第14話『水底に集う(前編)』

 歩みを進めるエコの肌に、湿り気を帯びたひんやりとした空気がまとわりついてくる。

 トレログの夜は更け、井戸の底に降りたエコを見ていたのは、天上に浮かぶ丸い月だけだった。


 エコの前から、ざぶざぶと水をかき分ける音が響いてくる。寄生虫に頭を乗っ取られ、“中間宿主”となった男性にようやく追いついたのだ。

(この先は水溜まりになっているのか……)

 エコは人目を避けるためしばらく手探りで暗闇の中を進んでいたが、入り口が遠くなったのを見計らって魔法の灯を点けた。可燃性のガスなどが溜まっている場合があるので洞窟で不用意に火を点けるのは危険な行為だが、風が通っているのでその心配はしていない。


 竪穴の中は人ひとりがギリギリ通れる程度の狭い通路になっており、周りは柱とレンガで固められている。

 進むにつれて足元の水は冷たさを増し、水深が深くなっていく。道は地下に向かっているのだ。



 それから、どれくらい歩いただろうか。

 いまや腰まである冷たい地下水が、容赦なくエコの体温を奪っていた。

 段々と洞窟内の気温が下がり、まるで真冬の川の中を歩いているようだ。

 水を吸って重たくなった服、滑りやすい地面、一歩ごとに足をからめとる水……加えて通路の天井から地下水が滲み出し、雨のようにしたたり落ちてくる。エコの体はびしょびしょに濡れてしまっていた。

「ふーー、ふーーーー、ふーーー……」

 先ほどから体の震えが止まらない。少しでも体を温めるため、エコは魔法の火を大きくした。


 ざぶん……。


 少し先を歩いていた、感染者の男が倒れた。体温が下がりすぎて、これ以上進めなくなったのだろう。エコは近寄って男の手を取る。

「大丈夫?……」

 エコが聞いても男は答えず、そのまま力を振り絞って水路の奥を覗くと、悔しそうに言った。

「帰りたい……帰らなきゃ……かえ…………かあ……さんの、故……郷……に………………」

 絞り出すようなうめき声を上げつつ膝を折ると、感染者の男は水中に没して動かなくなった。エコは冷たくなったその手を握って、男と、ともに死ぬ定めであろう『キメリア=カルリ』のために短く黙祷を捧げた。


『キメリア=カルリ』の遡上の成功率は、どうやらかなり低いらしい。――考えてみれば、当たり前の話だ。

 もし人間が卵の入った水を飲まず、洗濯に使ったら? 卵を飲む前に、火を通されてしまったら? 卵を飲みこんだ人間が、動けないけが人や死に行く病人だったら? 何かの理由で、卵から孵化した『キメリア=カルリ』が頭までたどり着けなかったら? 困難を潜り抜け無事人間を操れたとして、途中でその人間が死んでしまったら?……。


 自然が与えた細かすぎる確率の網目をくぐり抜けた一握りの『キメリア=カルリ』たちだけが、彼らの“故郷”に帰りつき子孫を遺す資格を得る。

 タークに宿った『キメリア=カルリ』もある意味ではたぐい稀な天運の持ち主だったのだろう。



 そのまま更に奥に進むとしばらく一定だった水位がだんだんと深みを増し、背の低いエコの胸の辺りまで迫ってきた。

「まずい……これ以上深くなったら……」

 男が死んだ辺りから、通路の壁はレンガ造りから自然の岩壁に変わり、幅も広くなった。

 進むにつれて水深は上がり続け、気温は下がり続ける。


 先ほどから、エコの体の震えが止まっていた。いよいよ限界が近づいている。

 

 歩くことが、呼吸が、ままならない。エコはこれまで、意識を保つことがこんなに辛いと感じたことはなかった。

 いま体の力を抜けば、そのまま死んでしまうだろう……。

 一歩ごとに悲鳴を上げる体を動かすより、ここでそのまま死んでしまう方が、よっぽど楽だとすら思う。



 エコはぼうっとする頭で、師匠のことを思い出していた。

 エコに色んなことを教えてくれた師匠。優しかった師匠。――でもたまに、師匠は冷たい目で自分を見ていた。


 師匠が居なくなる前の日、エコは家じゅうを掃除してごちそうを作った。

 あれこれ師匠に話しかけた。たとえ、ほとんど返事が無くても……。


 いつからだろう……エコは師匠の興味の対象が他に移ってしまったことをはっきりと悟ってしまった。

 それは、エコにはどうしようもない断絶だった。エコに出来ることは、唯一の保護者、唯一の他者に見捨てられないよう、あがく事だけだった。


 しかしエコの頑張りむなしく、師匠はエコを置いて出て行った。

「出かけてくる。エコは私が帰るまでここで待っていなさい」

 そう一言、言い残して……。


(わたしはもう一度……もう一度だけでいい、師匠に会いたい。会って話したい。……どうしても、会わなきゃいけないんだ……。師匠に会えたら、タークを紹介して……。タークに会えば、きっと師匠はタークを気に入るはずだ。そして、そしたら、三人であの家に住むんだ……)

 このまま死ぬのは嫌だった。もう一度師匠と会える瞬間まで、タークと師匠を引き合わせるまで、エコは生きていたかった。それだけがエコの願いだった。


 ざぶん……。


 エコの足元が一気に落ちくぼみ、全身が冷たい水の中に沈む。

 ついにエコの足がつかないほど水深が増してしまったのだ。

 じゅっ、とわびしい音がして、明かりにしていた小さな火球が消えた。洞窟は再び、闇と静寂に包まれた。

 全てが見えなくなった暗闇の中で、水の流れる静かな音だけが聞こえていた。



――――



「さ、寒い……」



 濡れたタークの体を、洞窟を吹き抜ける風がなぶる。

 反響する足音の聞こえ方からして、ずいぶんと広い場所に出たらしい。

 寒さのお陰か、タークの思考が正常に戻りつつあった。暗くて周りは見えなかったが、風が通っている出口があるはずだ……。そうタークは考え、風の通り道に向かって進んだ。


 なんで自分がこんなところにいるのか、タークにはよく分からない。記憶が漠然としていた。

 ただ、なんとなく頭の中で誰かの声がするような気がした。そのおかげで進むべき方向も分かる。

 闇の中で目を開けていると、緑色のもやのようなものが奥へと続いているのが見えるのだ。見えているというより、感じていると表現する方が正しいのかもしれない。

 そしてそれは、風の流れる方向と合致していた。


 もやを追うようにしばらく歩いて行くと、さらさらと水の流れる音が聞こえてきた。洞窟の奥に、一点の明かりが見える。小屋のようなものがあるらしい。


「着いたのか……?」


 タークは辺りを見回した。光源の正体は、暗闇の中に灯った小さなかがり火だった。

 その空間はかがり火の光では照らしきれないほど広かったが、見たところ地底湖の岸辺のようだ。


 このまま地底湖に入るか、それとも小屋の方に進むか……? タークはその二択で迷った。


 だが、よくよく考えて地底湖に入る必要が全くないことに気づき、小屋へと歩き出す。

 小屋に着くと、小屋の入り口で一人の女性が驚いた顔でこちらを見ていた。


「あなたは確か……」

「ああ、ええっと……ハルナさん……でしたっけ」


 タークは混乱する記憶の中から、何とか目の前の人物の記憶を掬い出す。

「なぜ……なぜ? あなたは、“帰郷者”のはずでしょう。なぜ自ら湖に入らないの?」

「あ~、……なんだっけ……」


 タークは必死に思い出そうとしていた。

 何か、何か大事なものをこの人に預けていたはずだ。とても大切な何か、忘れてはいけない何かを。


「タークさんがここに来たということは、じゃああの子――」

「あの子?」

「エコちゃんは……」


 その名前を聞いた瞬間、タークの脳髄に青白い電撃が走った。

 ――エコ。そう、エコだ!

 その名前が、タークの頭のもやを完全に吹き払った。最後に見たエコの顔が、タークの頭の中に鮮明に浮かび上がる。


「――俺はここで何をしているんだ!? ここはどこだ?」

 ハルナは自らの失敗を悟った。

 ハルナはこの湖畔で特別警戒の任に当たっている。最近この洞窟内に不穏分子が潜伏しているという噂があるためだが、任務の一部には“『キメリア=カルリ』による“帰郷者”が滞りなく来ているか監視する”という役目も含まれていた。それがハルナの――『行政魔導士』の仕事だからだ。

 ハルナは手に持った杖をわずかに持ち上げて、タークを制した。


「タークさん、ダメよ。あなたは――“帰郷”しに来たんだから。自らの意志でここに……。聖域の地下湖に」

 ハルナの焦りを見て取ったタークが、鼻息をふんとひとつ吐き出した。


「“帰郷”だと? ……俺の故郷はこんな暗い洞窟じゃない。何を言っているんだ」

「だけど……ここに入ってきたということは、きっとそうなんだわ」

 強い口調で言いながらも、ハルナは困惑していた。

 この仕事に就いて長いが、こんなことは見たことも聞いたこともなかった。


(完全に正気を取り戻している? 『キメリア=カルリ』の呪縛は、そんなに生易しいものではないはずなのに!)

 ハルナの様子を見て、タークは溜め息をついた。


「まずいぞ……。あれから何日経っている? あなたがこんなところにいるってことは、エコの勉強はもう終わってるんだな。早くエコのところに帰らなければ……。ハルナさん、教えてくれよ。出口はどっちなんだ?」


「それはダメよ。事情がどうであれ、タークさん……あなたはトレログのエコシステムをつなぐ役目を負いました。私はトレログ『境界魔法陣』の維持を任ぜられた行政魔導士として、あなたをこのまま帰らせるわけにはいきません。さあタークさん、このまま祭壇へ」

 ハルナが厳とした態度で告げた。手に持った短い杖をタークに向け、歩くように促す。空気が冷たく、固く、張り詰める。

 タークは目を伏せて、ハルナを見返した。


「そうか……つまり俺は『トレログの神隠し』に遭ったってわけだ」

「……知っていたの?」


 タークは呆れる。行政魔導士であるハルナが本気で驚いたことに……。


 旅人たちも馬鹿ではない。トレログに長逗留して仲間を失った旅人が、一体これまでに何人いると思っているのだろう。

 井戸水にいる寄生虫が元凶だとは知らないまでも、その危険性は広く知られている。


「神隠しの噂は旅人の間ではそこそこ有名だよ。トレログに立ち寄る時は、長居だけはしないようにってな。魔導士には伝わってないのか」

「なるほど。人の口に戸は立てられないってわけね……。私たちも、別に旅人に“帰郷”してほしいわけじゃないのよ。でも、来る途中で体力が尽きてしまう人も多いから……」

 ハルナは、そんな言い訳じみた言葉を吐いた。


「“帰郷”か。この頭の中の『帰りたい』って声がそうなのか? 俺の頭の中に、何かがいるような……。この地底湖に入りたがっている奴がいるのか」

「――そこまで分かってしまっているなら、なおさらあなたを地上には帰せないわね――あぐっ!!」


 ハルナの額に衝撃が走った。タークが投げた拳大の石が命中したのだ。

 タークはその隙に乗じて、腰に巻いていたベルトを解いて素早く引き抜いた。

「く、貴様っ!」

「そっちの事情にこれ以上付き合えるか!」

 引き抜いた勢いのまま、ハルナに叩きつける。ベルトが蛇のようにハルナの腕に絡みつき、強く引かれた。

「あぁっ!」


 情けない悲鳴を上げたハルナが痛みに悶える。手に持った杖が落ちた。

 肩を脱臼させても構わない……、そんな気持ちで引っ張ったのだ。ただでは住んでいない。

 しかしタークの方も油断は出来ない。魔導士に魔法を使われたら、どんなに有利な形勢も一発で覆ってしまうからだ。

 タークは体勢を崩したハルナの体の後ろに回り、背後からハルナの頸動脈を締めて、意識を断った。


 ハルナの体から力が抜ける。タークはハルナをその場に寝かせると、ぱん、と目の前で手を合わせた。

「エコの恩人に申し訳ないことをした……さて、帰るか。出口が近いはずだ」

 気絶したハルナにさっぱりと謝り、タークが帰ろうとしたその時。


「そうはさせません」

 タークに向かって、暗闇から声が投げかけられる。

 周辺にはいつの間にか数人の人の気配があり、タークをぐるりと取り囲んでいた。

「誰だ、あんたら……」

 タークは袖に入れていた石ころひとつを掌中に落とすと、すぐに投げ込めるように握った。


「『フスコプサロの会』の魔導士です……申し訳ありませんが、いま手に握りしめている石ころをその場に捨てていただけないでしょうか……。我々は複数人おりますから、あしからず」


 闇から声だけが聞こえた。タークが石を投げ捨て、問い返す。

「『フスコプサロの会』? なんだそれは」

「あなたが知る必要はないと思います。あなたにはこのまま生贄になっていただくのですから」


「嫌だね。トレログの境界魔法陣のために、なぜ俺が死ななければならない。俺には関係ないぞ」

「いいから、【祭壇】へ向かってください……あちらです」

 その瞬間、地下湖のほとりに一つ明かりが灯った。小高い丘のようになっているその部分に、真四角の石碑が立ててある。

「お歩きなさい。殺しますよ」

 魔導士に囲まれては、タークに勝ち目はない。抵抗しても無駄なので、おとなしく指示に従う。


【祭壇】と呼ばれる場所は、地下湖の岸辺の切り立った崖の上にあった。タークが石碑の前に立ち、眼前に広がる暗い湖を見下ろす。その中に一瞬、遠い故郷を幻視した。

(なんだ!?)

 タークは唐突なめまいに襲われ、よろめいた。タークの頭の中で、が狂喜している……。

(何が起こるんだ? 俺の身体に何が起きているんだ?)


 ……湖中から、巨大な何かがゆっくりと立ち上がってきた。

 タークはわが目を疑った。あたかも湖が山となったかのように、湖の一部だけが重力に逆らい、もっこりと盛り上がっている。


「これは噂通りだ……これが『シンギュラ・ザッパ』ですか」

 背後の魔導士が叫んだ。

「『シンギュラ・ザッパ』……?」

 タークには何のことか分からない。初めて聞く言葉だった。

 目の前に現れたそれは、見たところ巨大な水のかたまりを見据える。祭壇にしつらえてある巨大なかがり火が、その存在を映し出した。


「……?」

 だがタークには、それはただの水のかたまりにしか見えない。かがり火の光は透き通った水を屈折しながら通過している。

 改めて見てみるが、やはり何もない。そこにあるのは、不自然に盛り上がった水だけだった。

 タークの背中に、杖が突きつけられた。タークが振り返る。

「そのまま進んでください。……『シンギュラ・ザッパ』がお待ちかねですよ。彼にとっては、久しぶりのお食事でしょうからね。御覧なさい、舌なめずりをしている」

 魔導士が冷たく言い放つ。タークは再び、湖の方に目を向けた。


 すると……先ほどまで水しかなかった場所に、一頭の巨大なサンショウウオが存在していた。先ほどまで水の塊だったはずのそれが、全長40レーン以上はあろうかというサンショウウオの姿に変化している。


「……なあ、死ぬ前に一つだけ教えてくれないか。『シンギュラ・ザッパ』ってのは、一体なんなんだ?」

 タークが素直に疑問をぶつけると、魔導士がせせら嗤う。


「まあよろしいでしょう。『シンギュラ・ザッパ』はトレログ境界魔法陣の【依代よりしろ】のひとつです。そして、トレログの“地下水そのもの”でもあります。……あなたは鉱物がとれることだけが取り柄の乾ききったこの地に、潤沢な水をたたえた地下湖があるのを不思議に思いませんでしたか。その答えこそが、全身が清らかな水で出来た『シンギュラ・ザッパ』なのです」


【依代】。境界魔法陣の発動に必要なオブジェクトのことだ。ハルナからその話を聞いた時には、石碑や像のような無機物を想像していたタークだった。

「なるほど、そうか……。こいつは、生き物なのか?」


「『シンギュラ・ザッパ』の誕生について、詳しい事情を知っている人間はもはやおりません。推測に過ぎませんが、恐らく『ミッグ・フォイル』によって生まれた魔法生物なのでしょうね。『キメリア=カルリ』については同様になにも分かりませんが、あいにくですが私には興味ございません」

「『ミッグ・フォイル』で生まれた魔法生物……?」


『ミッグ・フォイル』。これもハルナに聞いた覚えがある。空に幾万の虹を描く魔法。この世に奇跡を起こすことが出来る、最強にして最大の魔法だ。

 時に天変地異さえ起こすその魔力が“一個の生命体を生むこと”のみに使われたのだとしたら、こんな理解の及ばない生き物が生まれても仕方がないかもしれないとタークは思った。


「失踪事件に乗じて十数人拷問し、ようやく得た情報です。さあ、現世で分かることはこれだけです。あとはで聞いてください。きっと詳しい方がいますよ。――質問はもういいでしょう。歩きなさい」

 タークは振り返り、再び『シンギュラ・ザッパ』を見た。何度見ても、それはただの水のかたまりにしか見えない。これが、生きているというのか……。


「もう待てませんよ」


 魔導士がタークの背中に杖を押し付ける。目の前で『シンギュラ・ザッパ』が物欲しそうに口を開けている――その瞬間だった。

 崖下からすさまじい勢いで飛来した水弾が、かがり火に照らし出された魔導士たちに一斉に襲い掛かった。


 タークと話していた魔導士も水弾の直撃を受けた。衝撃で数レーンの距離を吹き飛び、横たわって動かなくなる。

「誰だ!?」

「敵か!」

 後ろいた数名の魔導士たちに動揺が走り、動きが止まった。

 こちらへの注意がそれたところでタークは岸辺を蹴り、空中に躍り上がった。もちろんサンショウウオの口の中にではなく、水弾の飛んできた方へだ。

 空中で水弾の飛んできた方向を見ると、そこにいたのは……。


「エコ!! ぐぼっ!」


 叫ぶと同時に、タークは10レーンほど下の湖面に着水する。激しい音と共に、水の柱が上がった。

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