第3話 お遍路

 Aさんはアサト君の物を何一つ残さなかったが、忘れることなんかなかった。毎晩のように夢に出て来るし、起きている時も常に「あ、アサトにお昼出さなきゃ・・・」なんて風に、アサト君の存在が生活に中心になっていたからだ。


 Aさんは、いつもアサト君と一緒にTVを見ていた時間に、子ども番組をつけて、一緒に歌ったりダンスをしたりした。

 気が付くと一人だから空しかった。

「アサト・・・ごめんね・・・もう楽しいことできなくなっちゃって」

 Aさんは必ず詫びた。


 そのマンションは解約を申し込んだから、Aさんは一人でコツコツと引越しの準備をしていた。音楽をかけたりして気を紛らわせたが、引越しに向けて、片づけをしながら急にひらめいた。

 

 そうだ。一人でお遍路さんに行こう。それで、アサトの供養をしよう・・・。


 そういえば、前からお遍路さんをやってみたかった。山の中を歩いたり、アスファルトの上を歩いたり、自分の足で行くんだ。そう考えていると次第に前向きな気持ちにってきた。供養。自分がこれから息子にしてやれる唯一のことだ。


 Aさんは岡山に帰ってすぐにお遍路を始めることにした。最初に3日かけてお試しコースを回った。忙しくして自分の肉体を酷使していると、辛いことを忘れていった。


「アサト・・・ごめんね。供養になってるのかなぁ・・・喜んでくれるかな」


 地元の人は、お遍路さんにはすごく暖かい。特に女性なのに一人で回っているいるAさんにはみな親切だった。Aさんは「実は子供を亡くして・・・」と、身の上話をすると、みな同情して泣いてくれた。「きっと喜んでるよ」

 そうやって、人と交流していると、次第にAさんの傷が癒えていった。


 お遍路から戻ったら、また働こう・・・そして、また新しい人生を歩むんだ。

 Aさんは2か月くらいかけて、すべての行程を終えた。


 次第にアサト君のことを考えない時間が増えていった。

 Aさんは、まるで自分が高校生の頃に戻ったような気分になっていた。東京にも出ておらず、大学にも行かず、元夫に出会わず、結婚もしてなくて、子どももいないような・・・初心に帰ったような、すがすがしい気分になっていた。また、恋をしたいな。


 派遣先に素敵な人いないかな・・・。自然とニヤニヤしてしまう。そんな風に思っていた時だった。


 クローゼットの洋服の中から、小さな靴下が出て来た。赤と紺色のストライプ。2歳の子が履く小さいサイズ。アサト君の靴下の片一方だけが、Aさんの部屋着の中に紛れていたんだ。


 Aさんは懐かしくて、それをしっかり抱きしめると涙を流した。それまでは、アサト君の死を受け止めることができなかったけど、お遍路に行ったおかげでようやく過去になったからだ。


 その靴下は、アサト君の唯一の形見と思って取っておくことにした。


 Aさんが実家にいて、派遣会社から仕事を待っていると電話がかかってきた。

「派遣会社の〇〇〇の佐藤です。駅の近くの〇〇〇の事務のお仕事です。お仕事内容は、電話応対、書類整理、データ入力、ファイリング、社員の方のサポート業務になります。時給は1250円。時間は9;00~18;00です」

「お願いします」

 時給は安いけど、大企業だから働きたかった。社員の人との出会いがあるかもしれない。


 Aさんはその後、面接に行って採用された。貯金を下ろして、OLさんぽい洋服を買った。新しい化粧品も揃えた。やっぱり、第一印象は大事だからだ。


 Aさんが買ったばかりの服をクローゼットにかけて、うきうきしていると床に何かが落ちていた。アサト君の好きだったトミカの1台だった。

「あれ、まだ残ってたんだ。全部、不燃ごみに捨てたつもりだったのに・・・」

 Aさんはそれを拾い上げると、先日見つけた靴下と一緒に棚の上に飾った。エメラルドグリーンのかにクレーンという車。アサト君が好きだったものだ。アサト君は働く車が好きだった。

「トミカ好きだったよね。残っててよかった」

 Aさんは笑顔になった。


 Aさんはアサト君に毎日水を上げて、手を合わせていたが、最近はそれすら忘れるようになっていた。

 

 Aさんは前日の夜、鏡の前で化粧の練習を始めた。最後に働いたのは、5年くらい前だ。それからは化粧もあまりしていなかった。鏡もしばらく見ていないくらいだった。目じりに小皺ができていた・・・。あ、いつの間に・・・Aさんは自分の老化にショックを受けた。


 仕事を始めてからは、毎日があわただしくなった。


 

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