第135話 宿屋のおばちゃんのことも忘れずに
数日後。ようやく旅の準備が完了した。
ついに長期間お世話になった宿もこのタイミングで引き払う。
宿のおばちゃんが涙を浮かべながらお礼と別れの挨拶をしてくれた。
というか、礼を言いたいのはこちらの方だ。何しろ、俺から提案したマンスリーマンションのような身勝手な契約を受け入れてくれたのだからな。
正直なところ、この寛大さが無かったら俺は非常に困っていたはずだ。
姉妹の里へ行っている間もそうだが、空間魔法を求めての遠征やアンラの家でのダンスの修行など、実のところかなり留守にしている期間が長かった。
そんな勝手ばかりしていても、一度も𠮟られたり文句を言われたことが無い。
まぁ、俺がこれ以上ないほどの『太客』だから……、と一言で片づけることも出来る。だが、やはりおばちゃんの『寛大さ』があってこそだろう。
「これを……」、と言って俺が差し出したのは上品な木の板だ。
これはメッセージボード。言うなれば黒板だ。作りは単純だが、これはれっきとした魔道具の一種。なんと指でなぞるだけで文字が書けるという優れモノだ。そして手のひらを押し当てれば文字は消える。
それなりに高価な品だが、躊躇なく置いていく。これを壁にでも備え付けておけば書き置きなども可能だろう。
実はおばちゃんとは「何かしら宿泊客と来客を取り持つ手段があればいいのにね」という話を以前にしていたのだ。それを覚えていたのだ。
今回の俺の例でいくと、ノエルとユエがメモ書きを残してくれれば、俺はそれに反応できる。他にも忘れ物や掃除の時間といった種々の要件を伝達するには持ってこいだ。
「ありがとう。ありがとう!」
宿のおばちゃんが、顔をしわくちゃにしながら喜んでくれる。ここまで喜んでくれると俺まで嬉しい。
というのもアレだ。いわゆるプレゼントというのは善意で贈るものなのは当然だが、本当に相手が喜んでくれるかどうかは運の要素も含まれる。
場合によっては恩の押し売りになりかねないし、逆効果になる場合さえあるかもしれない。
そもそも今回はプレゼントを贈る必要性さえ無かった訳で、その状況でこれだけ大きいものを渡して喜ばれない可能性も考えられた。
まぁ、事前の会話で喜ばれそうだという確証はあったが、その予想が当たって良かったと思う。ちなみに外した場合は空間収納に仕舞っておいて、いずれの機会で役立てようと考えていた。
最後にギルド会館に立ち寄り、エリナに挨拶をする。
「サイさん、いよいよこの街を離れてしまうんですね。寂しいです。また、ここに立ち寄って下さいね! 私たちは待ってますから!」
話を聞きつけて、上の階からルノアールも下りてきた。
「ついにサンローゼを出るのか! 短いようで早かったな。ここでは君の噂が絶えなかったからな。ぜひ次の新天地でも大活躍してくれ。期待しているぞ、サイ」
最後にがっしりと抱き合い、強く握手をする。
これで思い残すことはない。
いよいよ出発だ。
荷造りは完璧だと思うが、実は身に付けている荷物はほとんどない。何しろノエルも俺も空間収納を使えるのだ。
とはいえ、まったくの手ぶらというのは良くない。実のところ空間収納が使えることをあまり大っぴらにしない方が良いと考え、気持ちだけのわずかな荷物だけを背負い込む。
「いよいよ出発だね、お姉ちゃん」
「里を離れて初めての遠出ね。楽しみだけど、ちょっと怖いかも」
「サイさんが一緒だから、きっと大丈夫だよ」
「そうそう、ドンと来いっ…… と言いたいところだが、俺はまだEランクなんだよな」
「えっ、サイの場合はランクなんて関係ないわ!」
「ふふっ。きっとそう」
「さて、まずは第一歩を踏み出すか」
俺はそう言って、ギルド会館の扉を開けた。
たった今踏み出したこの一歩。これが新たな旅の幕開けだ。千里の道も一歩より。果たして俺たちはどういう展開を迎えるのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます