第1章 東京編
第1話 逃避
「...」
唖然としていた。目の前で起こったことが現実か、頭が真っ白になる。
暑さで頭がおかしくなったのかと額に手を当てるが、暑さに慣れ始めた身体は今のところ正常だと自己診断する。
では、目の前で起こっていることが現実であると断定する。
さて、交差点の向こう側で起こっている阿鼻叫喚が現実だと分かったところで、俺は踵を返して歩き出した。アレからとにかく逃げる。今はそれが最善だと判断する。それくらいにはまだ冷静だ。
高架下を抜けて振り返ると、何台かの車が事故を起こしているのが見えた。周りの歩行者たちは何があったのかと野次馬に向かうが、流れに逆らって歩く速度を上げる。
高架を抜けるとすぐに交差点があるが、ちょうど信号は青だ。変わりつつある信号を小走りに抜け、もう一度振り返る。薄っすらと見える高架の向こうは、すでに骸が何体も漂い始めていた。
それでも、一区画も離れるといつもの喧騒が聞こえる街並みだった。本当にさっきの惨状が現実だったのかと立ち止まった。
だが、血相を変えて走る警官とすれ違うと、やはり現実なのだと再認識する。とにかく今は逃げよう。
小走りで歩道を行くと奇異の目で見られるが、そんなことに構っている暇はない。
走り続け、大通りに出て、さらに走り続ける。10分ほど走って、大きな交差点に出る。
息を切らせながら赤になっている信号を睨む、しばらく変わりそうにはない。
そこでようやく、俺は尻のポケットに入れていたスマホを取り出しロックを解除する。いつも使っているSNSを開いて見る。すると案の定、スクランブル交差点がトレンドに上がっていた。
『画面端!なにこれ?どうなってんの!?』『スクランブルで事件。暴行事件?交通事故?』
配信動画の切り抜きとともにアップされているのを見て、自分がおかしくなったわけではないと確信が持てた。こんな状況である意味自分が安心していることに違和感を覚えつつ、信号が変わったのを見て走り出した。
横を見ると地下鉄の入り口があるが、この状況で密室空間に入るのは怖い。移動距離は稼げないが、どこに何が出るかわからない状況では、少しでもリスクはない方がいい。
しばらく走り、道沿いのコンビニに入る。息を切らせ汗びっしょりな俺を見た店員が目をそらした。
冷房がよく効いていて涼しいが、汗が急速に冷えていくのを感じる。あまり長居しない方が良いかもしれない。息を整え、ペットボトルの水を購入しコンビニを出た。
そこからは走るのをやめ、水を飲みながらゆっくりと歩き出した。あれから20分経った。
もう一度スマホを開くと、SNSには情報が溢れかえっていた。
『#ゾンビ?#渋谷 スクランブル交差点でゾンビ!?動画閲覧注意!』
僅か10分で数万回の再生数、2万も拡散がついている。周りを見ると、休憩から帰ってきたOL数人がスマホを見て軽い悲鳴を上げている。インターネットに疎い人たち以外はあの惨状を知り始めたようだ。
しかし、彼女らは移動を始める素振りはなく、「やばいやばい」と騒いでいるだけである。所詮は画面の中の出来事。自分は大丈夫、関係ないと思い込んでいる。
俺は直接見た光景を思い出し吐き気を催すが、今はそれを無理やりに抑え込んで歩く速度を上げた。
あれから30分、再びスマホを見る。今度はニュースサイトを開く。こちらにもトップに記事が上がっている。
『スクランブル交差点で猟奇事件か?』
―――今日正午頃、東京都渋谷区にて傷害事件が発生。SNSなどでは「ゾンビではないか」などの声が上がっている。事件に伴い、周辺では事故などが併発しているとの情報も―――
名のある新聞社のネットニュース記事も大々的に報道し始めている。もうすぐテレビニュースでも同じように報道されるに違いない。映像はさすがに映さないだろうが、普通ではないと気付き始めるだろう。
パニックが広がる前に移動しないと。
さらに10分走り、視界が開ける。やっとここまで来たか。
お堀に沿って走り始めると、猛暑の中で呑気に汗を流しながら走るランナーたちに交じってお堀をぐるっと回って行く。
普通のパトカーに続いて、普段見ることのない大型の車両が緊急走行で元来た道へと向かっていく。
あれから40分、ついに公的機関が大規模に動き始めたらしい。
お堀を背にし、駅に向かう。ここまで来れば、電車に乗っても大丈夫じゃないかと考えた。今のところ、こちらの方は混乱が起きている様子はない。
駅に向かう途中も、人々はスマホを見てざわざわと話題にしている。
あれから50分、駅のホームにいる。
やはり周囲の人々はスマホの画面に釘付けになっている。当たり前だが。もしも、自分がそっち側ならもう少し気楽にいられただろうか。
電車が来るのが見える。あれで郊外へ行けるはずだ。
「ふぅ」
安堵の息吐いて、ホームに入ってくる電車を待つ。
とりあえず、帰ろう。そう思ってスマホを開く。今のところ各路線で運行状況に問題は出ていないようだ。
路線情報を確認し終え、尻のポケットにスマホを入れて顔を上げる。
目の前の電車の扉が開く。
「え?」
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