第7話『ヒカズラ平原の人食い魔獣』
「うぅうううううううぅぅ~~」
タークの胸の中で、エコは泣いていた。
「……」
タークは静かに、エコの頭を撫でてやる。ふと視線を上げた。
動かないフィズンが倒れている。
あの瞬間――、フィズンが恐怖の叫びをあげた瞬間。
エコはとっさに魔法の軌道を変え、灼熱の大火球をかろうじてフィズンからそらしていた。
フィズンは服と髪の毛が焦げ、軽いやけどを負ってはいたが、生きている。
エコは泣き止まなかった。エコは怒りに任せて本気で人を殺そうとした自分自身が怖かったのだろう。エコの体温と服が濡れていく感覚を味わいながら、今度は焼けてしまった家に目線をやる。
とても人が住めるような状態ではなかった。切妻屋根は焼け落ち、廊下は崩れ、エコと師匠の部屋は全焼、トイレの端の壁だけがかろうじて燃え残っている。
畑にはすでに数匹の【魔物】の気配がする。
【魔物】は警戒心のないガチョウを次々と襲い、その場で食べていた。襲撃を生き延びた二頭のヤギだけは先ほど縄を解いて逃がしてやったが、生きていくことは難しいだろう。
「あの家が、ここの守りの触媒だったんだな……」
魔導士の使う『魔物除けの秘法』には、触媒となる物体が必要だと聞いたことがある。その触媒であった緑の切妻屋根の家が破壊されてしまった以上、もう以前のような暮らしは続けられない。【魔物】が当たり前のように入ってきているのが、その証拠だ。
タークはエコが泣き止むまで、じっと何かを考え込んでいた。
「起きろ」
「………………!」
タークが蹴ると、気絶していたフィズンが目を覚ました。喉元にタークの山刀が突きつけられている。タークが少し腕を引けば、フィズンの頸動脈はまっぷたつになるだろう。
「まず、名乗れ」
「……フィズン・ドナタークだ……」
フィズンはタークを見上げ、答えた。
「フィズン、すぐにこの場から消えろ。二度と俺たちに近づくな。――でなけりゃ、今すぐに殺す」
フィズンは細かく首を上下に振った。
「オレの杖は……?」
「火にくべたよ。行け。まっすぐ、振り返らずに」
フィズンは身を起こすと、タークに見送られながらふらふらと歩き、すこし離れたところで走り出した。命令した通り、そのまま一度も振り返らず、林の中に姿を消す。
タークの背後でエコが立ち上がる気配がした。
「ターク……」
泣きはらしたエコの目は赤く腫れていた。優しい言葉をかけて少しでもエコを安心させてやりたかったが、もう……そんな余裕はない。
「エコ、大丈夫か?」
「うん……。家、燃えちゃったね」
エコが悲しそうに言う。
「そうだな……。こうなってしまった以上、もうここには住めない」
「そっかあ。困ったねぇ……」
「ああ。どこかほかに住むところを探さないとな」
「……え?」
エコが意外そうに、タークの顔を見た。腕をだらっ、と垂らす。
「ほかに住むところなんて、ないよ……」
「エコ?」
「だって、ここは師匠が帰ってくる場所だもん。師匠が帰ってくるまで、わたし、ここにいなきゃいけないの」
エコが無表情に言った。どこか投げやりで無責任な、他人ごとのような言い方だった。
「……」
タークは悲しくなる。師匠に対するエコの執着心は、自分自身でもどうにもならないほど、エコの精神に深く根付いてしまっている。
この呪いがある限り、たとえ師匠が自分を捨てたのだとしても……エコは自分自身の意志でいつまでも師匠を待ち続けるだろう。
ふと周りを見回すと、畑に集まっていた【魔物】たちがいつの間にかいなくなっていた。タークは少し違和感を覚えたが、すぐにエコに顔を戻した。
「……エコ、難しいかもしれないが、仕方がない。エコには、ここに住むための“魔物除け”は張れないだろ? 家を建て直すのも無理だ。どちらも師匠が作ったものだから。そして師匠は今のところ帰ってくる気配がない。……せめて連絡がつけばいいんだが、それもできない」
エコの反応はない。
タークはエコに近づくと、下に垂れたエコの手を掴んで、ぐっと握りしめる。びくっ、とエコの体が震えた。
「でもさ、だって、ターク……!」
エコが泣きそうになった顔を上げ、タークに反論しかける。だが、すぐにまた下を向いてしまった。
「だって……」
「幸い俺の使ってた荷物は焼け残っていたんだ。ひとまず、旅に必要なものは揃っている。これからどうするかは――」
「助けてくれ!!」
タークが話している途中、遠くから聞き覚えのある叫び声が聞こえた。エコとタークが振り向く。
「たすっ、たすけっ……!!」
それは、さっき逃がしてやったばかりの魔導士、フィズンだった。
「あいつ……!」
タークが毒づく。消えろと言ったのに、性懲りもなく戻ってきた……!
どうしてやろうかと考えたその時、フィズンの後方の山で、林の木々が大きく揺れた。そして、そこから姿を現したのは……。
「あ……あいつ!! ふ……ふざけんなよっ!! エコ、走るぞ!! 逃げるんだ!」
片手で荷を担ぎ、まだ事態が分かっていないエコの手を引いて、タークが走り出した。
「たすけっ! ああっ!! ひいぃっ!」
恐怖に顔を歪めたフィズンの背後で、巨大ななにかがゆらりと動いた。木々が枝ごと揺さぶられ、小鳥や小動物が逃げ出す。
――巨大なものが、ゆっくりと山影から姿を現した。
大きな耳と長い鼻を持ち、体長15レーンをやすやすと超える巨躯を六本の脚で支えるその生物――。
【ヒカズラ平原の人食い魔獣】と呼ばれる怪物は、太い首をもたげると二本の前肢で千切れたヤギの上半身を掴み、口に放り込んだ。
骨を噛み砕くすさまじい音が、化け物を背にして走るタークたちのもとにまで届いた。
ヤギを呑み込んだ【ヒカズラ平原の人食い魔獣】はゆっくりと首を振ると、その血走った目線の先に次の獲物……すなわちフィズンとタークとエコを捉えた。
そして、獲物に向かってゆっくりと動き出す。
「やばい……!」
巨獣の歩幅は、タークたちの何十倍も広い。巨体ゆえに動作は緩慢に見えたが、そのスピードはタークたちより遥かに速かった。
「死にたくねえっ、ひっ、死にたくねえっ!」
フィズンがこちらに近づいてくる。タークは舌打ちした。
フィズンは、あわよくば魔獣の注意をエコとタークにそらそうとしているのだ。今すぐ斬り殺したかったが、そんな暇はない。ただ必死に逃げるしかなかった。
ここ【ヒカズラ平原】で最も恐れられている魔物……通称【ヒカズラ平原の人食い魔獣】は、体長15レーンをゆうに越す超大型の生物だ。
視覚は鈍く、動くものしか察知できないが、聴覚と嗅覚にすぐれており、動物ならばなんでも食べる。
その巨体を維持するために必要なエネルギーは膨大で、そのため常に餓えており、食料が多く手に入る時期には“食いだめ”もする……。要するにいつどんな時でも出会ってはならない、危険極まりない魔物だった。
「ぶぎゅごぉぉぉおおおおおっ!!」
地響きのような雄たけびを上げつつ、魔獣が走り出した。魔獣とエコたちとを隔てるたかだか100レーンほどの距離は、魔獣にとってはあってないようなものだ。三人と魔獣の距離が、どんどん詰まっていく。
「ぶごがぁあぁあああっっ!!!!」
「エコ! 林に入れ!!」
タークがエコに向けて叫ぶ。進路を変えて、脇に茂る林の中に飛び込んだ。すると、フィズンまで同じ方向に逃げてきた。
「くそ、急げ!」
魔獣も方向を変え、三人に向かって突撃してくる。完全にこちらを捕捉していた。
「もっと奥だ! 林の奥に行くんだ!!」
タークが叫ぶ。魔獣の巨体が、一本の巨木に激突した。巨木はすさまじい衝撃を食らって傾ぎ、ばきばきと枝を落とす。魔獣がさらに一歩踏み出すと、ぶちぶちと根が切れ、どう、と倒れた。
「ターク、このままじゃ捕まる! あいつ、こんな木は簡単に倒しちゃうよ!」
エコが立ち止まり、背後に振り返った。
魔獣が雄たけびを上げ、二本の太い前脚で次々と林の木を叩き折りながら、迫ってくる。
魔獣の巨大な目玉とエコの視線が合った。
「もうこれ以上、逃げられない! なんとか追い払わなきゃ! フィズン!」
エコが急にフィズンの名を呼ぶ。フィズンはとっさに「な、なんだ!?」と答えた。
「フィズンも手伝って!」
間髪入れず、エコ。フィズンが眉根を寄せて、
「何をだよ!?」
「あいつの脚を止める!!」
「出来るのか!?」
タークが驚き、エコを見た。
エコの曇りのない眼がこちらを見据えていた。
「わたしとフィズンの魔法なら!」
エコがきっぱりと言った。フィズンが唾をのむ。頭を振って答えた。
「バカな、バカなっ! あんな魔獣を、二人だけで倒せるものか!」
「違う! あの魔獣、わたしたちが歯向かうとは思ってない。魔法で脅かせば、追い払えるはず!」
魔獣が木々をなぎ倒しながら接近してくる。決断に使える時間は、ほとんどなかった。
「フィズンは氷で目を狙って!! 顔面に攻撃を集中する!」
「……くそッ!!」
フィズンが詠唱し、氷の刃を巨獣の顔面に向けて放った。
杖がないせいでつららの速度も大きさも十分ではなかったが、魔獣は反射的に目をつぶった。一瞬、巨体の動きが止まる。
「……『フレイム・ロゼット』!!」
その隙にエコが大火球を作り、魔獣に向かって投げた。大火球は高熱を放ちつつ魔獣に向かい、魔獣の鼻先を爆炎で包む。
「ごぎぃぃぃ!! ぶうるあああっ!!」
「イヤがってる! やっぱり、火は苦手なんだ!」
エコは鋭く一息吸うと、今度は火球を少し小さく作って、魔獣の手前に二発落とした。
倒れた木々に火炎が燃え移り、魔獣とエコたちの間に火の壁が出来た。
フィズンもその意図をくみ取り、足元の落ち葉に小さな火をいくつも放った。
枯葉の積もった林床が一気に燃え上がる。
「逃げよう! 火を隔てれば、こっちには来ないはず!」
「わかった!」
エコはタークの手を取り、そのまま走り出した。
林を抜け、【リング・クレーター】外縁の山を駆け上がり、息が切れるまで走った。
1000レーン以上離れたところでついに力尽き、草原に倒れこむ。
「あーっ、はーっ、はー、はー、はー」
「ぜえっ、ぜえ、ぜー、ぜー、ぜえ」
魔獣の声も足音も、気配も消えた。呼吸が整うまでしばらく時間がかかったが、どうやら逃げ切れたらしい。燃やしてきた山の方で、ものすごい量の黒煙が上がっていた。【ヒカズラ平原】は乾燥しているので、おそらく一昼夜はあのまま燃え続けるだろう。
「山、燃やしちゃったね……」
「生き残るためだ、仕方がないさ……」
エコがきょろきょろと辺りを見回す。
「あれ……。フィズンがいないよ?」
「本当だな……。まあいいよ、あんなヤツ。あいつ、俺たちの方にあの魔獣を誘導したんだぞ」
タークが怒りをあらわにする。危うく死ぬところだったのだ。
「でも、誰だってそうするよー。あんな魔獣に見つかったら。怖いもん」
エコはそう言いながら明るく笑った。
「よく笑えるな……。死ぬ思いをしたのに。……ふう。エコに免じて俺も水に流すか……怒るのもばからしい」
上を見上げると、空には何事もなかったかのように鳥が飛んでいる。
初秋の草原を、なごやかな風が吹き抜けていった。
――――
「フィズン……。あなた失敗しましたね」
「誰だ!?」
息を切らしたフィズンは、両手を構えて声の主に向けた。
フィズンは逃げる途中でこっそりエコたちから離れて、二人に見つからないよう、木立の影に隠れていた。
魔獣を二人の方に誘導したのだから、見つかったらタークに殺されると思ったからだ。
フィズンを呼んだ声の主は、【ラブ・ゴーレム】と呼ばれるゴーレムの一種だった。
左右で色が違う大きな瞳と、すっと高く尖った鼻。白くなめらかな透き通った肌が、ヒカズラ平原の光をわずかに取り込んで美しく光っていた。
ウェーブのかかった紫色の髪の毛が、柳の枝のように風にたなびいている。
外見は美しい若い女だが――半開きになった目はうつろで、暗い。その声の向こう側に、誰かほかの人間を感じた。
「カナリヤ様……!?」
フィズンが狼狽する。【ラブ・ゴーレム】が再びその口を開いた。
「その通りです、私ですよ。あなたは、今回の仕事に何か月かけているんでしょうか? 期限はもうとっくに切れているんですよ。次の仕事を言い渡そうにも……」
【ラブ・ゴーレム】が抑揚のない声で淡々と告げる。本来の用途とは違うのだが、【ラブ・ゴーレム】はこうして連絡用の端末としても使われることがあった。その眠らない強靭な体を駆使して、確実なメッセンジャーガールとなるのだ。
「それで、仕事は終わったんでしょうね? 確実に終わらせるという名目で、報酬は先に貰っているんですから……」
「お、終わりました。無事に……」
フィズンは咄嗟に嘘を吐いた。フィズンの任務というのはもちろん、犯罪者であるタークを殺すことだ。
「時間がかかってしまったことは謝ります。しかし対象は仕留めましたから……ただ、魔法で跡形もなく吹き飛ばしてしまったので証拠は何も……」
フィズンはさらに言葉を継いで嘘を補強した。大丈夫、きっとバレない……! 第一、あんな男が生きていたからといって何か問題があるだろうか。
「その話、本当ですね。嘘をついていたら酷いですよ」
声が念を押す。こうなれば、引っ込みはつかなかった。
「本当です!」
「ならよろしい。私は、あなたを信じますよ。……では、あなたにはそのまま次の任務に就いてもらいます。【石の街トレログ】に移動してください」
声が言うと、フィズンの顔が曇った。
「え……! わ、私はこの任務が終わったら一度休暇を挟んで……」
「この期に及んで、なんですか? 期限を予定から何週間も破っておいてよくそういう事が言えますね。いいから、あなたは黙ってその子についてらっしゃい。身の回りの世話はするように申し付けてあります。私は【トレログ】のフスコプサロの会で待っています。連絡は以上です」
「カナリヤ様! 待ってください、カナリヤ様!!」
フィズンが決死の呼びかけをした時には、すでに【ラブ・ゴーレム】の魔法が解けていた。目に光が宿っている。もとの人格を取り戻したのだ。
「こんにちは! アタシはあなたを連行するように言われてるので。しばらくの間、よろしく~!」
【ラブ・ゴーレム】がにこっと笑って右手を差し出したが、フィズンは握手に応じようとしない。
「よろしく! アタシはマコトリ。短い付き合いになるとは思いますが、まあ楽しくいきましょ!」
無理やりフィズンの右手をとり、強引に上下に振った。
フィズンはうつむき、暗い未来に思いをはせた。
頭の中で渦巻く、後悔と恐怖。
本当ならすでに任務を終えて、悠々と街に帰っているはずだったのに!
(なんでこうなった? どこで計算が狂った……)
フィズンは思い返す。取り逃がしたタークを追って、【ヒカズラ平原】に追い詰めたところまではよかった。
【ヒカズラ平原】にあんな家があり、タークが住み着いてしまったことが任務を遅らせた根本的な原因なのだ。
つまり……あの娘がいたことが、フィズンの計算を狂わせたのだ。あの緑の髪の少女……。あいつさえ居なければ、先ほどの嘘は嘘になっていなかった。
フィズンは予定通りタークを仕留め、悠々と街で休暇をとっているはずだったのだ!!
「あいつだ……エコのせいでオレは……!」
フィズンの目に炎が灯る。フィズンの怒りは自分の詰めの甘さや考え方ではなく、ただただエコに対してのみ向けられていた。
――――
エコとタークは手ごろな木を見つけると、その根元に並んで座った。
「いろいろなことがあったな……」
「うん……」
太陽は高く、青い空にはまるで刷毛で擦ったように薄い雲がひとすじ流れていた。
さまざまな虫の声が絶え間なく聞こえる。獣が草原を横切っているのが見える。
「エコ、これから先の話だが……」
タークが話を切り出した。
「うん」
エコが相槌を打つ。
「俺は、一度故郷に戻ろうと思う」
「え?」
エコが意外な顔をする。
「実は、エコにもう一つだけ……言ってないことがあってな」
タークがそう前置きした。エコが頷く。
「俺は、魔導士を襲って故郷を追われた。実は、あるモノをその魔導士から盗んだんだ」
「あるモノ……?」
エコは内容を聞きたそうにしていたが、タークは首を左右に振った。
「それが何かは、言えない。これを言うと、エコにも危害が及ぶことになる。俺は、これをもとの持ち主に返したい。そのために、一度故郷に戻ろうと思うんだ。それでな」
「うん」
「エコも一緒に行かないか?」
「………………えっ……?」
エコが意外そうにタークの顔を見た。
タークは下を向き、足元の草を引き抜いてもてあそんだ。青臭い香りがする。
「どうせあの場所には戻れない。それはエコにも分かってるだろ? あそこに住む為には、必要なものが何もない。魔物に対する防御も、家も、畑も……もう無理だろう」
タークの手のひらから、むしった草がぱらぱらと落ちる。
「……うん。それは……分かってる」
エコが無感情に言う。納得はしていないが、現実を受け入れるしかないことを、理解はしていた。
エコは魔物を防ぐ方法も知らないし、家も作れない。
畑仕事ぐらいはできるが、あんな魔物がいる以上、この土地で今まで通り生活するのは無理だ。さっきの出来事で、それが身に染みて分かった。
師匠の作った“魔物除け”は、完全に失われたのだ。
「ねえ、タークの故郷って、どこ?」
「【ツィーリィ・セフィーア】。ここから北にある街だ」
「遠い?」
「うん……、二か月くらいかかるだろうな」
「……そっか」
エコはまた、うつむいた。そして、タークの顔を見ないままこう答える。
「ごめん、ターク。やっぱりわたし……あんまり遠くには、行けそうにないや。ここで師匠を待たなきゃいけないもん……」
「エコ、辛いようだが……」
タークが釈然としない気持ちで言うと、エコは首を振って遮った。
「――分かってるつもり。師匠はきっと、もう帰ってこないって……。待ってても意味ないってことも。でも、でもね、……どうしてもね」
タークがエコの横顔を覗く。エコは苦しそうで、今にも泣き出しそうだった。タークは胸に鈍い痛みを感じる。
エコは本当にそれでいいのだろうか? なぜ自分を捨てたであろう人物の命令に縛られたまま、この不毛な土地に居続けなければならないのだろうか?
タークには、エコがそこまでして師匠に従おうとする気持ちが理解できなかった。
――師匠という人物は、一体なぜエコをここまで苦しめるのだろうか?
「師匠が帰ってくる可能性がある限り、ここに居たいってことか? それが自分の人生の意味だと? ――エコはもう十分に待ったよ」
「いや、そうじゃない。そうじゃないよターク。でも、でもね。わたしがあそこから離れちゃったら、師匠にはもう二度と、絶対に会えないでしょ。なんていうか、だから……」
エコは頭を振りながら、口ごもる。
そのエコの姿と態度は、タークにはひどく卑屈で後ろ向きに思えた。
まるで、さなぎに戻ろうとする蝶のようだった。
無理だと分かっているのに、外の世界に出るのが怖くてさなぎに戻ろうとする愚かな蝶……。
永久に失われてしまったものに対する未練が断ちきれないのだ。
燃えてしまった家に、心が縛り付けられているのだ。
師匠が帰ってくるわずかな可能性に縋りつくことしか、エコの頭にはない。
だったら――!
タークの頭が熱くなる。
衝動的に突き出した腕が、エコの両肩を掴む。
「エコが師匠を探せばいいじゃないか!」
エコとまっすぐ目を合わせ、タークはそう言い切った。
「え……?」
「師匠が帰ってこないなら、こっちから探し出せばいいんだ。その方が、待ってるだけより余程いい。――俺の故郷に行く途中で、いろんなところを通る。大きな街にも寄る。そこに師匠が居るかもしれないし、そうでなくても手掛かりくらいは掴めるはずだ。ここでただ待っているよりも、その方がずっと可能性が高い!」
「師匠を、探す……? わたしが?」
エコはタークの言っている意味が一瞬理解できなくて、タークの言葉をそのまま唱えてみた。
「師匠を探す……」
待つのではなく、探す。受け身でいるのを止め、こちらから世界に働きかける――。
生まれてから六年、与えられた環境で育ってきたエコにとって、それは新鮮な発想だった。
タークと世界を旅する! 師匠を探し、見つけ出す! そしてそれから、それから――。
エコの今までの世界が、大きな音を立てて崩壊した瞬間だった。
エコの世界を覆っていた蓋が砕け、エコはようやく、その外側により大きな世界が広がっていることに気づいた。
そこには考えられないほど素晴らしいものが無数に存在し、そしてその全てが、これからエコに見つかることを待ちわびている――そうエコには思えた。
タークのその言葉によって、エコはようやく気づくことができた。
未知の世界を、自らの手でひも解けることに。まだ見ぬ土地へ、自らの足で辿り着けることに。
いつの間にかエコは立ち上がり――、涙を流していた。
エコは笑い、タークの言葉に何度も何度もうなずく。
衝動に突き動かされるまま、タークの顔面に抱き着いた。
「うぶっ」
エコの体で口と鼻を抑えつけられ、タークが苦しがる。
「うん……、うん、うん……!! ありがとう、ターク!」
エコはタークを抱きしめたまま、顔を上げて大空をふり仰いだ。
抜けるように蒼い空が、視界一杯に広がっていた。
「わたしは……。わたしはタークと旅に出る。そして……そして……!」
エコがまるで大空を掴むように、両手を高く上げた。そしていっぱいに開いた手を、ゆっくりと閉じていく。
「師匠を、探すんだ!!」
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