【怪盗】すれ違っていてもあなたを見ている(バレンタイン)
バレンタインデー。それは、恋人や家族など大切な人に想いを告げる日。最近ではすっかり女性が男性にチョコレートを贈る日になってしまっているけれど、それでもやっぱりイベントがある日は街全体が浮かれているようで私もなんだか嬉しくなってしまう。
それに、最近恋人ができたばかりの私にとってはバレンタインはもう他人事の話ではなかった。初めてできた恋人と、初めてのバレンタインを過ごすのだ。
バレンタイン当日は土曜日だった。
その日、私は否が応でも浮かれてしまう気持ちを抑えながら、ボウルに入った生地をぐるぐるとかき混ぜていた。残念ながら雅臣さんと一緒に休みを取ることはできなかったけれど、優しい彼は退勤後に一緒に過ごそうと約束してくれた。
ほんの数時間だけかもしれないけれど、二人で過ごせる甘い時間を想像しながら出来上がった生地にココアパウダーを入れてチョコレート色にしていく。多分そこまで甘党ではない彼の為に、作るお菓子はシンプルなカップケーキを選んだ。
型に生地を流してオーブンに入れ、チョコレート色のカップケーキを四つ程焼き上げると、赤い箱に入れて同じく赤いリボンで可愛くラッピングした。上から粉砂糖をふりかけただけのシンプルなものになってしまったけれど、甘さ控えめでそれなりに美味しくできたと思う。
時刻は午後五時。もうすぐ雅臣さんの退勤時間だ。私は明るいピンクのニットセーターに白いプリーツスカートを合わせてさりげなくバレンタインを意識した服に着替えると、時計を見ながら今か今かと連絡が来るのを待っていた。
だけど、午後六時を過ぎても、七時を過ぎても、雅臣さんからの連絡はなかった。
午後八時をすぎた時点で、私はもう一度SNSを開いてメッセージ欄を見てみた。新しい通知はゼロ件。律儀で真面目な彼のことだから、約束を忘れたわけではないはずだ。ということはやはり忙しくて連絡もできないのだろう。今日はやっぱり会うのは難しいかな、と思った所で可愛くラッピングされた赤い箱が目に入る。
(差し入れっていう形にして交番に持って行ってもいいかなぁ)
我ながら未練がましいのかもしれない。でもやっぱりちょっとだけでも会いたいなと思ってしまうのが恋心なのだ。バレンタイン一色の世間の空気にあてられてしまったのもあるかもしれない。
いなかったら潔く帰るから。という言い訳を頭の中で繰り返しながら、私は意を決して部屋を出ていった。
雅臣さんが所属している交番は、ターミナル駅のすぐ近くにある。駅前には居酒屋やカラオケ店などが連なっており、常に夜遅くまで騒がしい。
道を歩くのは派手な格好をした夜の蝶にホスト達。酔っ払いに若者の集団もいたりして、ギラギラしたネオンに包まれた繁華街はいつも通りの光景だ。だけどいつもと少し違うのは、その中に手を繋いで楽しそうに歩くカップルが目立つ所だ。どの人達も皆幸せそうに見つめ合い、笑い合う。そんなバレンタイン一色の雑踏の中に、見覚えのある姿を見つけて私はふと足を止めた。
視界に映るのは紺色の警官帽と制服。見慣れた端正な横顔は真剣な表情で、今は路上に止めた車の運転手と何かを話していた。
雅臣さんが向きを変えて私に背を向ける。その弾みに腰に下げた無線や警棒、拳銃を入れたホルダーが見えた。市民を守る為の道具を身に着けた警察官にはバレンタインなど関係ない。彼らは今日も戦っているのだ。この街を行く人々の笑顔を守る為に。そう思った途端、あの広くて逞しい背中が急に誇らしく見えて私の胸がじわっと温かくなった。
(別にバレンタインじゃなくても会えるんだし、お仕事の邪魔しちゃだめだよね)
そう思った私はその場でくるりと踵を返す。職務中の彼を見ただけで今日はもう満足だ。それでも折角持ってきたものだから、せめてお菓子だけは置いてこようと私は交番へと向かった。
「あれ? 誰もいない」
いつもの交番に行くと、全員パトロールに出ているのか中には誰もいなかった。さすがに無人の交番にお菓子を置いて帰るわけにはいかないし、きっと今日はそういう日ではなかったのだろう。
少しだけ残念な気持ちを抱えながら今度こそ自宅に帰ろうと交番を出ようとしたその時だった。
交番の出入り口をサッと黄色いものが横切った。ビビッドな蛍光色の目立つ黄色。横切った影は大人の目線から随分下の方の位置だった。そう、まるで子供くらいの。
「え!」
咄嗟に手に持っている箱を机の上に置き、交番を飛び出る。目線の先では、黄色い上着を羽織った二、三歳くらいの小さな男の子が短い手足を動かしながら走っていた。その先には、大通りと、横断歩道。
「待って! だめ!」
慌てて地面を蹴って走り出す。声をあげながら全速力で追いかけるが、小さい子というのは意外と足が速い。子供は物怖じせずにどんどんと進んでいくからだ。このままでは追いつく前に横断歩道に突っ込んでしまうだろう。
「すみません! 誰か! その子を捕まえてください!」
大声で叫ぶと、通りの人々が振り向く。だけどキョロキョロとあたりを見回す大人達は明後日の方向を向いている。大人の目線ではすぐに子供を見つけられないのだ。目の前の国道では大型トラックもビュンビュン走っている。もう間に合わないと私が悲鳴をあげた時だった。
横から走ってきた影が、間一髪で男の子を抱き上げる。弾みでポロリと帽子が落ちて、端正な横顔が見えた。
「雅臣さん!」
私の声で雅臣さんが振り向く。荒い息を吐きながら走って追いつくと、黄色い上着を着た男の子は雅臣さんの腕の中でキョトンとした顔をしていた。
「良かった、雅臣さん。ありがとうございます」
「あかりさん……どうしてここに?」
「あ、それは後でお話しますね。雅臣さん、この子迷子みたいなんです」
「ああ、そういうことでしたか。それなら交番に戻った方が良いでしょう。状況を確認したいので、あかりさんも来てくれますか?」
「はい、もちろんです。でも、さすが警察官さんですね。あのタイミングで捕まえてくれるなんて。私もう間に合わないかと思ってすごく怖かったです」
ほっと大きく安堵の息をつくと、拾った帽子を被り直しながら雅臣さんが微笑む。
「それはあかりさんが声を出してくれたからですよ。そうでなければ俺も気づくのが遅れていたでしょう」
「そ、そうですか? 良かった、ちょっと注目を浴びて恥ずかしかったんですけど」
「何も恥ずかしいことはありません。この子が助かったのはあかりさんの勇気ある行動のおかげですよ。俺は貴女のそういう所が……」
そこまで言って雅臣さんがハッと口をつぐむ。一拍遅れて言葉の意味を理解した私が「え?」と声を上げて彼を見ると、雅臣さんが照れた表情でふっと口角をあげた。少しだけ赤く染まった顔を見て、私の顔も熱くなる。
「
そう言っていたずらっぽく笑いながら口に人差し指を立てる彼の顔に、私は固まりながらこくこくと頷くことしかできないのだった。
※※※
交番に戻ると、雅臣さんは筆記用具を取り出して椅子に座った。机を挟んで反対側に、私と男の子が座る。まずは男の子を怖がらせないように、隣に座った私がにこやかに話しかけた。
「こんばんは。お名前は言えるかな?」
「えっとねー、あーちゃ」
「あーちゃ?」
「おそらく母親が呼んでいる名前でしょう。僕、お名前はあきと君かな? あきら君? それともあきひこ君?」
迷子の保護も手慣れているのか、雅臣さんが落ち着いた様子でいくつか名前の候補をあげる。それでも男の子は元気よく「あーちゃ!」と言ってニコニコ笑っているだけだ。
「うーん、名前も言えないなら住所はもっとわからないですよね。どうすれば良いんだろう……」
「おそらく近いうちに保護者から連絡が入るでしょう。他の者にも連携しておきます」
そう言って雅臣さんが無線でどこかへ連絡をする。この様子ならすぐにお母さんも迎えに来るだろう。私は椅子を動かして足をぶらぶらさせているあーちゃ君の正面に向き直った。
「今ね、お巡りさんがあーちゃ君のおかあさんとおとうさんに連絡をとってくれるんだよ。だからおりこうさんに待っててね」
「うん!」
「えらいね。じゃあそんなおりこうさんのあーちゃ君には美味しいおかしをあげるね……って、あーー!!」
突然の大声に、あーちゃ君がビクッと肩を震わせ、雅臣さんがこちらを向く。私はわなわなと肩を震わせながら何も置かれていない机を指差した。
「どうしよう、ここにお菓子を置いておいたんですけど、無くなっちゃってる……」
「お菓子ですか? どういうものでしょうか」
「赤いリボンでラッピングした赤い箱です。中に小さなケーキが入っているんですけど」
もしかして誰かに盗まれてしまったのだろうか。致し方ないこととはいえ、今日はついてない日だ。うう、折角のバレンタインなのに……。
私がしょんぼりと肩を落としていると、コツコツと靴音がして目の前の机にトンと何かが置かれた。
「あかりちゃんが言ってるのってこれっすよね?」
聞き慣れた声に顔をあげると、江坂さんがニコニコしながら机の前に立っていた。
目の前にあるのは、赤いリボンの付いた赤い箱。私が持ってきたものだ。箱を開けると、中のケーキは綺麗な状態でちゃんと残っていた。
「さっきあかりちゃんが交番に来た時に、オレ裏にいたんすよ。そんでどうしたの? って出ていこうとしたらあかりちゃんが血相変えて交番から出ていくのが見えて。机の上にこれを置いてたから、一応拾得物ってことで預かってました」
「良かった。江坂さん、ありがとうございます」
「いいっていいって。それ、バレンタインのお菓子でしょ。一ノ瀬さんにですよね?」
言いながら江坂さんがニヤニヤしながら雅臣さんの顔を覗き込む。対して雅臣さんはちょっとだけ驚いたような顔で箱を見つめていた。
「あかりさんが作ってくれたんですか? わざわざ?」
「あ、はい。えと、差し入れのつもりだったんです。でも、この子にもあげていいかなって思って」
「そうですね、両親が来るのにもう少しかかるでしょうから、あかりさんが良いならどうぞ」
「ありがとうございます。あーちゃ君、お腹減ってるなら、おひとつどうぞ」
「うん! あべる!」
そう言ってあーちゃ君が手を伸ばす。私は持っていた除菌シートで手を綺麗にしてあげた後、ケーキを小さな手に持たせてあげた。あーちゃ君は間髪入れずにケーキにかぶりつく。
「おいちい!」
「ほんと? 良かった。あの、雅臣さんと江坂さんも良かったら食べませんか?」
「あーごめんねあかりちゃん。オレら、そういうのは受け取っちゃいけないんだよ」
私の言葉に、江坂さんが申し訳無さそうに返す。
「
「あ、そっか……ごめんなさい、私気が付かなくて」
考えてみれば当たり前のことだ。そんな簡単なことに思い当たらなかったことにしゅんと肩を落としていると、雅臣さんが優しく微笑んだ。
「いえ、でもお気持ちはありがたいです。あかりさんの手作り……今日はバレンタインを楽しむ機会はないと思っていたので、あかりさんがわざわざ持ってきてくれて嬉しかったですよ」
「そうですか? えへへ……そう言ってもらえると嬉しいですね」
「ええ、この子の笑顔を見ていると、このケーキがどれだけ愛情をこめて作られたのかがわかります」
言いながら雅臣さんが本当に嬉しそうな顔であーちゃ君を見ている。口の周りにいっぱい食べカスをつけながらケーキを頬張っているあーちゃ君の顔はとっても幸せそうだった。
そんな緩やかな時間を過ごしていると、外からバタバタと足音がして、交番に誰かが飛び込んできた。
「あきら! 良かった……探したのよ!」
「あ! ママ!」
交番に入ってきた女性を見た途端、あーちゃ君、もといあきら君がパッと破顔して椅子から飛び降りた。良かった、お母さんが迎えに来てくれたならもう安心だ。
その後は調書を取る為に、私もあきら君を保護した状況などを聞かれた。どうやらお母さんが目を離した隙に勝手に家を出てしまったらしい。江坂さんがお母さんに防犯対策などの注意をし、手続きが終わって、交番を出たのは夜十時近くだった。交番を出ようとした私を制し、雅臣さんが立ち上がる。
「江坂、巡回に行くぞ、お前も来てくれ」
「もちろんいいっすよ。今日はバレンタインですもんね」
「何を言っているんだ、公務中だぞ」
江坂さんの言葉を注意しつつも、雅臣さんが私を見て軽く微笑む。なんのことかと思っていたら、連れてこられたのは交番の横に止めてあるパトカーだった。
「あかりさんは以前ストーカーにつきまとわれたこともありますので、防犯の為です。俺達もこのままパトロールに行こうかと」
言いながら雅臣さんがパトカーのドアを開ける。どうやら送ってくれるらしい。申し訳なく思いつつも、これも防犯対策の一環なのだという言葉に甘えて私は後部座席に乗り込んだ。
交番から自宅のマンションまではすぐだ。ものの十分もしないうちに到着し、雅臣さんがドアを開けておろしてくれる。運転席にいる江坂さんが、ニヤリと笑った。
「さーてと、この辺りの防犯チェックでもしますかね〜そちらは見ていないのでゆっくりどうぞ」
「江坂、私情を挟むな」
雅臣さんが江坂さんに注意をする。そのままパトカーのドアを閉めた雅臣さんは私に向かって敬礼をした。
「ご協力ありがとうございます。それではこれで」
「あ、はい。二人とも遅くまでご苦労さまです、体には気をつけてくださいね」
「約束、結局守れませんでしたね」
「え?」
残念そうな声色に驚いて彼を見上げる。雅臣さんは少し寂しげな表情で笑っていた。
「こういう仕事なので、なかなか時間を作れなくてすみません。パトロールも基本的には二人行動なので、貴女に個人的なお礼を言うこともできない」
「そんな、だってお仕事ですもん。私も周りにつられてちょっとバレンタインの空気に舞い上がってしまいましたけど、でも、今日はお仕事中の雅臣さんの姿を見られて良かったです。その、かっこよかったですし」
空になったケーキの空き箱を両手で抱えたまま、へへへと照れ笑いをする。そう、折角のバレンタインを一緒に過ごせなかったのは残念だけど、不思議と寂しい気持ちにはならない。それがなぜなのかは、多分私にはもうわかっていた。
「今日雅臣さんに会えたのはたまたまですけど、それでもこの短い時間でも、一緒に過ごせなかったことを雅臣さんも残念に思っていてくれたんだなっていうのがわかったので……生活はすれ違っていても気持ちは同じなので、私は寂しくありません」
そう、食べてはもらえなかったけど、私がお菓子を持ってきたことを喜んでくれていたのは、箱を開けた時にわかった。ケーキを頬張るあきら君を優しい目で嬉しそうに見ていたことからも。
きっぱりと言い切ると、雅臣さんが少しだけ切ない表情でふっと笑った。
「……あかりさんは素敵な女性ですね。本当は貴女が作ったケーキを食べてみたかった」
「そんな、あれくらいなら今度のお休みの時に作りますよ。いつでも言ってください。それに、私嬉しかったんです。誰も見ていない隙にコッソリ食べることはできたと思いますけど、ちゃんと公務中は私情を持ち込まない人なんだってわかったので。そんな人がこの街を守ってくれるんだって思うとすごく安心できます」
にっこりと笑いながら告げると、雅臣さんが微かに目を細めた。愛おしげに私を見る眼差しは真っ直ぐで、ほんの少しだけ熱っぽい。
「これさえ着ていなければ、今すぐ貴女を抱きしめて俺のものにしてしまいたいのに」
雅臣さんの手が伸びてくる。でもその手は私の頬を掠めようとする寸前で止まり、緩やかに下げられた。
その代わりにその手は私の抱えている箱に伸びてきて、しゅるりと赤いリボンを解く。そしてそのままそれを口元に持っていくと、目を閉じてそっと唇を落とした。まるで恋人にするように優しく、ゆっくりと。
「えっ……えっい、今の」
伏せられた目を縁取る長い睫毛とすっと通った鼻筋。初めて見る彼の表情に、カッと頬が熱くなる。恋人同士なんだからキスは当たり前にするけれど、彼がいつもこんな表情で私に口づけていたのだという事実を目の当たりにして心臓が一気に高鳴り始めた。
雅臣さんが顔をあげ、くすりと笑う。そのままリボンをズボンのポケットにしまった。
「これは俺に作ってくれた物ですよね。今日はこれを貴女だと思って持っていきます。この続きはまたいずれ」
そう行ってまた敬礼をしてパトカーに乗り込んでいく彼の姿を、私はその場に固まりながら見送ることしかできなかった。
そして来月私はホワイトデーにちょっと口に出すのは恥ずかしいくらいに甘々なお返しをもらってしまうことになるのだけど、それはまた別のお話。
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