2.ハンカチ




私は小走りで店を出た。

さっきの杉田くんの言葉……



-僕はあなたのこと、素直で可愛いと思います-



無邪気な顔して、口が上手いんだから。

小洒落こじゃれたお店の常套句じょうとうく。お世辞。冗談。

分かっているのに……

それでも、なんか嬉しい…

そういえば、弘樹は私のこと、どう思ってるんだろ。はっきり聞いたことないな。

成り行きで付き合いだしたから、お互いをどう思ってるかなんて改めて言うことはなかった。

こんな気持ち、いつぶりだろう。

分からないけれど、この感情だけで明日も頑張れそうな気がした。


しばらく進むと、地下鉄の看板を見つけた。長い階段を下り、改札を通る。ホームに降りると、人は遅い時間帯のせいか曇天のせいかまばらだった。

電光掲示板を見る。22:15

これに乗ろう。

ホーム柵の前に並んでいると、ふと気付く。


あっ、ハンカチ!


握り締められていたクシャクシャのハンカチは生乾きでカピカピになっていた。

ちゃんと洗って返そう……

ごめん杉田くん、でもありがとう。

よく見ると、紺の無地の端に子犬の刺繍が縫い付けられている。さっき泣いていた時には気が付かなかった。このクシャッとした表情が杉田くんに似てる気がした。


「可愛い……」


ハンカチを眺めながら、さっきのことを思い出す。







夜のビル街をただひたすらに歩いていた。

重心を前へ前へと押しやる。その度に、履いていた5、6cmのヒールがカツカツ路面に響く。

なんで、弘樹と春香ちゃんが一緒にいるの……

二人の笑っている姿がこびり付く。

なんで、どうして…

歩けば歩くほど、分からなくなる。

私は今、どこに向かって歩いてるんだろう……




私は大学卒業後、Web専門の広告代理店に入社した。弘樹とは同期で、新入生研修のグループも最初の配属先、営業部も同じだった。最初は仕事だけの相談だった。それがプライベートの話題へと広がり、付き合うのも時間の問題だった。そしてもう2年経つ。そろそろ結婚も視野に入れよう、そんな頃だった…


春香ちゃんは、最近、入ってきた契約社員の一人だ。弘樹と同じ営業部に配属された。私は1年前に制作部へ異動になったが、制作部は営業部に隣接されており、一緒に仕事をすることも多い。そのため、以前と同じように弘樹とも顔を合わせる機会はあった。ただ、どちらも多忙で、休みすらも合わない日が1年近く続いていた。それでも、たまにLINEでのやり取りはしていた。

どの部署も人手は足りなかったが、特に営業部では、結婚や妊娠、転職とその年の退職者が相次いでおり、猫の手も借りたいほどだった。


そんな時、春香ちゃんが営業部に配属された。他にも契約社員はいたが、春香ちゃんは持ち前の愛嬌と真面目さで、仕事を一早く覚え、1ヶ月経つ頃には重要な即戦力となっていた。小柄で、クリクリとした瞳に笑った時のえくぼが可愛く、他部署の男性社員からの人気も高い。そのため、いろんな人からのアプローチがあったが、次々とかわしていくため、水面下で誰が春香ちゃんを射止められるかといった社内競争にまで広がった。さすがに私も、このコミュニケーション能力の高さには驚いた…

営業部の春香ちゃんとは、仕事が一緒になり、話す機会も多かった。3ヶ月経つ頃には、すっかり打ち解けて、つい1週間前も会議室でパソコンと資料を広げながら休憩中に喋っていた。


「春香ちゃん、今日も飲みに誘われてたけど、相変わらず華麗なかわしだったね~もしかして、春香ちゃん、好きな人でもいるのかな?」


顔が赤く染まった。


「……いますよ、好きな人…」


「へ~!!その人はどんな人?」


「ん~優しくて大らかで、仕事も出来てかっこいいです。私のこと、ちゃんと見てくれます」


思い浮かべながら笑みを零す。


「そうなんだ~!その人には告白しないの?

もしかして彼女さんとかいる?」


「そうですね…既に相手の方がいるみたいです。悲しいですけど、完全に私の片想いですね」


「ん…そっか…でも、いつかその恋が成就すると良いね」


「ありがとうございます。そうだと良いんですけどね…でも、頑張ってみます!」




その時はまさか、弘樹のことだとは思わなかった。私と弘樹が付き合っていることは、社内では内緒にしていた。理由は単純に公私混同しないためだ。

でも、春香ちゃんの言葉からなんとなく分かるよね…それが誰のことなのか……鈍感過ぎて何も言えない……


春香ちゃんの仕事の指導は弘樹がしていた。この会社では、契約社員は正社員と同様に手厚く扱われる。そのため、仕事をきっちりこなしてもらうべく、その部署の社員がしばらくの間、契約社員につきっきりで教えるのだ。弘樹は春香ちゃんとペアで営業をしていた。弘樹は後輩への面倒見が良い。仕事の教え方も上手いし、合間で自分の仕事も確実にこなしてる。男女問わず気さくな感じで好かれやすいし、会社にとっての若きエースで上からの人望も熱い。まあ、好きになるのも仕方ない。

春香ちゃんの言う通り、弘樹は仕事が出来る上、誰に対しても優しく、しかも男前だ。同期で一緒に頑張ってきた仲ではあるが、今は少し、弘樹が遠くに感じている。きっとまだ、私の頑張りが足りないのだ。もっともっと頑張んなきゃ。


なのに、あんな仲睦まじい姿を見せられると……


弘樹は誰に対しても微笑んでいるが、あんな弘樹の笑顔見たことない。心から笑っている、そんな感じがした。

弘樹と春香ちゃんは手を繋いでいた。

遠目でしか見えなかったが、それは誰がどう見ても恋人同士にしか見えない。彼女は私だが、私の入る隙なんてどこにもない。

…でも、ただの見間違いかもしれない…

営業帰りなだけかもしれない…

かすかな希望に賭ける。

帰ったら、ちゃんと弘樹に確認して…

そう落ち着かせるが、そんな勇気は私にはない。

気持ちは焦るばかりだ。

前は見えてるのに、何も見えない感覚。

唯一の味方がいなくなるかもしれないという恐怖にさいなまれる……

分かってる。弘樹も春香ちゃんも良い人たちだ。

生半可な気持ちでそうなってるわけじゃない。

分かってる、分かってる、分かってるから……

分かっているのに、どうして私は分からないのよ…

自分がどんどん嫌になる…

やっぱりこのまま、うちに帰りたくない。

帰ったところで、どんな顔して弘樹を見れば良いか分からない。


そうやって、歩くうちに小洒落た居酒屋を見つけた。雰囲気が柔らかい。こじんまりとしている。

こんなとこ、初めて来た……

そもそも、こんなビル街の奥に店があること自体に驚く。

とにかく、どこでも良い。落ち着きたい。

扉の取っ手に手を掛ける。

カランコロンカランコロン


開けると、カウンターには店員らしき青年がいた。

青年は、こちらに振り向いていたが、すぐにカウンターから出てきて、柔らかい笑みで挨拶をする。


「いらっしゃいませ、カウンターにお座りになりますか?」


「…はい、お願いします」


青年は丁寧に椅子を引いてくれた。


「…ありがとう…ございます」


青年はカウンターに戻り、メニューを広げる。

飲み物のページを手で示してくれた。

居酒屋のため、当然、酒類が多い。


「お飲み物は何に致しますか?」


今日は飲みたい。

何でも良い、あの光景を忘れさせてほしい。

悩んだ挙句、


「じゃあ…ウイスキーのロックで」


「ウイスキーのロックですね。承りました」


普段は飲まないウイスキーにした。


「お待たせしました、ウイスキーのロックです」


深青色のコースターの上にウイスキーグラスが置かれた。


「…ありがとうございます」


私は一気に飲み干した。

エタノールの苦味とピリピリ感が、喉を流れていく度に増していく。だが、意外にもスッキリとした後味なので、もう一杯ほしくなった。次は炭酸割りを飲んでみたい。


「次はハイボール、下さい」


「かしこまりました」


青年はグラスを受け取り、ハイボールを作り出した。

カラッカラップツプツシュワシュワ

氷とグラスの摩擦音と炭酸の抜ける音が心地良い。


「お待たせしました」


新しいグラスに入っているハイボールをまた一気に飲み干した。ウイスキーの苦味と炭酸の爽快感がたまらない。その途端、急に感情が込み上げる。


「はぁ~…ふぇ…えん…ふぇ…」


止めたいのに止まらない…

青年は慌てて、ハンカチを渡してくれた。

ハンカチで涙を拭うが、全く意味をなさない。

乾いた紺のハンカチはびしょびしょに濡れていくばかり。ほんのひと時だけ、忘れることが出来たのに……そう簡単には忘れさせてくれないらしい……

あの鮮明な光景がいまだ、私の中に居座っている。


「ふぇっ…なんで……どうして……ひろ…き…なんで…はるかちゃんと…」


頭では分かっている…

なのに、涙は止まらない……


突然、青年がカウンターから出て入り口の方へ向かい、暖簾を中に入れ始めた。

もう閉店なのか。泣くのを止めて、そろそろ帰らないと。

青年は暖簾をどこかにしまうと、横に座ってあどけなく笑った。


「あのー、僕で良かったら、お話聞きます。全部ぶちまけて、スッキリしましょ!」


青年は明るい口調でそんなことを言った。

声が裏返ってしまったことにびっくりしてる青年の表情が可笑しくて、思わず吹き出す。

止まらなかった涙も引っ込んでしまった。


「…うふふふ、あはははは!そうですね、全部ぶちまけてスッキリしないとですね!」


青年の言う通り、こんなにモヤモヤしたままでは帰れない。誰でも良いから話したい。話を聞いてくれるんなら、聞いてもらおう。

私は青年の言葉に甘えて、ここへ来ることになったいきさつを簡単に話した。


「私…昔から上手く自分の気持ちを話せないんです。だから、家族や友人にも誤解されやすいっていうか。よく、同僚からも、鈴木さんって口調が上から目線だよね、ふてぶてしいって陰で言われてるの知ってるんです。自分は自分だって言い聞かせて、普段は気にしないようにしてるんですけど、時々ふと、素直になれない自分が嫌になります……一人だけで良い、私を理解してくれるのは。それが彼だったんですけどね。あんなに笑っている弘樹見たことない。春香ちゃんは素直で良い子だもん。弘樹が好きになるのも無理ないかなって……やっぱダメダメだな…私…」


私より幾分若いであろう、その青年は黙って私の話に耳を傾けてくれた。いきなり泣き出されて、こんなこと語られても困るよね。

もう何やってんだろ、私…


青年は、黙って何かを考えている。

そして、真剣な目つきで予想外のことを口にした。


「僕はあなたのこと、素直で可愛いと思います。表情がころころ変わるところ、素直じゃないなんて僕は思いません」


?!!


「私が…素直?可愛い?…そんなこと…初めて言われた……お世辞でも嬉しい…」


びっくりして、簡単な言葉しか出てこない。


「お世辞じゃないですよ!本当です!」


青年は一生懸命に訴える。

うふふ……面白いこと言う子……

いや、このお店の常套句なのかも!

でも…なんか嬉しい。

それに、だんだんと活力も戻っている気がした。


「も~!店員さん、口が上手いんだから~!…でも、そう言ってくれるだけで少し元気出ました。私の勘違いかもしれないし、弘樹とちゃんと話してみます」


途中で差し出されたお冷やを飲み干した。そして、バッグから財布を取り出し、千円札をカウンターに置く。

そういえば、青年の名前は…


「今日は私の話に付き合ってくれて、ありがとうございました。また来ますね、杉田くん」


青年の表情は可愛いワンコのようだった。

気分が少し晴れた私は、軽くお辞儀をして店を出た。


足取りが軽い。さっきまであんなに降りそうだった雨雲はだんだんと薄れていた。今日の予報は外れだね~♪今の天気はちょっと晴れやかな気分の私に似てる。あの杉田くんのおかげかな。やっぱり、何も知らない第三者の方が話しやすいこともあるんだ。自分の中でちょっとは整理がついた。


最近、弘樹も私も忙しくて、ろくに会話も出来ていない。同棲はしているが、今はほぼ同居みたいなもんだ。このままじゃダメだよね。ちゃんとコミュニケーション取らなくちゃ。


♪~♪~♫~♪~

電車が到着します

キューーッ ピピーッ

ドアが開きます

プシュー


車内には残業や飲み会帰りの人がパラパラといる程度だった。

私は空いていた長椅子の端に座る。

そして、子犬のハンカチをバッグに入れた。

ウイスキーのせいか、少し酔ってしまった。私は電車の走行音と車内アナウンスを聞きながら、しばらくの眠りに就く。





でも、この時の私は、何も分かっていなかったのだ……



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