【人魚】海の花嫁(June Bride)

「結婚式?」


 ウェイデンの地に移ってから数日経ったある日の昼下り、突然のハンナの言葉にエレオノーラは本を読む手をとめて顔をあげた。

 窓から差し込む陽光が彼女の海色の髪を撫で、まるで打ち寄せる波のように上から下へと淡く光る。深海の色をした青い目をパチパチとしばたかせると、ハンナがニコリと笑みを返した。


「結婚式っていうのは、私とギルの?」

「ええ、折角王子殿下の前で結婚を誓約されましたもの。小さなもので良いから、きちんとお式を挙げた方がよろしゅうございますよ」

「それは必ずやるものなの?」

「必ずというわけではありませんが、新たに夫婦になる男女は皆やっていることですよ」

「そう……そういうものなのかしら」


 貴族のしきたりにまだ疎いエレオノーラは、ハンナの言葉に小首を傾げながらたった今読んでいた本に視線を落とした。

 手に持っているのは、この国の歴史を綴った書物だ。人間として暮らす以上、国の歴史や貴族の系譜についての知識は頭に入れておいた方が良いとギルバートが選んでくれたものだ。エレオノーラがちょうど今読んでいた箇所は、何代か前の王と貴族の娘が婚姻を結んだ場面だった。宮廷画家によって描かれた、華々しい結婚式の絵画も挿し絵として載っている。

 大勢の貴族達に囲まれた王と王妃の結婚式はとても豪勢なものだった。純白のドレスを身に纏った王妃の姿も美しい。だが、エレオノーラが気になったのはそこでは無かった。


「結婚式ってこんなに盛大にやるものなの? 人がたくさん集まっているようだけれど」

「ええ、結婚式はお披露目の意味合いもございますからね。美しい花嫁の姿を見てもらうのも目的の一つですよ。エレオノーラ様も、きっと純白のドレスがお似合いになりますわ。もし結婚式をされるのであれば、わたくし張り切ってお支度をさせていただきます」

「でもそうなると、たくさんの人を呼ばないといけないのよね?」


 貴族に囲まれた王と王妃の絵画を見ながら、エレオノーラは困惑の声をあげた。

 エレオノーラとて、愛し合う二人が結ばれるという儀式に興味が無いわけではない。けれども、しきたりや血筋や名誉という言葉からやっと解放されたギルバートに、またそのような貴族社会の付き合いをさせるのは可哀想な気がした。いつも気難しそうに眉間に深いシワを刻んでいたギルバートの顔が脳裏をよぎる。

 まだ彼がフォルゲインの姓を名乗っていた頃、彼はいつも生きづらそうだった。一方では大貴族の子息だと迎合され、もう一方では娼婦の血が流れていると見下されていたのはエレオノーラもよく知っている。

 エレオノーラの表情からその気持ちを読み取ったのだろう。ハンナがくるりと振り向き、文机の上で書き物をしているギルバートに視線を投げる。


「坊ちゃまはどうお思いですか? 小規模であってもお式はお式だわ。坊ちゃまもエレオノーラ様の晴れ姿は見たいでしょう?」

「結婚式か……今まで考えたことがなかったな」

「坊ちゃま酷いですわ。好いた相手と愛を誓い合うのは乙女の憧れなんですから。わたくし、いつになったらエレオノーラ様を着飾れるのか今か今かと待っておりましたのに、一向にその気配がないんですもの」


 年寄りの楽しみは若い女の子を着飾ることしかないんですよ、とハンナが軽く口を尖らせると、ギルバートがチラリとこちらを見る。その灰色の瞳に真っ直ぐに見つめられて、エレオノーラの胸がトクンと鳴った。自分を見る彼の目が微かに細められる。


「まぁ、お前の言うことも一理あるな。ハンナ、悪いが支度をしてくれ」

「仰せのままに、坊ちゃま」


 ハンナがパッと目を輝かせて、ウキウキしながら部屋を出ていく。その後ろ姿を見送りながら、エレオノーラは気遣わしげにギルバートの顔を見た。


「ギルはその、大丈夫なの? また嫌な人達とお付き合いをしなければいけなくなるんじゃないかしら」

「ああ、そのことか。別に、招待客は呼ばなくても良いだろう。小さな規模になってしまって悪いが、許してくれるか」

「わ、私はそんなの気にならないけれど……それってやる意味があるのかしら?」


 二人きりで式をあげるだけなのに、わざわざドレスを着る必要もないだろう。きっと花嫁衣装一式を用意するだけでも沢山のお金が必要になるはずだ。自分一人だけの為に、そこまでの負担はかけられないと言いかけるが、もう決まりだと言わんばかりにギルバートが文机の上を片付けて立ち上がった。そのまま困惑した表情のエレオノーラを見てフッと口元を緩める。


「俺が見たいんだよ、お前の花嫁姿をな」


 そう言うと、彼は静かに部屋を出ていった。



※※※



 ウェイデンの屋敷は海が一望できる高台にある。まるで宝石のように澄んだ深い青色の上に太陽光が白く反射し、キラキラと煌めく様子は二人を静かに祝福しているようだった。

 自分を育んできた広大なる海を横目に見ながら、エレオノーラは高台の頂上へ続く坂道をゆっくりと登っていた。海から吹く風がふわりとドレスとヴェールをたなびかせ、エレオノーラはそっと手でドレスの裾を抑えた。

 ハンナが用意してきた純白のドレスは真珠が散りばめられ、腰から裾にかけてふわりと大きく膨らんでいる。たっぷりとしたサテンの白い生地の上に、桜貝の色をしたリボンやレースが邪魔にならない程度に飾り付けられ、豪奢できらびやかなその衣装はエレオノーラも初めて見るものだった。純白のドレスに合わせたグローブをはめ、頭につけたヴェールをなびかせながら上がっていくと、やがてギルバートの姿が視界に映った。着飾られた自分とは違って、ギルバートが着ているのはいつもどおりの白いシャツと濃紺のズボンだけだった。その端正な横顔は、真っ直ぐに海を見つめている。


「ギル」


 そっと声をかけると、ギルバートがこちらを向いた。純白のドレスを着たエレオノーラを見た瞬間、灰色の目が僅かに細められる。いつもと変わらないはずの瞳の奥に熱を感じて、エレオノーラの胸が僅かに速くなった。


「ハ、ハンナさんが着せてくれたの。こういうドレスを着るのは初めてだから、上手に着られてるのかはわからないけど」

「……あ、ああ。よく似合っている」

「そう? ありがとう」


 そっと上目遣いにギルバートを見上げると、彼はハッとした表情をして目をそらす。その顔がいつもよりわかりやすく赤いのを見て、エレオノーラもモジモジとしながら視線を下げた。


(えっと……結婚式ってこの後どうするのかしら……)


 なんとなくふわふわとした、落ち着かない空気が流れる。目の前にいるギルバートは先程から無言だ。いつも叩かれる軽口が、今ばかりは少し恋しい。「ギル」と一言呟いて助けを求めるように顔をあげたその時だった。

 突如グイと引き寄せられ、逞しい腕で抱き締められる。鍛えられた胸元にグッと顔を押し付けられ、彼の熱を感じた瞬間、エレオノーラの心臓が跳ね上がった。


「ギル……?」

「……可愛い」

「え?」

「すまない、エレオノーラ。可愛すぎて……まともに見ていられない」


 抑えていた気持ちを吐き出すかのようにしてギルバートが耳元で囁く。甘く低い声が耳朶を震わせ、エレオノーラは思わず両腕を彼の胸に置いてぐっとギルバートから距離を取った。


「どうしたのギル? なんだかいつもと違うわ! ギルが素直だと、なんだか貴方じゃないみたい!」

「まったくお前はいつも……いや、今日ばかりは俺の負けだ」


 絞り出すように言葉を紡ぎ、腰を抱く両腕に力が込められる。再びぎゅっと胸板に顔を押し付けられると同時に、耳からギルバートの心臓の音が伝わってきた。


「未だに、信じられない時があるんだ。幼い頃からずっと見ていた女の子が、俺の腕の中にいることが」


 ギルバートが淡々と言葉を紡ぐ。それはいつもの軽口とは違って純粋な、彼の芯からの言葉だった。


「多分、最初は一目惚れだった。この世界で拠り所が見つけられなくて苦しんでいた時に、初めてお前を見た。汚いものばかりを見てきた俺にとって、浜辺で遊ぶ無垢な人魚は眩しく見えた」

「……そうなの。確かに、人魚はとても珍しいものね」

「ああ。でも、容姿だけに惹かれたわけじゃない。人間の世界のことを知らないお前は、いつも大貴族の子息ではなく俺自身を見てくれた。時折何気なくかけられる肯定の言葉が、ずっと俺を支えてくれた」

「そのわりに、いつも意地悪なことばっかり言ってたじゃない」

「そうだな、俺も子供だったんだよ」


 照れ隠しにむすくれて見せると、ギルバートが微かに笑った。左手は腰に手を回したまま、右手を伸ばしてそっとエレオノーラの頬に手をそえる。


「今思うと、これ以上好きにならないように自分に枷をはめていたのかもしれないな。お前が殿下に夢中だったのも、心のどこかで安心してはいた。これ以上深みにはまらなくていいと。でも、やっぱり忘れられなかった。お前が一度消えた時は死ぬほど苦しかった。どうして手放してしまったのかと……激しく後悔した」


 ギルバートの瞳が揺れる。自分を見つめる彼の瞳に熱がこもっているのを見てとり、エレオノーラの胸がきゅっと締め付けられた。

 確かにあの時は、自分もギルバートの為に身をひく覚悟だった。泡になる所を見られなければ記憶にも残らない。出会ったことすら無かったことにしてしまえば、彼は心置きなく幸せになれると思ったのに。

 それでもやはりギルバートが迎えに来てくれた時は涙が出るほど嬉しかった。彼が心に秘めていた想いを伝えられた今、もう以前のような答えは決して出さない。

 背伸びをして腕を伸ばし、今度は自分から彼の首にしがみつく。

 

「私、貴方と一緒になれて幸せだわ。だって私の初恋の人だもの」


 お返しとばかりに耳元で優しく言うと、ギルバートが微かに動揺する気配がした。構わず、引き寄せるかのように腕に力をこめると、ギルバートが力強く抱き締め返してくれる。


「だめだエレオノーラ……お前が可愛すぎて、もう手放せない」


 絞り出すように言うと、ギルバートが首筋に鼻を埋める。大きな体を縮めるようにしてぐっと自分を抱きしめるギルバートが甘えているようにも見えて、エレオノーラはクスクスと笑った。

 列席者のいない、二人だけの結婚式。それでもなぜ彼が挙式をしたいと思ったのか今はわかる。なかなか素直になれない自分達が、お互いに気持ちを伝え合う時間。これからはもうすれ違わないようにする為にはきっと大事なことなのだ。


 ギルバートが身を屈める気配がする。彼が何をしようとしているのかを察して、エレオノーラは静かに目を伏せた。唇に感じる熱と共に、彼を愛しいと思う気持ちが全身を満たす。

 海から吹いてくる風に祝福されながら、二人はもう一度互いに永遠の愛を誓いあった。

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