2.走馬灯
私は下へ下へゆっくりと沈んでゆく。感覚は水の中にいるようで、意識は不思議とはっきりしていた。周りを見渡すと暗闇の中で沈む私とは反対方向に青白い泡がいくつも上っていく。泡の中で何か動いている。
よく見ると泡には小さい頃に行った家族旅行のときの様子が映っていた。たぶん初めての家族旅行だ。行先は覚えていないけど、父が運転する車の中がとにかく楽しかったのを覚えている。車窓から見えるいつもと違う景色に沸き上がったあの感情は人生で初めての旅情だったのだと思う。
泡の中の場面が変わる。今度は中学時代だ。この頃には自転車にも乗れるようになって一人で遠出するようになっていた。ある時は片道10時間くらいかけて伊勢神宮に行って、赤福氷だけ食べて帰るみたいな強行軍をしたこともあった。その頃から休みの日は何かと一人でぶらぶらしていた気がする。夏休みなんかも遊びに誘う友達がいないボッチだったので、思い立ったらふらっと家を出て、そのまま電車を乗り継いで1週間帰らなかったこともあった。
その後専門学校へ進学してもボッチは変わらず。もっと楽に移動できる乗り物が欲しくてお金を貯めて、普通自動二輪の免許取った。買ったのは維持費の安い50㏄のスクーター。排気量も小さくて、非力でちょっと急な坂道を登ろうもんならほとんど歩く速度と変わらなかった。ただ、行動距離は確実に伸びたし、何より電車の時刻表に関係なく好きな時に好きなタイミングで移動できるのがマイペースな私にあっていた。今は小さいスクーターかもしれないけれど就職したらたくさん稼いだお金で絶対大きいバイクを買う。そんな風に考えていた。
「そうだ…バイク、バイクでもっと遠くへ…」
ようやくやり残したことを思い出した。会社に入ってからそんなことすっかり忘れていた。
日々納期に追われ、徹底して無駄を省き、業務の効率化が最優先の社風。そんな社風に一日でも早くなれるため私生活を変えた。毎朝同じ時間に家を出て、同じ時間の電車に乗り、帰りは同じ道を同じ時間帯に通り、明日の朝に備えて真っ直ぐ家へ帰る。おかげで会社には1か月ぐらいで慣れた。身体はすっかり社会人モードに切り替わり、一定のリズムで動き続けた。心を置き去りにしながら。
『学生気分からいち早く抜け出すこと―』
『社会人として自覚をもって―』
社会人一年目に誰もが一度は言われる言葉。もちろん学生気分で仕事に取り組んでは周りに迷惑がかかるのは分かるし、給料をもらっている以上それに見合った成果を出さなければならないのも納得できる。そのために生活リズムや姿勢を変えるのは多少無理をすれば可能だろう。ただ、自身のタイプを変えるというのはなかなか難しい。身体が慣れたからといってタイプが同じように変わるわけではない。向き不向きを変えることなど一月やそこらでは無理なのだ。私の心は、変化のスピードに引きずられ摩耗し擦り切れてしまった。
もっと旅がしたかった。自由気ままに。時間を忘れて。行ったことの無い場所で見たことない景色を見て、食べたことないものを食べたかった。誰にも縛られず、自らの意思に従って生きる方が私には合っていた。
後悔が今になって胸の中で膨らみ始める。ずしりと重く、沈む速度を加速させる。視界が狭まって暗闇に吸い込まれそうになったその時。
「ふた…さん、双葉。寄双葉。」
誰かに名前を呼ばれた。ほのかな明るさに反応して閉じかけた目開く。眼前に小さな光が浮かんでいる。光は言葉を続ける。
「私は今、夢半ばでこの世から去ろうとしています。このままではいずれ朽ち果て消え去ることでしょう。同じ夢をもつ運命の相棒、寄双葉さん。私から最後の力を与えます。どうか目を覚まし、私を助けてください。」
目の前の光は明るさを増し、私の体に降り注ぐ。同時に沈んでいた体は上へと浮き上がる。
「もし目が覚めたら、貴女の故郷のとある店へ向かってください、そこで待っています―」
声の主の光は店の詳細を伝え消えていく。その光とは別に目の前に大きな明るい光が見える。私はそのままその光の中へ吸い込まれた。
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