本殿の梁の下で
西野ゆう
第1話
対岸の廿日市市の住宅地に住んでいた私も、この島に渡るのは数年ぶりだ。
もちろん、毎月あるいは毎週のように渡る人々もいるだろう。
安芸の宮島。
コロナ禍直前の一年は、毎日凄い人出だった。「インバウンド」という言葉も浸透し、島も生まれ変わろうとした途端、フェリーから外国人の姿が消えた。
私はその期間に高校三年間を過ごした。
そして、高校を卒業した令和六年の夏、八月十八日日曜日。
私は波静かな瀬戸内の海の上にいた。ほんの十分の船旅。エアコンの効いた船室ではなく、潮風を浴びるデッキで手すりを握って、波を受ける大鳥居をじっと眺めていた。
もちろん潮風を浴びるのは好きだ。だが、正直言えば、この時期はエアコンの効いた船室に入りたい。倒れぬよう脇を締めて持つ、この薙刀がなければ。
「何十組も参加するんだから、そんなに緊張することはないよ」
四年前、中学三年生の夏休み。やはり同じフェリーに乗っていた私に、母は肩を大袈裟に揉みながらそう言って、最後の仕上げに背中を叩いた。
「親と子の武道演武大会」
主に古武道の演武を奉納する大会だ。その名の通り、親子で参加する。
場所は厳島神社の本殿。午前八時半ごろに満潮を迎えるこの日、まさに海の上で演武をするという幻想的な姿を披露することになる。
フェリーが島に近づき、舵を左に切る。右舷に立つ私の正面に、厳島神社が見えてきた。
桜の舞う
四年という時間の経過だろうか。今日の私は胸の高鳴りもない。緊張とはどういう感覚だったのかさえ思い出せない。
もう一度石突を鳴らし、親指で刺しゅうされた自分の名前をなぞる。
「間もなく当船は宮島桟橋に到着いたします。ご着席のお客様は、完全に船が停止してからお立ちください。お立ちのお客様は手すりをしっかりと……」
フェリーを降り、桟橋からスロープを上がってフェリー乗り場のターミナルを出ると、石畳の広場が広がっている。
外国人観光客がやはり多い。日本人の三倍はいるのではないだろうか。
「お母さん、やっぱり凄い人だね」
石畳の照り返しに目を細めながら、私は呟いていた。
広場には鹿が二頭いて、観光客を出迎えている。餌をねだりお辞儀するポーズが、外国人観光客のスマホのレンズを向けさせる。数年に一度しか訪れない私にでも見慣れた光景だ。
宮島は鹿が減ったといわれているが、それは違う。餌やりが厳しく禁じられているため、鹿が人より山を選んで住処を変えているに過ぎない。
私も鹿と同じであり、正反対でもある。高校を卒業して独り立ちした私は、守ってもらうばかりだった故郷を離れ、都会に出た。
そして、お盆に帰ってきた私は、無理を言ってこの日まで休みを伸ばしてもらっている。この大会に出るために。
「もう暑いね。回廊の方に行っとこうか。きっと海の上だし涼しいよ」
私はそう言って、開店準備を始める土産店をわき目に、母と共に厳島神社を目指した。
私たちが到着したときには、既に最初の組の演武が始まっていた。槍の演武だ。
男の子の方は、四歳か五歳くらいだろうか。一つ一つの動きで発せられる「えいっ」という可愛らしい気合の声が、観客たちの笑顔を誘う。
私たちも準備を始めた。
厳島神社が用意した簡易更衣室で道着に着替える。演武だから防具は必要ない。
「ちょっと待ってね、お母さん」
私は着ていたものを簡単に畳むと、それをリュックに入れる代わりに、リュックから母を出した。遺影なんて立派なものじゃない。はがきサイズのデジタルフォトスタンド。
私たちの演武の出番。
まずフォトスタンドを立てた私に、一瞬ざわついた本殿、回廊で見る観客たちも、しんと静まった。
「続きまして、楊心流薙刀術、神浦和子、凪、親子による演武です」
海に浮かぶ廊下、能舞台、拝殿、本殿。
世界遺産のそれらが、私と母との演武を見守っている。むろん、そこに祀られている神々も。
「やっ!」
私は礼の後、本殿の梁の下に立ち、上段に構えた。それが私の意志だった。
梁の下では、上段から薙刀は振るえない。当然梁にぶつかる。
フォトフレームの中の母が、私の
私の涙が、本殿の床に染みを付けた。
だが、人の涙は海と同じだ。この染みはわだつみの雫に薄まることだろう。いくつもの、いくつもの染みを付けたとしても。
母は四年前、小さなウイルスに負けた。家族に最後の姿を見せることなく灰になった。
いつまで。私は、いつまで見えない敵と戦えばいいのか。いつまで演武を続けなければならないのか。
再び、私は上段に構える。本殿の梁の真下で。
本殿の梁の下で 西野ゆう @ukizm
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