が言うことを聞かない。平衡感覚が失われている。


『帰れる! 帰れる!』


 頭の中で『キメリア・カルリ』が狂喜していた。タークがこんな状態に陥ったのは、彼らの仕業だった。

『キメリア・カルリ』に宿主の身体を完璧に操るような真似は出来ない。彼らはしょせん、寄生虫だ。決して高度な知性があるわけではない。

 ただすべての生き物がそうであるように、“獲物”を捕らえる術は本能的に知っていた。宿主が水中に入った瞬間、『キメリア・カルリ』はタイミングを見計らって宿主の身体をほんの一度だけ“呼吸”させる。

『キメリア・カルリ』の狩りは、それだけで終わりだ。そうすることによって宿主の気道に水が入り、激しい咳嗽反射(せきこむこと)とそれに伴うパニックを起こす。宿主の平衡感覚は失われ、上下が分からなくなる。そうなれば、どんなにもがいても浮上することはできなくなる。


 そして――人間大の生き物が水中でもがくことで……その水の動きを感知して“獲物”の存在を知覚する別の生き物が、この湖の中にはいた。

 長いひげを持つ巨大なサンショウウオ――『シンギュラ・ザッパ』が、大量の湖水と共にタークの体を呑み込もうと、大口を開いた。


『帰れる!! 帰れる――!!』

 頭のどこかから、『キメリア=カルリ』の声が聞こえてくる。

(帰る……? どこにだ……。故郷に? あの、クソったれの町に?)

 タークの脳裏に、実家――広大な森の縁に建つ小さなあばら家と、狭い中でひしめくように暮らす一家の姿――が浮かんだ。

(俺は、あそこに帰らなければいけないのか……?)


 父の死後、残された家族を養う役目は長男……まだ若いタークが担うこととなった。

 朝から晩まで休みなく働き、家に帰れば倒れ込むようにして眠る毎日。

 先の見えない日々に絶望したかつてのタークは、父を殺した魔導士を襲う計画を立て、それを実行に移した。


 タークは、町の酒場にたむろしている荒くれた若者たちに不思議な人望があった。

 力を持て余していた彼らを言葉巧みに誘って支配者……【魔導士】への怒りを煽り、父の仇の乗る馬車に向かわせ、集団で襲う。いくら魔導士でも若者十数名に闇討ちされればひとたまりもない――タークはそう考えた。


 月のない夜に計画が実行された。

 四頭立ての大きな馬車が若者たちによって止められ、恐怖のあまり逃げ出した御者は、スラムに住む血の気の多い若者たちに袋叩きにされた。タークとその仲間たち何人かが馬車に押し入ると、中には豪華な服を着た魔導士とその家族数名が座っていた。

 女子供が悲鳴を上げる中、タークたちは手に刃物を持って魔導士に切りかかる。計画通りに事が進み、企ては成功するかに思われた。

 しかし魔導士によって一発の魔法が詠唱されるや否や、状況がひっくり返ってしまった。

 放射する電撃魔法によって、魔導士に襲いかかった仲間たちが酷いやけどを負い、馬車の中に苦痛の声が響く。残った連中も、爆音におじけづいて逃げ出した。

 タークもまたその魔法の威力を目の当たりにして敗北を悟り、馬車から転がり出て夜陰に紛れた。


 それからどこをどうやって逃げたのか記憶がない。家の近くの知っている道に出た時、タークは小さな箱を持っていることに気づいた。馬車内部の混乱に乗じて、無意識に掴んだのだ。

 なぜ……、とタークは思った。なぜ自分はこんな小箱を手に持っているのだろう? どうして逃げている途中もこれを放り出さなかったのだろう?

 理由はただ一つ。きらびやかな作りを見て、とっさに『金目のもの』だと思ったからだ。

 そしてそれを自覚した途端、タークは本当の自分の姿に気づいてしまった。

 父の仇討ちという大義名分を掲げて計画した、魔導士の襲撃計画。だが本心では父の仇よりも、家族を養うため……というより、その義務から解放されるために金を欲していた……。


 周到に用意したはずのその襲撃は失敗に終わり、仲間の密告によって、首謀者がタークだという事もすぐにばれた。そしてタークは故郷にいられなくなり、差し向けられた追手から逃げるため、放浪の身の上となった。

 だが盗んだ小箱とその“中身”のことは、ターク以外誰も知らない。タークだけが、この事実を知っていた。自分自身の醜い心を……。


(俺は――、このままではエコと一緒にいる資格はない。こんな罪悪感を抱えたままでは……。帰らなくては。故郷に、帰らなくては)




 タークの身体が、巨大な暗黒の口の中にゆっくりと呑まれていった。『シンギュラ・ザッパ』の大きな口がゆっくりと閉じてゆく。

『シンギュラ・ザッパ』は餌と共に飲み込んだ大量の水をエラを通して吐き出しつつ、口の中身を喉の奥に押し込んでゆく。久々の餌の味を堪能するかのように、そのまま動きを止めた。

 そのすぐ脇に、手足のない死体が落ちてきた。死体は白い気泡をはらみながら湖中に没していく。



 静けさに包まれた水中世界のすぐ上では、激しい戦いが繰り広げられていた。

 一方は、手足のない魔導士たち。もう一方は、少女と妙齢の女性魔導士。

 膨大なエネルギーを持つ魔法が真っ向からぶつかり、その度に閃光が瞬く。

「エコ! 敵はあと、二人!!」

「了解!」

 数で劣るエコとハルナは、湖沿いに場所を移動しながら応戦していた。手足のない魔導士たちは一発魔法を打つたびに死んでいったが、そのたび一体ずつ補充され、切れ間なく二人に襲いかかってくる。

【忌み落とし】によって増幅したその魔力は強大で、エコたちは防御で手一杯になり、攻勢に転じることは出来なかった。

 しかし、耐えてさえいればいずれ終わるはずだ。膨大な魔力と引き換えに、彼らは命を使い捨てている。いや……そう仕向けている男『カナリヤ・ヴェーナ』が背後にいるのだ。


(本当は、手足のない魔導士とは戦っちゃいけないんだ。こんなことをやらせている、張本人と戦わなきゃ……!!)

 エコは歯噛みした。そう考えはすれど、とても実行には移せそうにない。


 湖上を浮遊する手足のない魔導士が、彼の生命そのものとも言うべき強烈な雷の魔法を唱えた。しかし発動の瞬間、エコの放った水の魔法『ウォーターシュート』が魔導士の体にぶつかり、重心を崩す。

 重心を崩した魔導士の狙いが逸れ、発生した稲光の奔流は直下の地下湖に向かって放たれた。空気が破裂するかのような鋭い音と光の爆発。ほとばしる電気束が湖全体に走った。穏やかだった水中の世界も、この時ばかりは湖面の戦いと無関係ではいられなかった。



「――びぎゅびえええぇぇえええっっ!!!」

 雷鳴から一呼吸遅れて地底湖に地響きのような悲鳴がこだまし、湖面から天井に届くほど高い水柱が上がる。魔導士の放った電撃が、水面近くにいた『シンギュラ・ザッパ』を直撃したのだ。

 雷撃を放った魔導士は絶命し、水柱に呑み込まれて誰にも知られないまま湖中に没していった。


「ハルナ先生、今の声はいったい……!?」

「まさか、『シンギュラ・ザッパ』に……!?」

 ショックのあまり、ハルナが秘密のはずだった“その名前”を口に出してしまう。気づいた時には、驚いたエコの顔がこちらを向いていた。

「あれが……!?」

『シンギュラ・ザッパ』の立てた水しぶきが、冷たい雨となって二人の頭上に降り注ぐ。エコの視線の先には、水草に覆われた滑らかな岩のような巨体がのたうっている。

「あれが、『シンギュラ・ザッパ』なの!? じゃあ、もしかして、タークが――」





「おやおやおや、これは話が変わりましたよ……そんな手が残されていたとは!」

【祭壇】のある崖の上で、『フスコプサロの会』の魔導士カナリヤ・ヴェーナがほくそ笑んだ。

 全身が返り血にまみれているせいで、白い目と歯だけが闇の中に不気味に浮かんでいるように見える。


「こうなれば……あの魔導士二人に構っている場合ではないようですね。『シンギュラ・ザッパ』さえ仕留めることができれば……トレログの境界魔法陣は崩れ、私の任務は立派に果たされるというものです。さすれば、残りの“魔法”は……」

 カナリヤは足元に寝転がっている数名の部下の姿を見た。

 カナリヤの魔法によって身動きが取れなくなり、血だまりの中に芋虫のように転がっている彼らが、千切れんばかりに目を見開いてカナリヤを見る。

 カナリヤはこれから、彼らの手足をもぎ、苦痛を与えながら簡易的な止血処理を施して、“戦場”へと送り出す。全身が返り血で塗れているのはこの作業による。


 何かを失うことで魔力を得る『忌み落とし』の効果を十分に発揮させるためには、“その生き物にとって大切なものを失うこと”が絶対条件となる。

 大切な何かとは、例えば腕や、足や、内臓だが……、ただそれを失うというだけでなく、失うことに伴う“痛み”や“恐怖”をまざまざと感じてもらう必要がある。

 これらを感じるのと感じないのとでは、『忌み落とし』の効果の出かたに天地の差が出ると言っていい。


 『忌み落とし』にごまかしが通用しない事を、カナリヤは長年の経験からよく知っていた。だからこそカナリヤは彼らの意識を保ったままの状態にし、興奮剤のようなものを接種させ、痛覚を過敏にさせておく。やりすぎると発狂してしまうので、程よく。この塩梅が重要なのだ。


 自分は職人気質な男だ……カナリヤはそんなことを考えていた。そのせいか、彼にとって職人の集まるトレログの街は好きになれそうな場所だった。それだけに、自分の仕事がトレログを滅ぼすことであると思うと、不思議な運命の巡り合わせを感じる。


 しかし、同時にこうも思うのだ。大切だからこそ滅ぼす価値があると。自分にとってどうでもいいもの、滅んでも滅びなくても関係ないものなら、それには滅ぼす価値がないのだと。

“大切なものを失う”ことは、かけがえない肉体を魔力に変換する『忌み落とし』の法則にも通じる。

 好きなものや大切なものを切り離していくこと。それが自分の成長にとって必要なことなのだと、カナリヤは解釈していた。


 

「いち、にい、さん――あと四発か。参りました。ここまで考えなしに消費しすぎてしまったようです。役立たずどもが、結局は彼らを倒すことすら敵いませんでしたか。――いいえ、これは私自身の失敗ですね。利用されるだけのあなたたちに責任を求めるのは酷というものです。こういうのを使用者責任って言うんですかね~?」


 カナリヤは冷ややかな口調で、時々冷笑をはさみながら、ぶつぶつと独り言を続けた。


「しかしまあ、あと四発……もあればさすがに、あの生物を仕留めるには足りるでしょう。……所詮大きいだけが取り柄の、一介の魔法生物に過ぎません」

 カナリヤはため息と共に呟き、再び肉切り包丁を構えて、横たわる魔導士の一人に向かって振り向いた。


 カナリヤと目を合わせてしまった男は声にならない嗚咽を上げ、全身から液体を流して、これから来る痛みに恐怖した。


 

――――



 次に気が付いた時、タークは光の中にいた。

 そこは、あまりにも眩い世界だった。まるで、太陽の中にでもいるかのように。

(どこだよここは……)


 何一つ見えないという意味で、光の中は漆黒の暗闇の中にいるのと何も変わらない。タークはそこでそんな発見をした。

 あたりを見回し、そしてあることに気付く。

(どうなってんだ……)

 自分の体がどこにもなかった。誰何すいかの声を上げようとしたが、声が出ない。自分の体がどこにもなかった。タークという意識でしかなかった。


 死――。

 ふとそんな言葉がタークの頭をよぎる。だが、タークは必死にそれを振り払う。

(ふざけるな。俺にはまだやることがあるんだ。エコのところに戻らなくてはならないんだ。……故郷に、家族のところに、戻らなくては……)


 タークを包む世界に、わずかな揺らぎが起こる。世界に、別の思考が混ざる。


(おかしい……君は、『キメリア=カルリ』に寄生されてここに来たはずだ。なぜ思索を辞めない? なぜ自我を保っていられる? なぜ水に……水になって消えないんだ?)

 タークは謎の声を聞き、奇妙な感覚を味わった。それまで考えたこともないような沢山の言葉が、急に頭に流れ込んできたのだ。思考がパンクしそうになる。


(なんだ、この感覚! ト、――トレログの水は……『キメリア=カルリ』に寄生された人々の生命が『シンギュラ・ザッパ』の体内で原初の水に還元され……それがこの不毛の地に命をもたらす水になっている……?)

 ターク自身にも、その時何が起きたのかよく分からなかった。まるで自分自身で考えたかのように、タークはその人物の思考と記憶を読み取ってしまっていた。

 完全な思考の共有。

 いままで味わったことのない違和感が思考と自我の世界に満ちて、相手の考えたことと自分で考えていることの区別がつかなくなる。


(あんた……あんたは……。あんたの名は、“シンギュラ・ザッパ”。トレログの境界魔法陣を作った、数百年前の魔導士……)


 タークは慌てて相手の名前を呼んだ。二人分の記憶と思考がないまぜになり、自我が崩れそうになる。自分が誰だか分からなくなる。

 自分が考えたことか、相手が考えたことか。言葉にして吐き出さなければ、それすら分からなくなってしまいそうだった。


 思念を共有した者に嘘偽りは通用しない――。相手も、観念したように名乗った。


(……そうだ。私は魔導士シンギュラ・ザッパ。『ミッグ・フォイル』によってこの巨大な魔法生物を生み出し、その体の中で『トレログ』の行く末を見守る定めを持つ者だ)

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