第19話

 18時01分。渋谷の交差点にたどり着いた。感染者はおらず、シンっと静まり返っている。


 夕闇が迫りつつあるが、街灯の明かりがつく気配はない。ついに停電したらしい。




 俺は最初の感染者を目撃した場所に立った。ここにいた時、俺は交差点の反対側で最初の感染者を見た。確かそれは女性で。女…


























「淳」




 声が聞こえた。懐かしい声だ。そしてどこか愛おしく、暖かい。


 だが、聞こえる声が幻聴だと言うことははっきりと理解できる。だって、その声を発したのは…
















「おい、あんた」




 この声は、幻聴ではないな。


 振り返ると男が1人、警戒した様子で俺に声を掛けてくる。




「あんたが助っ人か?」




 ああ、俺は公安を名乗る人物に呼ばれてここに来たんだったな。




「そうだ」


「まさか、あんたがな…」




 ん?俺のことを知っている?どういうことだ?




「俺のことを知ってるのか?」


「何言ってんだ?向井、あんたどうしたんだ?」




 名前は知っている、のか。やっぱり俺とテロ組織は何かしら関係があるってことは確実だな。




「すまない、4日前、ここで記憶を失くしているんだ」


「記憶を…?何を言って…いや、そうか、見たんだな」








「彼女の姿を」








 そう。徐々に戻りつつある記憶。その記憶にある人物を俺は最近目撃していた。


 4日前、この場所で見た最初の感染者。若い女性だった。




「悠陽…」




 俺の大切な人だ・っ・た・。




 俺が記憶を失くしたのは、自分を守るための防衛本能だったらしい。目の前で愛しの人がゾンビになって人間を喰らっているのを見て正気を保っていられなかったのだ。一瞬にして脳の回路が焼き切れ、記憶障害を起こし、俺はその場から逃げ出した。




「あんた…ここに来たのは記憶を取り戻すためだな?そして今、記憶が甦りつつある」




 目の前の男は俺をそう的確に分析している。確かにそうだ。俺はぎこちなく頷く。




「じゃあ、俺が誰かは…?まだ思い出せていないか。俺は公安の土井、組織に潜入して捜査してた」




 土井…確かに聞いたことがあったな。どこでだ?まだ記憶が曖昧だ、頭に鈍痛が出始めている。




「お前はあの組織に彼女を人質に取られ、無理やり非合法な仕事をさせられていたんだ。覚えているか?」




 俺は首を振るが、すぐに止まった。思い出した。俺が銃器の取り扱いが可能なのは組織に教え込まれたからだ。そうでもしないと人質となった彼女を助けられないと思ったから。


 そして、銃器犯罪に手を染めた。他にも現金輸送車の襲撃、暴力団関係者の暗殺、組織関係者の拉致。


 やれることはなんでもやった。




 ようやくそれらが終わり、悠陽と会わせてやると言われてやって来たのがこの交差点だった。


 そこで彼女がゾンビになっていたのだから、記憶を失うほどのショックを受けてもおかしくはないだろう。




「うっ…」




 思い出し、嗚咽が漏れ、込み上げてくる吐き気を抑えきれない。相も変わらず胃液だけが吐き出される。




「おい、大丈夫か。思い出してるんだな?悪いがこっちも暇がねえんだ、全部吐き出して思い出してもらうぞ」




 土井はそう言って俺の背中をさすった。


 そうだ、この男だ。こいつは確か俺に数回接触してきたのを覚えている。


 この惨事を起こしたテロ組織は名前すらなく、平気で身内を殺すため、警察も尻尾を掴めずにいたはずなのだが…そうか、この土井は公安だったのか。組織の幹部の部下だったはずだが、かなり深いところまで潜り込んでいたらしい。




「4日前、組織で大きな動きがあった。俺が部下をやってた幹部ですら、詳細を聞かされていなかったんだ。それがまさかバイオテロだとは俺も思わなかったが」




 公安ですら兆候を掴めていなかったのかよ。一体全体、あの組織は何だ?




「俺が組織の拠点の1つに戻った時は既に感染が広がりつつあったが、拠点には何人もお前みたいに人質を取られている協力者がいた。たぶんその協力者に感染を広げさせたんだろうな。詳細は知らされずに、何か容器を持たされていた。お前の…その…大切な人も、な」


「その場に、いたのか?」


「ああ」




 なんで止めなかったんだ。と、そう叫びたかった。だが土井の顔を見て、口を噤んだ。




「実はそこには、俺の女房もいたんだよ。俺が公安の差し金だってことも全部バレてた」


「んな…バカな」


「俺も目の前で女房やられるまで、何もできなかったっ」




 土井は唇をぐっと噛み、血が流れるのも構わずに噛み続ける。


 何も言えず、俺は吐き気が治まるのをただ待つしかなかった。








「それで?助けがいるのか?」


「ああ、命からがら逃げてきたが、やり返さないといけねえ」


「個人的な報復か?」


「いや、チゲえよ。奴らの目的がわかったんだよ」


「目的?こんなふざけたバイオテロをする目的があったってのか?」


「奴らは過激な選民思想を持っていて、世界をリセットするのが目的なんだと。冥途の土産だとか言って、俺を殺す寸前に口を滑らせてくれたさ」


「そう、か。この惨状を創っておいて自分たちはのうのうと生き続けようってのか」


「いいや、それだけじゃ済まねえよ。奴らは生き残っている生存者たちも殺す気でいるらしい。自分たち以外の人間が完全に滅びるのを望んでんだよ。だから他の生きている人のためにも、奴らを全員ぶっ殺さねえといけねえんだっ!」




 土井は今まで抑えていた感情を爆発させるように語尾を強めた。誰もいない夕闇の交差点に彼の声が響いた。




「そう…だな。だが、俺にはもう関係ねえよ」


「あ?」


「全部思い出しちまったんだよ。俺にはもう何も残っちゃあいねえ。誰かを救う正義感なんてのも最初っから持ち合わせちゃいなかったんだ。自分と自分の大切な人が守れりゃそれで良かったが、もう、なにも、ねえんだ」




 そう。俺にはもう何も残っていない。


 悠陽も、感染者になってこの広い大都会を漂う死体になっている。今まで俺の前に出てこなかったのは幸いだったのかもしれない。








 さぁ、終わりにしよう。このクダラナイ世界を








 拳銃を引き抜いて、頭部に銃口を当てて引き金を引いた。






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