第11話『ミッグ・フォイル』

 風のない日だった。


「暇だな……」

 タークは宿の一室で、今日で七回目になる溜め息を漏らしていた。


【トレログ】での滞在を始めて数日。エコをコトホギに預けたタークは、数か月ぶりに自由を謳歌していた。

 軽い下働き――レンガ工の手伝いや建築現場の雑用などしてわずかな賃金をもらい、その金を持って繁華街に行き酒を飲んだり、街をぶらぶらして川で水浴びをしたりして遊んでいた。

 以前、魔導士フィズンに追われている時にはやりたくても出来なかったことだ。それはそれで楽しい体験が出来た。こういう遊びは、エコと一緒だと却ってやりにくい。


 しかしそれも最初の数日だけで、そのうち、これまでにない感覚を味わうことになった。――どうしようもなく寂しいのだ。

 特に夜一人で居るときなど、エコが居ないと心が凪いでしょうがない。

 気を抜くと、(エコは今頃どうしているだろうか……)などと考えてしまう。いままでずっと一人だったのに、こういう気持ちになることが自分自身でも不思議だった。


 コトホギは「一か月ほどエコを預かる」と言っていた。まだ先は長い。だが同時に、「その間、いつでも会いに来てください」

 と言っていたことも思い出して、タークは早速、エコの様子を見に行ってみることにした。


 魔導士の家であるハルナの私邸は、タークからすれば不必要なほど広い豪邸だった。

(魔導士ってやっぱりこうなんだな……)

 タークのイメージ通りだった。魔導士といえば権威主義で、偉ぶっている。そのためこんな広い家を無駄に作るのだ。

 応接室に通される。エコは取り込み中だそうで、少し待つように言われた。

 タークの目の前にお茶とクッキーが出される。タークからすれば、どちらも滅多に手に入らない高級品だ。遠慮なくぽりぽりとむさぼる。

 一通りお茶菓子を食べたタークは室内を歩き回り、調度品の数々を舐めるように見ていった。

 タークのような普通の人間には、今後一生訪れないだろう貴重な機会だ。遠慮していてはもったいない。


 石造りの邸宅の内装は、【石の街トレログ】の伝統的な意匠である四角形の幾何学模様で埋め尽くされていた。

 タンスや扉、椅子などは木製だが、一本の木から削り出したのではと思うほど、材と材の継ぎ目が分からないよう精巧に加工されている。家具として華美にならない程度に施された彫刻で、細部まで丁寧に彫り込まれていた。

 まるで調度品のひとつひとつが、この街の職人の腕の良さと魔導士の地位の高さを誇示しているかのようにタークには見えた。


 タークが夢中で椅子の背に施された彫刻を眺めていると、遠くから懐かしい声が聞こえてきた。


「……ターーーーァァアアクーーーーーッ!!」


 立ち上がったタークの元に、エコが走ってきた。エコは勢いよく扉を開くと、部屋に入るやタークにしがみついた。エコは普段着ではなく、いい生地の服を着ていた。だいぶ印象が違う。

「助けてターク! ハルナ先生に怒られる!」

「えっ?」


 タークの知らない名前だ。タークが「誰?」と聞きなおす前に、美しい顔をした、細身の女性が現れた。タークは驚く。ヒールの高い靴を履いているのに、足音が全くしない。


「ごきげんよう、タークさん。私は、テンクラ・ハルナと申します。――エコちゃん、ちょっとこちらにおいでなさい」

「ううぅ~っ……」

 エコは眉尻を下げて警戒する犬のようにうなる。

「は、はじめまして。ターク・グレーンと申します」

 タークが頭を下げてあいさつすると、ハルナは丁重にお辞儀を返してくる。


「はじめまして、タークさん。お会いできて嬉しいわ」

 タークとハルナが握手を交わす。

「エコちゃんはとてもすなおで、覚えも早く、とても教えがいがある方ですよ。魔導学院の教師なら、だれでもこれほどの生徒を教えられることを誇りに思うでしょう。――さあ、エコちゃん、こちらにいらっしゃい」

 ハルナが手招きするが、エコはおびえて聞いた。

「先生……、怒らない?」

「怒るって、何を? お風呂で暴れたことですか? それとも廊下を叫びながら走ったこと? おほほほ、私が今更そんな程度で怒るものですか。さ、せっかくタークさんも来てくれたのですから、学びの成果を見せてごらんなさいな。レディの作法は、お教えしましたね」


 ハルナが笑いながらそう答えると、エコはうなずいた。タークから離れてハルナの元に歩いて行き、お行儀よくお辞儀をした。

「ターク、ごきげんよう」


 元気よく言う。タークは感心した。


「おお、すごい」

「いやあ~」

 エコが頭を掻いて照れた。言葉遣いはともかくとして、動きはいくらか優雅になっている。


 その後タークは出されたお茶を飲み、再び美味しいクッキーをつまみながら、エコが学んでいる内容について説明を受けた。エコは毎日朝から晩まで、ハルナからみっちりと講義を受けているらしい。

 タークは内容を聞いただけで頭が痛くなりそうだったが、エコは楽しくやっているようで、その点は安心した。


「エコちゃんは本当に呑み込みが早いわ。一回教えれば全部覚えてしまうから、私から教えることはすぐなくなってしまうでしょう」

 それでも、あと数週間は時間がかかるという。「予定より伸びるけれど……いいかしら」と後から同席したコトホギが語尾を濁したが、タークはすんなり了解して、エコを引き続きハルナに任せることにした。

 見たところエコも楽しそうだし、本人にとってもそれが良いことだと思ったからだ。


(もしかしたらエコは将来、こういう社会で生きていくようになるのかもしれないしな)


 タークは、そんなことを考えてもみる。エコが自分の元かを離れると思うと寂しい気もするが、エコが望むことなら、それも仕方がない。


「タークも一緒に勉強しようよ~!」

「そんな訳に行くか?」

 思わぬ提案にタークが眉をひそめたが、思いがけずハルナは了承してくれた。

「タークさんも魔法について学びますか? じゃあ、こんなのはどうでしょう。今日は一つ、野外講義をしてみるというのは」

 ハルナがそう言って手を上げると、近くで控えていた女中が来てお茶を片づける。ハルナは立ち上がり、エコとタークもそれに従った。


「外に出て、『境界魔法陣』について実地で学びましょう。魔物から街を守る大切な魔法について、タークさんも名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。でも、詳しいことまではなかなか知らないでしょう。ではエコちゃん、すこし歩きますからその道中、復習を兼ねてタークさんに『魔法陣』の説明をしてください。昨日やったばかりですね?」

「はい!」

 ハルナが促すと、エコはタークに顔を向けた。


「ターク、『魔法陣』って言うのは、『描く』行為を通して行う魔法だよ」

「へえ。エコが使っているのとは違うってことか?」

 タークが聞くと、エコは身振りを交えながら言った。

「うん。魔法っていうのは、術者が頭の中に思い描いたイメージをマナを使って『表現』するってことなんだって。わたしが使う魔法……声に出して唱えるタイプの魔法は【詠唱法】っていって、『言葉』とか『音律』によって表現するものなんだけど、魔法陣を扱う【画陣法】は『描く』ことで魔法を表現するの」


「『表現』? 魔法って表現なのか」

 エコが何か言うたび、タークが頭を捻る。エコはそれが面白いらしく、嬉しそうに続きを語った。


「そうそう! 他にも、踊りを踊ったり、動作で表現するものもあるみたい。【儀式法】っていって、一連の作法や手続きを行うことで効力を産むものもあって……」

「エコ、話がそれてきてますよ」

 ハルナがたしなめる。


「で、『境界魔法陣』とは? 『魔法陣』ってことは、描く魔法の一種ということですか」

 タークがハルナに尋ねた。


「ええ、その通りです。しかし、『境界魔法陣』はただの魔法陣ではありません。タークさんは、魔法陣というものを見たことがありますか?」


 タークが首を振る。

 ハルナはニコッと笑って、手提げから手のひらに収まるほど小さな一枚のガラス板を取り出した。日光のもとで虹色に光っている。


「これは『マナ板』と言います。魔導士の身分証明書。どうしてこれが身分証明になるかというと……」


 言いながら、ハルナは呼吸を整えて集中した。

 すると『マナ板』から光の針金のようなものが立ち登り、うねうねとうねって、やがてひとつづきの文字列になった。文字列は一度立ち上がると、まるで空中に焼き付いたかのように動きを止める。

「魔法陣に力をこめると、名前が浮き上がるのです。こんな風にね」

 タークは感心した。金色に光る文字列をまじまじと見つめる。

「へぇーっ。そうか、これで魔法が使えることも証明できると」


「その通り。タークさん、これを見てください」

 ハルナは文字を消すと、タークに『マナ板』を差し出す。ガラス板にうっすらと、円の中に六芒星を描いた不思議な幾何学文様が描かれていた。

「へえ、これが魔法陣か……」

 三人は話しながら街へ出た。

「そうです。魔法陣の効力はおおよそ、その模様の複雑さと大きさに比例します。これはかなり小型のものですね。ですからこうして光の文字を空中に浮かべるだけの作用しか持ちません。『境界魔法陣』は大きさで言えば最大級のものになります。街を覆いつくす程巨大なのです」

 ハルナは地面を手で示し、さらにそのまま、自分の身体の周りをくるりと一周させた。

「私たちが今歩いている道も、日々暮らしている家も、すべて『境界魔法陣』の範囲の中、ということです」

「街を覆いつくす程巨大な……そういうことか」


 そこまで聞けばタークにとっては自明だった。だがエコにはまだピンと来ていないようだ。


「つまり『境界魔法陣』とは、人間社会と文明を育み守るための魔法。人類の英知の結晶です。この【トレログ】は魔物たちを始めとする侵略者から人間を守るための、直径80キロレーンを超える巨大な魔法陣の上に成り立っているのです」


「へえー! そうなんだ、すごい!」


 エコが思いきり感嘆の声を上げた。


 タークはその話を聞いて、あるものを思い浮かべていた。

 ――エコの住んでいた家に施されていた『魔物除け』も、多分境界魔法陣の一種だったのだ。

 そしてあの日、その魔法が解けてしまったのだろう。そう考えると、すべて納得がいく。

 しかし、同時に新たな疑問が湧いてくる。一体なにがあの家の境界魔法陣を発生させ、何のためにほころびてしまったのだろうか。


 一行はその他のことも話しながら歩き続け、やがてトレログ中心街を囲む『外壁』に辿り着いた。


「着きましたね。これで、トレログの『境界魔法陣』を構成する各要素について見ていくことが出来ます。よろしいですか、『境界魔法陣』の発動に必要なものは大きく分けてみっつあります」


 ハルナが右手の人差し指と中指と薬指を、ぴんと立てる。

 左手で人差し指をつまみ、言葉と共に折りたたんでいく。


「ひとつ、【陣形じんけい】。ふたつ、【依代よりしろ】。みっつ、【願い】……」

 タークとエコの様子を見てから、更に続けた。



「まず【陣形】ですが、これは境界魔法陣の平面形のことです」

 ハルナが両手の親指と人差し指を伸ばし、胸の前で合わせる。ぴんと伸ばした指と手が、四角形の空間を作り出した。


「トレログの『境界魔法陣』は『正方形』を基盤としています。辺の長さと角度が全て等しい四角形ですね。このトレログ『外壁』は一辺10キロ、内角90度の完璧な正方形になっています。さらにトレログの区画は、すべて正方形になるようレイアウトされています。建物も、全て正方形です。通りがきれいなグリッド状になっていることも、もちろん、計算の上でそうなっているという事ですね」

 ハルナがそう言うと、エコとタークは『外壁』から目線を外して周りを見渡してみた。確かに、すべての建物は大小さまざまな正方形で統一されており、通りもまっすぐだ。曲がり角も90度になっている。

「へえ、そうなんだ……」

「あ〜、道理で……」

 二人の動きがあまりにシンクロしているので、ハルナは思わず笑顔になった。

「これが要素のひとつ、【陣形】です。そして魔法陣の内部をその陣形で埋め尽くすことを、【境界魔法陣のフラクタル構造化】と呼びます。『フラクタル構造』とは、『一部がその全体の相似形をしている』こと、図で描くとこういうことね」


 ハルナは、手提げから白い紙を取り出して素早く鉛筆を走らせ、四角形を描き、それに十字の分割線を入れた。すると、【田】の字の模様が出来る。


「この模様を見ると、大きな四角の中に、よっつの四角形が入っているでしょう? これをもっと細かく区切っていくと、おおよそ【トレログの境界魔法陣】の陣形の模式図になります。正方形の家が正方形の区画の中に建ち、正方形の区画は正方形の『外壁』の中に納まっている。これら小さい【陣形】も若干ながら魔力を帯びており、それが無数に集まることで『境界魔法陣』の効果を保証しています。部分が全体を、全体が部分を、それぞれ補強するというわけですね。この街の場合は正方形ですが、街によって【陣形】の形は異なります。エコちゃんは他の街に行ったことがないそうだから、もし今後別の街に行くことがあれば、その街がどういう構造になっているか、【陣形】は何かということに常に気を配ってみてください。魔導士の基本ですから」

「なるほど」

「はい」

 タークとエコが同時に相槌を打つ。


「言われてみればそうです。俺はこの間建築現場の作業の手伝いをしたのですが、建物は全て真四角の組み合わせで出来ていました。また別の日にレンガを作る仕事をしましたが、レンガが全部真四角なので不思議に思っていました。あれも【陣形】を考慮していたという事ですね。外壁に彫り込まれている彫刻もそうですが、トレログの伝統的な彫り物や縫い取りの模様が四角いのも【陣形】と影響があるということですか?」


 タークが質問した。エコが『外壁』を見る。すさまじい密度で彫り込まれた模様や意匠は、確かに正方形を象ったものが多い。

「タークさんのおっしゃる通りです。『外壁』は魔導士の指導の元で市民たちが作り上げたものですが、【陣形】を司るものであると同時に次に話す【依代】そのものでもあります。一つ一つ彫り込まれた模様は、それ自体が一つの魔法陣ともいえるし、境界魔法陣のなかの一要素だとも言えるのです。タークさん、とてもよい質問ですね。才能ありますよ」


 にこっとほほえんだハルナに見られて、タークは気恥ずかしいような誇らしいような、何とも言えない気持ちになる。


「では話が出たところで、次に【依代(よりしろ)】の話に移りましょう。これはいわば、魔法陣の『物理的な部分』です。“境界魔法陣を発動させるための設備”といってもでしょう。モニュメント、オブジェなど、その場を象徴するようなモノが【依代】となります。当然この『外壁』もそうです。ですが【依代】は一つではなく、必ず複数あります。一つだけだと、壊れた時大変ですからね。ただあまりにもたくさんありすぎると、維持管理が大変になりすぎます」


 ハルナは続けて、図を描きながらエコとタークに説明した。エコとタークは、食い入るように図を見て唸っている。その仕草があまりにも一緒なので、ハルナは思わず笑顔になる。


「『外壁』は職人たちが腕を競って作り上げた巨大な集合芸術であり、たくさんの人の手間と、膨大な時間を費やされて作られました。なお、トレログの境界魔法陣成立から80年余りが経った今でも完成していません。風化や摩耗によって壊れた部分の補修に加え、建設と彫刻がいつも続いています。大きさはこれ以上大きくなることはありませんが、高さを足したり強度を出すための工事、さらに効力を増すための作り込みが長年続いています。トレログ市内のすべての工房やアトリエがこの事業に参加しています」


「まだ作り続けている? とっくに完成しているものだと思っていた……」

「ふふ、そうでしょう。市民の中にもそう思っている人はいますよ。でもホラ……あそこで彫刻をしている職人の方もいらっしゃるでしょう」

 ハルナが示した先を見ると、高さ3レーンほどの脚立に乗って作業している男性が見えた。

「『外壁』はああして、職人の皆様に仕事を与え、腕を競う場にもなっています。工房の親方しか『外壁』の制作には参加できません。これほどの建造物ですから、トレログ市民全員の誇りにもなっています。【陣形】を示すとともに物理的根拠である【依代】でもあり……ゆえに、トレログ市民の【願い】がかけられた建造物でもあります」


 ハルナは話を続けた。エコもタークもすっかり聞き入っている。

「最後の【願い】は、これは言葉通りの単純なものです。トレログ市民の、いえ、人間すべての【願い】である『危険を遠ざけたい、今日も生きていたい、幸せになりたい』といった願望のことですね。皆に共通する【願い】が【依代】に集まり、【陣形】によって増幅されて発動に至る。私の説明したのとは逆の順序で発動していくわけです。言うなれば【願い】は『境界魔法陣』の精神的な根拠です。それ自体には形はありませんが、多くの皆様が共通して望んでいる思い、『イメージ』が、『境界魔法陣』によって叶えられているというわけです。魔法を発動させるために必要不可欠のイメージですね」



【陣形】、【依代】、【願い】。境界魔法陣を構成する三要素の話を、タークはエコの家に当てはめて考えていた。


 あの家で生活ができたのは、まぎれもなくあそこに『境界魔法陣』があったおかげだ。そして、家が壊れた時点で『境界魔法陣』は消え、魔物が入ってくるようになった。


 つまり、あそこの場合は『家』が【依代】、『リング・クレーター』の描く大きな円が【陣形】になっていたのだ。だから、家が壊された途端に【依代】が無くなり、魔物が侵入してきたのだろう。


「マナを使ってイメージを表現するのが魔法、とはさっきエコちゃんの話にもあった通りです。それで、知らない人も多いのですが、マナ自体は全ての生物が持っています。タークさんももちろんそうです。そしてイメージも持っているでしょう。その二つと『魔法陣』があれば、誰にでも魔法は発動できると言えますね。魔法陣の場合は発動することを『起動』と言いますが、意味は同じです。……ここまでの話を繋げましょう。今、私たちは巨大な魔法陣の上にいます。そして、『危険を遠ざけたい、今日も生きていたい、幸せになりたい』という【願い】、イメージを持ちながら生活しています。これすなわち、常に魔法陣を起動しているという事になります。今この瞬間にも『境界魔法陣』の上に住むすべての人々が、自らの【願い】を使って魔法を発動しているのです。これが、『境界魔法陣』が巨大であり、非常に強い効力を常時発動させ続けることが出来る理由です」


 エコとタークも、その話を聞いて関心してしまった。

 危険な【魔物】を遠ざけ、人々が文明的な生活を営むために考えられた仕組み、それが『境界魔法陣』なのだ。

 目前にある【依代】、『外壁』ひとつとっても、これを創るためにどれほどの時間と手間がかかっているか想像できないほどの建造物だった。しかし、それすら『境界魔法陣』という都市システムの中の構成要素のひとつにしか過ぎないのだ。


 ハルナは、さらに『境界魔法陣』の機能についていくつか補足説明を加えた。魔物を遠ざけるだけでなく、土地を肥沃にしたり、災害をやわらげ、防いだり、生活排水を浄化する作用も持っているらしい。その為にこれほど多くの人口を支え続けることが出来るというのだ。


「すごいねー、ターク」

「ああ。そんな仕組みになっているとはな……流石魔導士の考えることだ」

「理解してもらえてうれしいわ、難しい話だから。さあ、家に帰ってお茶でも――」


 そうハルナが言いかけた時――“それ”は起こった。

 刹那――、万雷が走ったかのごとく空が光り輝き……目に見えぬ一陣の風が吹き渡った。

 そして天を無数の虹が覆った。

「ああっ……!!」

 ハルナが驚き、天を仰ぐ。そして驚きと共に声を上げた。


「『ミッグ・フォイル』――!!」


――――


 その時。

 トレログから離れた荒野の影に、貝殻を削ったように白い家がひっそりと建っていた。

 明かりとりの小さな窓から七色の光が射し込む中、巨大なソファに腰掛けた魔導士が一人、口を開く。


「発動したか。『ミッグ・フォイル』が……」

「そうねスンラ・クンプト? 無事に予想が当たったわね。一体何が起きるのかしら」

 わずかな静寂。

「分からんな。発動してみないことには……。大魔導士ともあろう方が、何を願っているのかなど」

「これで、リリコ・ラポイエットも喜んでいることでしょうよ。ラポイエット家……なんて、三大導家でもない中級階級からよくも『ミッグ・フォイル』を起こす人が出たものだとね」

「ふふ。彼女は無事に【願い】を叶えたわけだ……。そして我々の悲願にも、これで一歩近づいた……。あと何歩進めば真実にたどりつくのだろう。まあそう遠くはないだろうな。イラ・ネーゼは上手くやってくれた。次はトレログの……カナリヤの番だな」

「ええ、彼も面白いことを考えてるわよ。新しい『忌み落とし』の方法を編み出したみたい」

「楽しみだな。きっと世界が変わる時も近い……。『フスコプサロの会』はそのためだけに存在しているのだから」



――――




 ――幾万の虹が、空を覆っていた。

 ただし、普通の虹ではない。その光の粒子ひとつひとつが星のように輝き、満天の空を色とりどりの光で飾っている。空に漂っていた浮雲はいつの間にか吹き払われ、天空を一面の虹が追いつくしている。

 空は万華鏡のようにその彩りを翻しながら、オーロラのように形を変化させ続けていた。

 赤から紫まで目に見えるすべての色が同時に空中に存在し、それでいて透明だった。



 圧倒的な光景を前にエコとタークが言葉を失っていた時、その横でハルナが胸の前で手を組み、黙祷を捧げていた。

 空を覆う虹色の奔流は、ひとりの魔導士の死と『大魔導士』の誕生を同時に意味している出来事だからだ。



――『ミッグ・フォイル』。


 それは魔導士が『死ぬ』ことによって発動する、この世界において最も大きな力を持つ魔法。


万虹ばんこう】【虹の極光オーロラ】【星の祀り】【願いの魔法】など様々な俗称があるが、その現象を魔導士たちは『ミッグ・フォイル』と呼ぶ。



『ミッグ・フォイル』は偉大な魔導士にしか起こせない究極の魔法だ。偉大な魔導士が“死ぬこと”によって発動するため、生きている人間に発動させることは決してできない。

 全ての魔導士が望みながら、ごく一握りの魔導士にしか起こせない奇跡のわざ

 それゆえ『ミッグ・フォイル』を発動させることが出来た魔導士は【大魔導士】となり、その名は永久に語り継がれる。

 その名誉を得ることは全魔導士の目標であり、夢であり、【願い】だった。


『ミッグ・フォイル』が発動すると、魔導士の【願い】を祝福するかのように、空を幾万の虹が覆う。その荘厳な景色は、見るものにその姿を誇るかのように、その輝きで夜を昼間にしてでも、すべての人間の目を奪う。



 その時、遠く離れた地で大きな地震が起こった。遠くトレログではわずかな揺れに過ぎなかったが、震源地では凄まじい出来事が起こっていた。

 コケのように大地を覆う、巨大な密林。それが今ばっくりと割け、地中から巨大な岩塊がせり出してきたのだ。それは、『ミッグ・フォイル』によって生まれた巨大な山脈だった。

 大地の裂け目から現れたその山は、やがてその頂上から大量の水を噴出し初めた。音を立てて轟轟と流れる水が大雨と大河となって天地同時に降り注ぎ、麓を広範囲にわたって水浸しにする。


 たった数時間で起こったこれらの大異変……その範囲数十キロレーン、現れた山の高さは千レーンにも及ぼうかというこの一連の現象こそが、今回の『ミッグ・フォイル』が世界に与えた変化だった。


 山の周囲には、千年前から広大な密林が茂っていた。

 だが密林はすぐに滅んでいくだろう。水浸しになった木々は根から腐り、別の風景に変わるはずだ。溢れ続ける水はその流路を求めて、大きな川になるだろう。川は、途中に大きな湖を作るかもしれない。その湖のほとりには、湿地が出来るかもしれない。

 環境の激変によって密林に生きる数多の生物が死に、死んだ生き物が占めていて生物学的な間隙に別の生き物が入り込むはずだ。しかしそうやってこの密林の生態系が落ち着くまでは、滅びゆく種族と栄えゆく種族の間で熾烈な生存競争が繰り返されることになるだろう。



『ミッグ・フォイル』の力が、一つの世界の運命を永久に変えてしまったのだ。



 その日のハルナの授業はそこで中断され、タークは帰らされた。『ミッグ・フォイル』が発動すると、魔導士は様々な式典に参加しなくてはいけなくなる。テンクラ・ハルナは式典の狭間の僅かな空き時間で、エコに教えてくれた。


「いいこと、エコ。『ミッグ・フォイル』は大魔導士の“人生そのもの”。その人生において、発した言葉すべてが『ミッグ・フォイル』の詠唱、書いたものすべてが『ミッグ・フォイル』の魔法陣、歩んできた道のりすべてが『ミッグ・フォイル』ための儀式となる。――そう言われているの。私たち魔導士は人生すべてを賭けて、『ミッグ・フォイル』を発動させようとしているのよ。『ミッグ・フォイル』を起こすことは、世界を自分の【願い】で作り変えること。ただしその資格は、才能と自分の人生すべてを魔法に捧げた者にしか与えられない。だから私たち魔導士は常に自らを磨き、魔導士を育て続けるの。魔導学校に通うことも、私がコトホギやエコちゃんにものを教えているのも、行きつく先はそのためなのよ。魔法は世界を変え続ける力。悪い結果を生むことも時としてあるけれど……。人が願う以上、必ず人々にとってよい事が起きるはず。そう信じているからこそ、私たちは魔法を学び続けなくてはならない。マナの加護のもとに」


 ハルナの熱のこもった話を聞いてエコが一番に考えたのは、ハルナが言いたいこととは全く別の事だった。


『師匠は死んでいないのかもしれない』――。


 ハルナの話では、空を幾万の虹が覆う現象は、たとえ夜中であっても明るくするらしい。エコは生まれて初めて『ミッグ・フォイル』を見た。

 エコは思った。師匠ほど腕のいい魔導士が、『ミッグ・フォイル』を発動させないわけがない……。だから師匠は死んではいないと。



 ハルナの指導は忙しいなか二週間ほど続き、何事もなく終わった。『マナ板』の発行までは少々時間がかかるそうだが、ハルナが手配すれば受け取りに問題はないという。

「タークさんにはずっと待ってもらって悪かったわね。あれ以来姿を見せないけど、今日終わるってことは伝わっているはずよ。これ、持って行ってあげて。私からお詫び。予定より伸びちゃったからね」

 コトホギはそう言うと、エコにお土産を持たせてくれた。

「エコちゃん、本当によく頑張ったね!! あれほどの密度で魔導学院の過程を終わらせるなんて、ハルナ先生の指導ももちろんだけど、覚えるエコちゃんもすごいよ」

「ありがとう。……でも、疲れた~」

 そう言ってコトホギと笑い合い、別れる。

 この時のエコは幸せだった。――知らなかったからだ。



 タークがいなくなったことを……。

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