出会い
1.彼女
あの日、初めて彼女に出会った…
僕は駆け出しのフリーのSE《システムエンジニア》だった。給料も安かったことから、ちょっとした高級居酒屋でバイトをしていた。とは言っても、ビル街の少し奥まった所にある、カウンターが5席と二人用テーブルが3つのこじんまりとした店だ。しかし、店長は気さくで大らかで、店員との関係も良好、店の雰囲気も懐かしみがある。客との距離も近く、お酒も料理もこの界隈で美味いという口コミが広がる。だから、常連がかなり多い。大抵は、近くの大企業のお偉いさんだ。もう働いて1年になるため、だいぶその仕事にも慣れ、お偉いさんたちともすっかり人見知りだ。客と会話をするのは楽しいが、同時にこういった酒の席で、企業の情報を耳に入れておくのもSEには欠かせない仕事の一つだ。
ある日、いつものように、カウンターで準備していた。その日は、ねずみ色の暗雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうな気持ち悪い天気だった。 もう閉店時間も近いため、客は来ないだろう。そう思っていた時だった。
カランコロンカランコロン
入り口を見ると、一人のすらっとしたパンツスーツの女性が立っていた。20代だろうか。女性もたまに来店するが、バイトを始めてからこんなに若い女性が来るのは初めてのことだった。女性は、今にも感情が
「いらっしゃいませ、カウンターにお座りになりますか?」
「…はい、お願いします」
僕はカウンターから出て、真ん中の椅子を引いた。そして彼女を腰掛けさせた。
「…ありがとう…ございます」
弱々しい口調…
彼女に一体、何があったんだろうか。
でも初対面だし、見ず知らずの店員がいきなり、どうしたんですか?って聞くのも変だよな。
そんなことを思いながら、
「お飲み物は何に致しますか?」
メニューをカウンターに広げ、ビールやハイボール、日本酒、焼酎、梅酒といったアルコールから、烏龍茶やジンジャーエール、オレンジジュースなどノンアルコールが書いてあるページを手で指し示した。
彼女は、じっくり真剣にメニューを見ている。
ゆっくり顔を上げる。瞳はパッチリしているが、今にも涙で溺れそうだ。いつもはそんな客が来ても、そっとしておくのだが、今日は何故か彼女が気になってしまう。
「じゃあ…ウイスキーのロックで」
「ウイスキーのロックですね。承りました」
僕は、早速、グラスに氷を3個入れて、ウイスキーを注いだ。
「お待たせしました、ウイスキーのロックです」
「…ありがとうございます」
そう言うと、彼女はゴクゴクと一気に飲み干した。そして、氷の入ったグラスをカウンター奥にバンッと置く。
「次はハイボール、下さい」
「かしこまりました」
グラスを受け取り、新しいグラスでハイボールを作った。
「お待たせしました」
次は奪い取るように、ぐいっと飲み干す。
「はぁ~…ふぇ…えん…ふぇ…」
と同時に泣き出てしまった。
僕は慌てて持っていたハンカチを渡した。
彼女は目頭を抑えるが、涙が止まらない。
こういう時、なんて声かけたら良いんだろ。
大丈夫ですか?っていうのはおかしい。
きっと大丈夫じゃないから泣いてるんだよな。
上手い言葉が見つからない。
すると、女性は途切れ途切れに口を開く。
「ふぇっ…なんで……どうして……ひろ…き…なんで…はるかちゃんと…」
彼女の言葉を聞いて、なんとなく察した。
ただ、察したところで何が出来るわけでもない。
でも、このまま泣いている彼女を家には帰したくない。何か僕に出来ることはないのか。
ただの店員と客でしかないのに、どうしてそんなことを思うのだろう。自分の思考に疑問に持ちながらも、ぐるぐると考えを巡らせる。
そして、一つの結論に辿り着いた。
客は彼女の他に誰もいない。もう、人通りも少ないし、もう閉店時間だ。しかも、今日は店長も不在だ。この空間には彼女と僕の二人だけ。
意を決してカウンターを出た。入り口の
「あのー、僕で良かったら、お話聞きます。全部ぶちまけて、スッキリしましょ!」
こういう時って、とにかく吐き出した方が良い!
そう思ったのだが……
急に声が裏返ってしまった!
普段、あまり緊張しないのに…
彼女はびっくりして顔を上げる。
「…うふふふ、あはははは!そうですね、全部ぶちまけてスッキリしないとですね!」
彼女の澄んだ声が高らかに笑う。
涙で濡れた笑顔だったが、僕には何故か美しく見えた。
やっと笑いが落ち着いた彼女は、何があったのかゆっくり話してくれた。
聞けば、彼氏が同僚と仲良さそうに歩いているのを仕事帰りに見てしまったという。ショックでそのまま家に帰れず、歩いていたら、ここを見つけたらしい。
「私…昔から上手く自分の気持ちを話せないんです。だから、家族や友人にも誤解されやすいっていうか。よく、同僚からも、鈴木さんって口調が上から目線だよね、ふてぶてしいって陰で言われてるの知ってるんです。自分は自分だって言い聞かせて、普段は気にしないようにしてるんですけど、時々ふと、素直になれない自分が嫌になります……一人だけで良い、私を理解してくれるのは。それが彼だったんですけどね。あんなに笑っている
僕は黙って、彼女の話を聞いていた。
なんだろう、胸の内から込み上げるこの感情は…
彼女は自分のことダメだって言ってるけど、僕にはそう思えなかった。初めてだし、分からないことも多いけど、彼女が素直じゃないっていうのは違うと思う。
素直な感情を簡単には外に出さないことが彼女にとっての鎧なんだ。彼女は憂鬱な表情や泣いたり笑ったり出来る豊かな感情を持っている。素直じゃないなんて嘘だ。彼女はきっと、心から人に甘えられないんだろう。だから、一人で塞ぎ込んでしまうのだ……だから、彼女を包み込んであげる存在が必要なんじゃないか。
周りの人間はそのことに気付いていないのか、気付こうともしないのか、僕には不思議でたまらない。
彼女の家族も友人も、同僚も弘樹っていう彼氏も春香って女のこともよく知らない。
だけど、彼女のことを誰もよく見ていないことだけは確かだ。
僕は彼女のことを何も知らない。
けど、僕だったら、こんなに素直で可愛い彼女を孤独になんてしない。悲しませるようなこともしない。ただただ無償に甘やかしたい……
「僕はあなたのこと、素直で可愛いと思います。表情がころころ変わるところ、素直じゃないなんて僕は思いません」
彼女は顔をぽっと赤くし、顔を覆う。
「私が…素直?可愛い?…そんなこと…初めて言われた……お世辞でも嬉しい…」
「お世辞じゃないですよ!本当です!」
「も~!店員さん、口が上手いんだから~!…でも、そう言ってくれるだけで少し元気出ました。私の勘違いかもしれないし、弘樹とちゃんと話してみます」
彼女はお酒のおかげか話したおかげか、さっきより前向きに元気になっている気がした。
口が上手いって、本当にそう思ってるんだけど…
って、さっきから、僕、彼女に対して何思ってるんだ。いつもと違って、凄い向きになっている自分に
彼女はくいっと冷やを飲み干した。そして、ココア色の革バッグから深緑の長財布を取り出した。お札をカウンターに置いて、僕の名札を見てからにっこり微笑む。
「今日は私の話に付き合ってくれて、ありがとうございました。また来ますね、杉田くん」
その顔は、さっきの無理した笑顔ではないスッキリとした笑顔だった。
彼女の笑顔に思わず、ドキッとする。
心臓の鼓動もうるさい。
彼女は軽くお辞儀をして小走りで去っていった。
僕は、しばらく彼女の華奢な後ろ姿を見つめていた。
それから後片付けをして、店を閉めた。
帰り、車を運転しながら、ボーッと今日の出来事を振り返っていた。彼女と話したのは、たったの30分。なのに、なんでこんなに感情に揺さぶられるんだ……いつもと違う自分に戸惑いを隠せない。
フロントガラスから見えるねずみ色の雲は、相変わらず暗闇の空を漂う。ただ、雨は降らなかった。代わりに雲は薄まり、星々が薄ら見え隠れする。それがなんとなく今日会った彼女に似ている気がした。
帰ってからも、ずっと彼女のことが離れない。
まだ、モヤモヤする……それにドクドクと心臓の鼓動もうるさい。身体の奥がザワザワする。
彼女がちょっとでも元気になったことは嬉しい。だけど、彼女が彼氏と上手くいくことを素直に喜ぶことが出来ない、むしろ上手くいってほしくない。でも、それだと彼女、また悲しむんだよな…彼女には笑顔でいてほしい……
一体、どうしたいんだよ、僕は…
いや、僕はただの店員だ……彼女は客だし、その関係でしかない。…それなのに……なんなんだ、このモヤモヤは。さっきから、胸の辺りのモヤモヤが止まらない。彼女とは今日が初めてなのに……今日、初めて会った彼女のことがまだ忘れられない。
彼女のことを考えるだけで、身体がジーンと温かい。
彼女は、またここへ来るって……
彼女に会える…例え、相手がいたとしても……
彼女の可愛くて素直な笑顔が見られるなら、あの柔らかく甘い香りを感じられるなら、何だって良い…
そこでようやく気が付いた。
そうか……
つまり、このモヤモヤは…
-彼女に惚れたってことか-
今までも彼女はいたことはあるが、こんなに恋い焦がれて苦しかったことはない。
今日、初めて会った彼女に恋をした。名前も知らない彼女。しかも相手がいる…
それでも、この気持ちは止められない。
いつまでも、彼女の表情や声、仕草、姿全てが脳裏に
彼女はいつ来てくれるだろうか
あの笑顔をまた僕に見せてくれるだろうか
彼女はまた必ず来る、そう信じながら、日々過ごしていた。彼女への恋は日々募るばかりだ。
しかし、あの日以来、彼女がここへ来ることはなかった……
バイトを辞めたこともあり、彼女に会える機会も失った。
そうして、3年の月日が経った。
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