【人魚】月夜に共に過ごすのは〜ギルバートの散々な一日〜(バレンタイン)【前編】

 恋人たちの祝福の日。これはこの国に伝わる童話が由来になった記念日だ。

 人間の騎士に恋をした月の精霊セレーヌは、戦地に赴く騎士の身を案じて自身の髪を編んで作ったお守りを渡した。セレーヌの加護により無事に戦地から戻ってきた騎士は自身の服の帯で作った髪紐を彼女に渡し、そのことで月蝕の日に消えてしまうセレーヌを永遠に地上に繋ぎ止めたという。

 その話が転じて祝福の日は恋人や夫婦達がお互いに贈り物をし合い、愛を語らう日となっている。

 泡となって消えた人魚姫。氷の王と雪の精霊の恋。妖精や人魚など人ならざるものも住まうこの国では、数多のおとぎ話が国中に根付いているのだ。

 ギルバートも祝福の日のことは当然のように知っていた。だが、父の意向により婚約者を持つことのなかったギルバートにはこれまであまり縁のない話だった。

 周囲の貴族達は幼い頃より結婚相手が決まっている者が多い。同年代の貴族の子女達は婚約者同士互いに花や菓子を贈り合っていたが、特定の相手がいないギルバートは職務に励むか、キースに強引に連れられて貴族を相手にする高級娼館で適当に一夜を過ごすことくらいしかなかった。


 だが、今屋敷の中に漂っているのは甘い甘いチョコレートの香りだ。ふわりと鼻をくすぐる濃厚な香りと共に、カシャカシャと何かをかき混ぜる音や、トントンと何かを刻む音も聞こえてくる。

 厨房にいるのはエレオノーラだ。ハンナが隣にいるのか、彼女の声も聞こえてくる。何とはなしに厨房の前に来ると、フリルのエプロンをつけたエレオノーラがパタパタとギルバートの元へ駆け寄ってきた。高い位置で結わえた長い髪が、彼女の走りにつられてゆらゆらと尾ひれのように揺れている。

 ギルバートより頭ひとつ分低い彼女は、真剣な目で灰色の目を見上げながら両手でばってんを作った。


「だめよギル。厨房の中は見ちゃだめ!」

「朝からずいぶんと熱心じゃないか。お前が料理をしたがるなんて珍しいな」

「わ、私だってたまにはしたい時があるの。でも何を作ってるのかはギルには内緒よ。ほら、もうあっちに行って」

 

 そう言いながらエレオノーラが小さな手でグイグイとギルバートの胸を押す。厨房から漂ってくる濃厚なチョコレートの香りに加えて、ほっぺたにほんの少しチョコレートがついていることからも彼女が何を作っているのかは一目瞭然だ。

 だがあまりに必死な彼女の様子にギルバートも笑いながら厨房から下がった。


「まぁ何を作るにしても料理はまだ不慣れだろう。火傷や手を切らないようにハンナの言うことはよく聞くんだな。俺は今から殿下の元へ行く。何かあれば馬を走らせてくれ」

「ギルはお仕事に行っちゃうの? 早く帰ってきてね。えーと、渡したいものがある……かもしれないから」


 どこかソワソワした様子でエレオノーラがギルバートの顔を見上げる。彼女の意図を察したギルバートはふっと相好を崩しながらエレオノーラの頭を撫でてやった。


「わかった。善処しよう」


 ギルバートの言葉に、青の瞳がわかりやすくパッと輝く。後ろ髪を引かれる気持ちをぐっと堪えながら、ギルバートは騎士服を整えて屋敷を後にした。



 往来に出ると、まだ朝だと言うのにすでに街は祝福の日一色に染まっていた。

 腕を絡めて楽しそうに通りを歩く恋人達。街中にある菓子店や花屋は赤いリボンやハートの形をした箱に詰めた菓子を売っているし、宿屋も今夜の宿泊の用意ができているとさりげなく看板でアピールをしている。宿屋の軒先に赤い布がかかっていれば、それは祝福の日の夜に向けて部屋を確保することができるという印なのだ。

 祝福の日は男女ともに物を贈り合う日という認識が一般的だが、月の精霊セレーヌと騎士のおとぎ話が由来になっていることから、月明かりの下でキスをすればセレーヌが二人に永遠の祝福を与えてくれるというまことしやかな俗説もある。

 夜に共に月を見るということはつまりそういうことなのだが、この俗説ゆえに祝福の日は宿屋にとっても稼ぎ時なのだ。


(祝福の日か……俺もエレオノーラに何か買ってやろう)


 いつもは恋人達の様子を眺めるだけだった自分も、今年は贈りたい相手がいる。微かに高揚する自分の気持ちに苦笑しながらも、ギルバートは浮足立った街中を颯爽と通り過ぎて行った。




 王宮の近衛騎士であり、エドワルド第一王子の護衛も務めるギルバートは、王子の外出がない日は騎士としての職務を行うことが多い。自らが王宮の警護にあたったり、王宮の警備を強化する為に配下にいる騎士達の剣の指導をしたりとやることは様々だ。王族の側近という栄誉ある職務を賜っているギルバートには王宮で奮える権力もあり、それなりに多忙を極めていた。


 細々とした雑務を終えた後、護衛騎士と交代してエドワルド第一王子の側に侍る。自室に入り、上着を脱いで身軽になったエドワルドが微笑みながら椅子に腰掛けた。


「今日は祝福の日だね。見てご覧、王宮の中でもソワソワした空気が流れているよ。皆幸せそうじゃないか」

「ええ、先程も身が入っていない近衛騎士達を何人か注意しましたが、今日は仕方がないのかもしれません。皆恋人たちに会うのが待ち遠しくて仕方ないのでしょう」

「ギル、君も今年は一緒に過ごしたい相手がいるだろう? エレオノーラが屋敷で待っているのではないかい?」

「……はい」


 王子の椅子の横に不動の姿勢で立ちながらギルバートは頬の熱を自覚しつつ目を伏せた。職務に邁進しながらも、早く帰ってきてとお願いするエレオノーラの顔が時折ちらついて離れなかったのは事実だ。

 いつも硬い表情ばかりの側近の珍しく照れたような表情に、エドワルドも顔を綻ばせる。


「それでは夜までに帰らないといけないな。一説によると月の下でキスをすればセレーヌの永遠の祝福を得られると言うじゃないか。しかも今日は満月だ。セレーヌが気を効かせて二人の仲を進展させてくれるかもしれないよ」

「御冗談を」

「いや、案外冗談でもないかもしれない。祝福の日はセレーヌの加護により、恋に発展する出来事が起こりやすいと言われている。祝福の日をきっかけにして恋仲になった男女は多いと言われるくらいだからね。まぁ、それでも君や僕には関係のない話だ。今日は早めに他の護衛と交代させよう。エレオノーラのもとへ早く帰ってやりなさい」

「……お心遣いに感謝いたします、殿下」


 公私は混同いたしませんと返そうと口を開くが、王子の厚意を無碍にするわけにもいかないと思い直してギルバートは恭しく頭を下げた。それに、エレオノーラの元へ早く帰りたい気持ちも事実だ。初めて作った手作りの菓子を食べてもらいたくて、自分の帰りを今か今かと待っているであろう彼女の姿を思い浮かべるとくすぐったい気持ちになる。

 ギルバートの反応を見てエドワルドが満足そうに微笑んだ。


「はは、君たちが幸せそうで何よりだよ。それに少しだけ羨ましい。僕の相手は海の向こうだからね。流石にセレーヌの祝福も届かないだろうな」

「殿下がお送りになった数々の贈り物はしっかりと海を渡って届いていることでしょう。隣国の姫君も殿下のことを想っておいでのはずです」

「あ、いやいや別に卑屈になっているわけではないんだ。ありがとう。でもそうだと嬉しいね」


 そう言いながらはにかむ彼もすっかり恋を知る者の顔をしていた。今となってはその気持ちがよくわかるギルバートも少しだけ口角をあげる。

 窓の外──おそらく海の向こうの国へ思いを馳せていたであろうエドワルドは、よし、と軽く呟くとギルバートの方へ振り向いた。


「今日は何をしていても身が入らないだろうから、僕も庭園を散歩してくるよ。ギル、付き合ってくれ」


 一つにまとめた小麦色の髪を手ではらってエドワルドが軽快に席を立つ。だが弾みをつけすぎたのか足がもつれ、王子の体がぐらりと傾いた。


「殿下!」


 慌ててギルバートが駆け寄り、エドワルドの腰を掬い上げる。だがギルバートの方が体格がいいとは言えエドワルドも長身の成人男性。腕にかかる重みに思わず前のめりになると、驚きに目を見開くエドワルドと至近距離で視線が交わる。一瞬はずみで口づけてしまいそうになったが、ギルバートが腕と足に力を入れてなんとか体勢を維持した為に事故は免れた。

 

「ギル……すまない、助かった」

「いえ。殿下、お怪我はございませんか」

「ああ、君のお陰で床への直撃は免れたよ」


 そう言いながらエドワルドが苦笑する。だが彼は自力で立ち上がろうとはせずにずっとギルバートの腕の中で灰色の瞳を見上げていた。

 至近距離で見つめ合う男達。

 なぜ王子が一向に起き上がって来ないのか不思議に思うが、早く立ち上がってくださいなどと不敬なことは言えない。

 居た堪れない空気に落ち着かない気持ちになっていると、エドワルドが手を伸ばしてそっとギルバートの頬に触れた。


「殿下、何を……?」

「ギル、君はなかなか端整な顔立ちをしているな。君に助けられた女性が恋に落ちるのは、きっとこういう時なんだろうな」

「は……勿体ないお言葉です……?」


 あまりに謎めいた状況に語尾が思わず尻上がりになってしまった。いつもと違う王子の振る舞いに内心で戸惑っていると、やっとこさエドワルドが笑いながらギルバートの腕の中から身を起こした。


「いや、よく恋物語や演劇なんかでこうやって危ない所を騎士が助けてくれる場面があるじゃないか。助けられる令嬢の気持ちはこんな感じなのかと思ってね。まったくセレーヌも粋なことをしてくれるね。祝福の日は恋に落ちやすいという噂もあながち間違いではないのかもしれないな」

「はぁ……」


 ベタにもほどがあるシチュエーションがセレーヌの祝福によるものなのかは疑問だが、ギルバートが咄嗟に踏ん張らなければエドワルドとキスしかけたのは事実だ。

 確かにこの日は恋に落ちやすいと言われているが、そんなものは単なる迷信に過ぎないはずなのだが。


(恋仲にない男同士にも祝福が……? そんなまさか)


 いや、愛する相手に性別は関係ないのかもしれないが、それにしてもまったく恋愛感情のない間柄にも恋愛フラグを立たせるとは、なかなかに大盤振る舞いな祝福だ。

 なんとなく嫌な予感がするギルバートは、エドワルドの厚意の通り、早めに帰宅をすることに決めた。




 「夜の時間は愛する者と過ごすべきだ」というエドワルドの厚意により、ギルバートはまだ日が高いうちに帰宅を許された。 

 高級な料理店や菓子屋が立ち並ぶ賑やかな通りを進んでいく。ギルバートと同じく早めに仕事を終えた者達がいるのか、朝に比べて人が増えており、そこかしこで恋人達が睦まじく過ごしていた。

 ギルバートは脇目も振らずにとある一軒の菓子屋に入っていく。王宮御用達でもあるその店は、間違いなくこの国一の有名店だ。

 そこで赤いハート型の箱に入ったショコラを購入すると、ギルバートははやる気持ちを抑えながら屋敷への帰路を急いだ。


 だがセレーヌの祝福は一筋縄ではいかなかった。


「ギルーー! お前、ここにいたのか!!」


 辻馬車を捕まえようと往来に出ていると、突如背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。嫌な予感と共に振り向くと、息を切らしながら走ってきたのはキースだ。今日は診療所が休みなのか白衣は着ておらず、シャツとズボンという簡素な出で立ちだ。

 キースはギルバートに駆け寄るとゼェゼェと息を吐きながらガシッと両肩を掴んだ。


「ギル! 一大事だ!今すぐに来てくれ!」

「は? いきなりなんなんだお前は。おい待て! 急に走るな!」


 ギルバートの抗議の声も構わずにキースがギルバートの腕を引っ張りながら走り出す。わけがわからないままギルバートは引きずられるようにして彼の後をついていくしかないのだった。

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