今日はなんの日

結月 花

【白銀】あなたがいるから(露天風呂の日)

 ※白銀1、第13話〜18話時点での二人です。


―――――――――――――――――――――


 灼熱の空気と白い湯気が辺り一体に広がっている。風の中に含まれるのは、微かな硫黄の香りと金属の匂いだ。ゴツゴツとしてむき出しになった岩肌の斜面を、レティリエはゆっくりと登っていた。

 鉱山の奥に温泉があるから浸かっておいで、と言ってくれたのは、中年のドワーフ女だった。マルタという名のその女性は、かつてレティリエと縁があったドワーフ族の長老の娘だ。人間に追われる立場となった二人を匿ってくれ、その他にも色々と世話を焼いてくれる。

 これまでも集落内の風呂は借りて入らせてもらっていたが、マルタ曰く屋外で入る風呂はまた別の心地良さがあるらしい。人間に追われて身も心も傷ついた体にはきっと必要だと言うことで、レティリエも彼女の言葉に甘えることにしたのだ。


 マルタに教えられた通りに砂利道を登っていくと金属の匂いが濃くなった。と同時に、目の前に岩で仕切られた大きな湯溜まりが現れた。白い煙がもうもうと立ち込め、近くにいるだけでじっとりと汗をかく程の熱気が肌をひりつかせる。仄かに白く濁った湯面は、レティリエが知っている風呂とは全く違っていた。


(これがマルタさんが言っていた温泉と言うものよね?)


 周りの砂利は撤去され、湯を囲む岩も肌を傷つけないようにツルツルに磨き上げられている。ドワーフの職人達によって整えられたその場所は、日頃から彼らが温泉を愛用していることが見て取れた。

 キョロキョロと辺りを見回し、誰もいないことを確認するとレティリエは服を脱いだ。そのままマルタにもらった木綿の布を体に巻きつけ、ゆっくりと中に入っていく。


 全身を沈めると同時に、少し熱めのお湯が傷ついた体を柔らかく包み込んでくれた。ドワーフの集落を探している時についた細かい擦り傷が染みてピリッと痛みを感じるものの、すぐにゆるゆるとした心地良さと溶け合っていく。お湯を両手で掬いながら、レティリエはほうと息を吐いた。


(グレイルはもうここに来たことがあるのかしら)


 満点の星空の下でぼんやりと彼の顔を思い浮かべ、その想像を打ち消すかのようにふるふると頭を振る。こうやってすぐにグレイルのことを考えてしまうのは自分の悪い癖だ。どんなに恋い焦がれたって彼と結ばれる未来は無いのだから、考えても仕方のないことなのに。それでも、自分よりも深手を負っている彼には、少しでも傷を癒やす時間を作ってほしかった。

 そうやって物思いにふけっていたからだろう。背後から近づいてくる気配に、レティリエは全く気が付かなかった。


「レティ?」


 ふいに声をかけられ、レティリエは飛び上がった。跳ね上がった心臓を抑えながら振り返ると、そこにいたのは今しがた思い描いていた彼だった。ちょうど湯の中に入る所だったのか、服は身に纏っていない。湯気のせいでハッキリとは見えないものの、白い煙の隙間から見える肌の色に、レティリエの顔がカッと熱くなった。


「あっ! ご、ごめんなさい! 私、気が付かなくて」

「い、いや俺もまさかお前がいるとは思わなくて……すまん」


 レティリエが慌てて体全体を湯に埋めると、グレイルもあたふたしながら大きな岩の影に隠れる。だが、岩の上からは黒い三角の耳と尻尾がしっかりと出ていた。岩の影から見える尻尾が所在なげにゆらりと揺れる。


「あー……その、邪魔して悪かった。俺は出直すから、お前はゆっくり浸かっていてくれ」

「ううん、私こそもう出るわ! グレイルも炭鉱の手伝いで疲れているだろうし、私はもう十分入ったから」

「ああ、いや……じゃあ俺は向こうで入ってくるよ」

 

 そう言って彼が移動していく気配がする。ドキドキする気持ちを抑えながらじっとしていると、水面が微かに揺れたことで、彼が湯に浸かったことがわかった。 


「……っつ」


 背後でグレイルが微かに呻いた。人間の手によって負わされた腹の傷がまだ癒えていないのだろう。左の下腹に斜めに入る赤黒い傷跡を思い出し、レティリエは反射的に立ち上がった。だが、思わず駆け寄ろうとした所でハッとして思い止まる。


(私が行ってもだめよね……恋人でも何でもないんだもの)


 布で体を隠しているとはいえ、お互いに裸でいる以上彼の近くにいくのははばかられた。湯の中に体を沈めながら、はやる気持ちを抑えるようにして目を伏せる。

 本当は今すぐに側に寄って、彼をいたわる言葉をかけてあげたかった。でも自分にはそれができる立場にない。婚姻がほぼ決まっているレベッカならそれができたかもしれないけれど、ただの幼馴染である自分は不用意に彼に近付くことはわきまえなければならないからだ。

 そう思った途端、胸に微かな痛みを感じてレティリエはキュッと口を結んだ。鼻の奥がツンとして、視界が僅かにぼやける。


(昔は、こんなことを気にしなくても良かったのに)


 思わず涙が零れ落ちそうになるのを感じて、レティリエは慌てて顔をあげた。暗い夜空を背景に、美しい星が静かに瞬いている。昔から一切変わらぬ星空を見ながら、レティリエは所在投げに両手でお湯を掻き回した。


 子供の頃、二人はよくこうやって森の中で一緒に水浴びをしていた。マザーに怒られるのはわかっているけど、暗くなって星が空に顔を出すと、彼の隣で寝転がりながら一緒に星を数えたものだ。まだ恋なんて知らない頃は、ぴったり頭をくっつけて当たり前のように手を繋いだりもしていた。

 段々と大人になるに連れてそういうことは男女ではしていけないということがわかってきて、そして群れの中での婚姻関係が見えてきた所でレティリエは完全にグレイルの近くに行くのをやめた。朝の時間だけだからと言い訳を作って会ってはいたけれど、それももうすぐ終わりだ。今年の豊寿の祭りで彼とレベッカが正式に夫婦になったら、その時間も完全に無くなってしまう。

 そうなることはとっくに覚悟していたはずなのに――瞬きをすると同時に、レティリエの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


 ――大人になんか、なりたくなかった。


 恋人になれなくても、夫婦になれなくても、側にいさせてもらえるだけで良いのに。それでも容赦なく大人になっていく体と引き換えに、彼と過ごせる時間は刻一刻と奪われていく。

 だが、心が苦しみに囚われそうになったその時だった。静寂を破るかのように、グレイルがふっと微かに息を吐く。


「なんだか、お前とこうやって風呂に入るのも久しぶりだな。なんとなく、昔のことを思い出した」


 まるで語りかけるかのように優しい声音だった。急に話しかけられたレティリエも、こっそり両目を拭って慌てて平静を装う。


「私も今ちょうど同じことを思っていたわ。森の中に温泉は無いけれど、水浴びは一緒によくしたもの」

「ああ、温泉に入るのは初めてだが、案外気持ちが良いもんだな」

「そうね、無事に帰ることができたら、テオさんに温泉を作ってもらうようにお願いしてみても良いかもしれないわ」


 微笑みながら返すと同時に、胸が絞られたようにギュッと痛んだ。村に帰る。当たり前のように言ってしまったが、本当にそうすることが正しいのだろうか。元はと言えば、自分が拐われたことによってグレイルが深手を負わされているのだし、無事に帰ったって居場所が無いかもしれないのに。


「……私、このままここにいた方が良いのかしら」


 口に出すつもりは無かったのだが――思わず弱音が口から転がり出てしまった。ハッとして慌てて両手で口を抑えるがもう遅い。

 水面が大きく揺らぎ、グレイルが僅かに体の向きを変えたのがわかった――こちらを向いたのだろうか。だが、振り返って確かめる勇気はレティリエに無かった。湯の中でぎゅっと拳を握り、慌てて声色を取り繕う。


「あの、変な意味ではないの。ドワーフの人達も皆優しいし、それに皆とても忙しそうだもの。子供の相手くらいは私もできそうだし、何か役に立てることもあるんじゃないかなと思ったのだけれど」

「……俺は、お前が帰ってきてくれないのは、寂しいと思うよ」


 少しの沈黙の後、グレイルが静かに答える。その声色に少しばかりの寂寥感を覚えて、レティリエもそっと背後に視線をやった。途端に金色の目と視線が合い、ハッとしてお互いに前へ向き直る。心臓が大きく音を立てていた。


「寂しいって……どうして? だって私達、普段からあまり一緒にいるわけではないのに」

「確かに接してる時間は少ないが……それでも、レティと一緒にいるとなんだか心が落ち着くような気がするんだ。直接話しかけなくても、村の中でお前の姿を見かけると、なんとなく安心する」


 そこで彼は言葉を切った。沈黙の中に、彼が慎重に言葉を選んでいる気配がする。


「年齢を重ねても、立場が変わっても、なんだかお前はいつだって俺の理解者になってくれるような気がするんだ。マザーとも違うんだが……お前にはずっと近くにいてほしい、って言ったらダメか?」

「ダメ、じゃないわ……」


 答える自分の声は微かに震えていた。グレイルの言葉が湯の中に溶けて自分の体を緩やかに包み込でいく感覚がする。

 目頭に熱いものがこみ上げてきて思わず鼻をすすると、白い煙の中で彼が微かに笑ったのがわかった。


「そろそろ出るか。……のぼせてきた」


 ザバリという音と共に、彼がお湯からあがる気配がした。後ろを向こうとして、今自分たちが一糸まとわぬ姿であることを思い出し、レティリエの顔がボッと熱くなる。


「そ、そんないきなり出ないで欲しいわ! 私が見ていたらどうするの!」

「何言っているんだ? 俺達はいつもこうだっただろ?」


 笑みを含んだ声につられて振り向くと、大きな黒狼になったグレイルがニヤリと口角をあげながらこちらを見ていた。そのままぐっしょりと濡れた毛並みを乾かすかのように身を震わせると、水滴がレティリエの顔にパチパチと当たる。


「きゃあ! もう、冷たいわ。狼の姿になるのならそう言ってくれたら良いのに」

「悪い。でも、お前ならわかってくれるだろうと思って」


 口を尖らせて文句を言うと、グレイルが笑いながら返す。そのやり取りが昔の自分達と重なって、レティリエは思わずクスクスと笑った。

 あっちで待っているから、という言葉と共に木々の奥へ姿を消していく黒狼の姿を見送る。


 体と共に心の奥まで暖かくなったのを感じながら、レティリエはそっと感謝の念を送った。

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