【人魚】酒の戯れ(愛酒の日)
ことの発端はキースが持ってきたお酒から始まった。
「ギル、新婚のくせにその仏頂面はなんだ。僕が羽目をはずさせてやろう」
久しぶりにウェイデンの屋敷を訪ねてきたキースが、ローテーブルの上にワインの瓶をドンと置く。呆気にとられている二人をよそに、ギルバートの幼馴染であるという彼は、眼鏡を指でクイと押し上げてニヤリと笑った。
ソファに座っていたエレオノーラが、身を乗り出すようにして目の前のワインを見つめる。
「キース、これはなあに? まるで血みたいに赤い水ね」
「これはね、お酒だよ。エレオノーラは飲んだことがないかな?」
「ええ、海にお酒はないもの。これは飲み物なのね?」
「ああ。まぁ嗜好品の一つと言えばいいかな。これを飲むと気持ちが高揚して気分が良くなるんだ。だからそこにいる不機嫌そうな男に飲ませてやろうと思ってね」
「キース、俺は酒なんて飲まないぞ」
エレオノーラの隣に座るギルバートが、テーブルの上のワインを見て眉をひそめる。だがキースは意に介することなく空のグラスを三つテーブルの上に置いた。
「それはその服と関係があるのか? 折角の休日に騎士服を着込んでいる仕事馬鹿に、僕が楽しいひとときをプレゼントしてやろうというのに」
「急に呼び出しがかかった時にすぐ城に行く為だ。お前の所の診療所みたいに暇じゃない」
「ありがたいことに、そこそこ値段のするワインを親友にプレゼントできるくらいには稼がせてもらってるよ」
空のグラスを持ったキースがウインクをし、エレオノーラの隣にどかりと座る。そしてエレオノーラの耳元に口を寄せると何事か囁いた。途端に彼女の表情が真剣なものに変わる。
「……ええ、わかったわ。ギル、ちゃんと飲んで元気になりましょう? 私が注いであげるから」
「おい、ちょっと待て。どうしてそういうことになるんだ」
「だって私、ギルが心配なんだもの」
そう言いながらエレオノーラが真剣な目でワインをグラスに注ぎ、隣に座るギルバートに手渡す。大方キースがあることないことを吹き込んだのだろう。だが、心配そうな顔をして自分を見上げる青い瞳に逆らえず、ギルバートは思わずグラスを受け取った。
口を湿らす程度なら支障はないだろうとワインに口をつける。悔しいが、キースは粗悪なワインを手土産に持ってくるような真似はしなかったようだ。
「どう? ギル、元気になった?」
「いや別に……ああ、まぁ、そうだな。悪くない」
「お前、エレオノーラの前では気持ち悪いくらい素直になるな。惚れた弱みか?」
「そういえば最近剣を新調したんだ。お前で試し斬りをしてみてもいいか」
「ほら、ちょっと元気になってきただろ?」
キースがエレオノーラに目配せをすると、ギルバートが鋭くにらみつける。だが、その目元がほんのりと朱に染まってるのを見てエレオノーラは小首を傾げた。
「これは元気になってるってことなのよね? なんだか顔が赤いようだけど」
「当たり前じゃないか。普段のコイツからは考えられないようなキレッキレの憎まれ口を聞ける機会なんてそうそう無いぞ。もっと飲ませてやれ」
「おい、俺はもういらん。後はこの眼鏡にやれ」
「でも私、ギルにも元気になってもらいたいのだもの」
エレオノーラが真剣な目でグラスを差し出す。なんとなく彼女の気持ちを無碍にできなくてギルバートは差し出されたそれを再び受け取った。頭が痛くなってきて、本当のことを説明するのが面倒くさくなってきたとも言う。まぁあと、彼女が心配してくれるのがちょっと嬉しかったのも否定できない。
それに、昔からの仲であるキースがこうやって自分の為に持ってきてくれたものだ。たまには酒に体を慣らしておくのも必要だと思い直し、ギルバートは一息にグラスを呷った。
――数十分後。
「最悪の気分だ……」
ぐったりとしながらソファに横になるギルバートの額を、床にぺたんと座ったエレオノーラがペチペチと叩く。いつも鋭い光を灯している灰色の瞳は閉じられ、ギルバートは肩で大きく息を吐いていた。
「ギル、大丈夫なのかしら。なんだかさっきより顔が赤くなっている気がするのだけれど」
「ギルバートは酒に弱いんだ。王子の護衛という職業柄、日頃からあまり口にする機会がないしな」
「そんな人にお酒を飲ませて大丈夫なの?」
「もちろん大丈夫さ。酒は素直になれる魔法のアイテムだ。コイツはこういう時くらいしか素が出せないからな」
向かいのソファに座ったキースが、グラスを片手に持ちながら微笑む。先程までの悪い笑顔とは違って、今度は優しい笑みだった。
「コイツも昔はわりと素直で可愛かったんだがなぁ。いつの間にか、融通の効かない、固い大人になっちまった。ギルの周りが、それを許してくれなかったんだよ」
キースの言葉に、エレオノーラの胸がチクリと痛む。生い立ちゆえに生家でも立場がなく、貴族社会の重圧に押し潰されそうになっていたかつての彼を想うと、エレオノーラもなんだか泣きたくなるような気持ちになるのだ。
床に座ったまま手を伸ばし、ギルバートの頬に手を添える。エレオノーラの細い指が触れると、うっすらと瞼が開いて灰色の瞳がこちらを見た。
「ギル! 大丈夫? 元気になってきた?」
「……頭がクラクラして気分が悪い。吐きそうだ」
「大変だわ! キース、これはどうしたらいいの?」
エレオノーラがオロオロしながら振り向くと、キースが眼鏡の奥を光らせながらピッと指を立てる。
「心配するな。こういう時は……そうだな、頭を冷やすといい。何かこう、柔らかくて触り心地の良いプルプルしてるものに顔でも突っ込ませておけば大体良くなる」
「柔らかくて触り心地の良いプルプルしてるもの? そんなものあるかしら」
「うん、まぁそうだな、わりと近くにあると思うよ」
キースがエレオノーラの胸元を礼儀正しくガン見しながら咳払いをする。その視線に気付いたエレオノーラはハッと目を見開いた。
「そういうことね、わかったわ! やってみる」
言いながらエレオノーラが大慌てで立ち上がる。そしてなぜかシェルが泳いでいる小ぶりの水槽を手にとると、ギルバートの側に座り直した。
――ペショ
「……エレオノーラ、なぜ俺の目の上に海洋生物が乗っている」
「えっと……や、柔らかくて触り心地の良いプルプルしたものを乗せるといいみたいだから……」
「アーーーーーハハハハハ!! ヒーーー腹が痛ぇ!!」
まるでアイピローのようにシェルを額に載せたギルバートの横で、キースが過呼吸になる勢いで笑い転げている。ギルバートの額の上では、シェルが死んだ目で虚空を見つめていた。
「エレオノーラ、これは僕もギルバートも誰も幸せにならないよ」
「ご、ごめんなさいシェル。柔らかくてプルプルしてるものっていったらあなたしか思いつかなくて」
「うんまぁ、君はずっとそのままでいてくれよ、僕のエレオノーラ。でもそろそろ僕を水槽に戻してくれないかな。ギルバートの上に乗ってると思うと、なんだか気分が悪くなってきた」
同時にギルバートが額からシェルをベリッと引き剥がし、エレオノーラが持っている水槽に突っ込む。頭を抱えながら起き上がったギルバートが、テーブルの上に置いてあるワインの瓶をガッと手に取った。そのままキースの首に腕を回すと、いつになく眼光鋭いギルバートの目を見てキースが「ヒェッ」と小さく息を呑む。
「この腐れメガネ! お前も飲め!」
「お、おいやめろ! 僕はお前と違ってワインは優雅に嗜むものと決めているんだ! この上品な僕にワインを一気飲みさせようだなんて、そんな下品な真似ができるか!」
「うるさい。少しはその腐った性根をアルコールで消毒してもらえ!」
「医療用と食用のアルコールは別物だ! おいやめろ! 瓶を口に突っ込もうとするな! ってお前力強いな!?」
「お前とは体の鍛え方が違うんだ。変な実験ばかりしている陰険メガネに俺が負けるわけ無いだろう!」
「いや僕がやっているのは実験じゃなく医術の研きゅ……ガボッ!!」
ゴリ押しでワインの瓶を口に突っ込まれたキースがソファに沈み込む。ぽかんとして見守るエレオノーラをよそに、成人男性二人による醜い攻防は延々と続いた。
―――――――――
―――――
「ねぇシェル、この二人、どうしたらいいのかしら」
「さあ。とりあえず水でも飲ませておいたら? 酒場にいた時は、そうやって対処されてる人が多かったよ」
エレオノーラの問いに、シェルが一ミリも興味がない様子で答える。リビングに置かれた二脚のソファには、それぞれ大の男が死んだように伸びていた。
シェルの言う通り、とりあえず水を持ってきたエレオノーラはソファの上で伸びているキースの側に座った。大の字になってはいるものの、耳をすますと微かな寝息が聞こえる。医療の心得はないが、顔色も悪くないのでとりあえずそっとしておけば大丈夫だろう。
次いでギルバートの様子を確認すると、彼はまだ起きていて、うっすらと目を開けながら天井を見つめていた。
「ギル、大丈夫?」
「……いや、頭がクラクラして吐きそうだ」
「ごめんなさい。私、お酒がこういうものとは知らなくて」
しょんぼりと肩を落としながら謝ると、ギルバートがソファに横たわったまま首だけをこちらに向ける。端正な顔立ちが目と鼻の先に現れ、エレオノーラの胸がドキリと鳴った。長いまつげに囲われた灰色の瞳がまっすぐに自分を見つめている。ほんのりと赤くなった目元に色気を感じて、エレオノーラは思わずうつむいた。
「なんだか今日のギルがいつもと違ってカッコ良く見えるから、ソワソワした気持ちになるわ」
「なんなんだそれは。褒めてないだろう」
「でもギルはちょっとくらいムスッとしてる方が可愛いもの。早く元気になってね」
「……お前がそう言うなら、善処する」
「柔らかくてぷるぷるしたもの、いる?」
「おい、あの馬鹿の言うことを信じるな。……いや、やっぱりくれるか」
え? と開いた唇は彼のものによって優しく塞がれた。ピクリと反応した肩を、逞しい腕が抱き寄せる。ほんの少しお酒の味がする口づけはいつもよりわずかに甘かった。回された腕が熱いのは、彼が酔っているからか、はたまた別の理由からくるものなのか。
唇を離したギルバートが、見開かれた青い目を見つめて僅かに口角を持ち上げる。いたずらっぽく笑いながらも、僅かに照れの入っている表情がなんだか可愛く見えて、エレオノーラもつられて微笑んだ。
「今ので治るの?」
「いや、まだだ。もう一回」
「もう、しょうがない人ねぇ」
クスクス笑いながら言うと、ギルバートの手が伸びてきて優しく頬に触れた。そのまま指の腹がいとおしげに唇をなぞる。
彼が身を起こす気配を感じながら、エレオノーラはそっと目を閉じた。
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