第8話「芒の丘で」

「……母さんが死んだあの日から、よく迎えに行っていた芒の丘で僕は何度も帰りを待っていたんだ。……しばらくして母さんが本当に帰ってこなくなったのだと知ると、僕は閉鎖的になった家の中にいるのが嫌になり、人との関わりに飢えていったんだ。そして悠人という昔ながらの親友に支えられ、以前のような一人ではない楽しい日常を取り戻すことができた。でも、何かが足りないと感じる違和感……。悠人とその友人達と公園で遊んだ帰り道、悠人達は迎えに来た母親や姉と仲良く話をして帰宅していった。それを見て、違和感の正体はすぐに分かった。誰も迎えに来ない僕には無償で自分を受け入れてくれる女性がいないということにね」

夕陽が沈み、月明かりが芒の原っぱを明るく照らす。

僕は話を続けた。

「次に……僕は自分を無償で受け入れてくれる女性に飢えていった。でも、それは簡単な話じゃない。他人の家の母親は大人として僕に優しくしてくれたけど、あくまで僕は他人の家の子。無償で受け入れてくれるわけがなかった。……中学に上がり、それなりに話せる女子の友達も何人かできるようになった。でも、僕が求めているのはそういう女性じゃなかった。諦めきれず、無償で受け入れてくれる女性を求めた僕は先輩の女子に告白して断られると、また別の先輩の女子に告白する繰り返しを何度もすることにした。でも、それが繰り返される度に周囲からの目線は冷たくなっていった。そして僕は気付いたんだ。この世界で僕を無償で受け入れてくれて、甘えられる女性なんて、もうどこにもいないのだということに。僕はそんな人など夢物語だったのだと諦めて、高校への受験勉強に専念するようになった」

「受験は辛かった?」

「うん、まあね。でも、それ以上に辛かったのが、中学生活の残りの何もない時間だったよ。そして、それが終わった4月1日の朝、成長した姿の君が洗面所の鏡に現れた」

「……」

「幽霊とかを見たことがなかった僕は最初、恐怖で震えたよ。最初の数日間は怖くて洗面所に近づけなかったほどにね。でも、ルコの姿が何もしてこないのを知ると、今まで溜め込んでいた鬱憤を罵声にしてぶつけてみたり、性処理の吐口にしたり……。それをほぼ毎日やるほど、僕は君の姿に依存していったんだ」

「それは何故?」

「何をやっても無反応だったルコの姿に、僕が今まで求めてきた理想があったからさ。無償で僕を受け入れてくれる女性としてね。……そして僕は何度もルコの姿にストレスをぶつけて甘えたよ。そうやって甘えていくうちに、僕は成長した君の姿が一人の女性としてとても魅力があるということに気が付いたんだ」

「……え?今何て?」

周囲の景色が芒の丘から暗い部屋に変わると、僕は目の前の少女を見る。

「ルコ……僕は君のことが好きになってしまった。だから、僕は君の幻影にしたことを謝ったんだ。皮肉なことだということは分かっているよ。でも、ここではっきりと言うべきだと思った」

それを言い終え、僕は体が少し軽くなったのを感じる。緊張感も程よく消えていた。

大きな目でルコは僕をじっと見つめる。

「健太郎は—————」

少し言葉に迷っている素振りを見せてからルコは言った。

「—————私と同じだったんだね」

何もない数秒間が経過する。

 彼女のその言葉が、僕の心臓の鼓動を喉の奥まで突き上げさせた。「え?」と、思わず声に出してしまうほどに。

 「健太郎は病気で死んだパパによく似ていたの。だから私は無抵抗なあなたに甘えたくて沢山酷いことをしちゃったんだ……。何だか、健太郎は凄く変わったね。昔の健太郎ならとっくに話し合うのを諦めて逃げていたはずなのに」

 「そりゃそうさ。無抵抗のままじゃ誰も助けられないよ。僕は悠人に憧れてあれから6年も現実で時間を過ごしたんだ。変われるチャンスなんて日常に腐るほどあったよ。それと……ルコのお父さんは霊界にはいないの?」

 「とっくの昔に生まれ変わって、今はアフリカのサバンナで象として生きているんだって。あまり覚えていないけど、不思議と夢の中では一緒にいてくれている気がするの。……健太郎はもし、私が象に生まれ変わったパパと再会できたとしたら、パパは私が分かると思う?」

 「分かるに決まっているじゃないか。象は頭がいいし、何より君の父親なのだから……」

 「そう……」ルコは再び言葉に迷う様子を見せる。「……健太郎。私はあなたに話したいことを小説にしてみたの。読んでみてくれる?」

 「小説か。是非とも読んでみたい。でも、その前に僕から一つお願いがあるんだ」

 「何?」

 「ルコ、長い間僕は無償で自分を受け入れてくれる女性を求めているうちに、君が何者なのかがほとんど思い出せなくなっちゃったんだ。まずは……僕に苗字と名前を教えていただけませんか?」

 「鏡(かがみ)瑠子(ルコ)。それが私の名前」

 数十ページにも及ぶ小説が彼女の両手の掌の上に魔法のように現れた。原稿用紙の最初の一行目には【鏡の中の瑠子】という題名が書かれてある。

 「これにはどういう意味が?」と、僕は題名の意味を尋ねた。

 「……自分の中の本当の自分」

 「うん。とても素敵な題名だ」

 僕は彼女が書き上げた小説をある程度まで読んでいく。やはり小学4年の時に死んでしまったせいでそれ以降の学びはしていないらしい。誤字脱字や話の矛盾点が多く見られた。「どれどれ、せっかくだから一緒に最高の小説に仕上げようよ。これは君にとっても僕にとっても、かけがえのない生きた証になるはずだから」

 「うん……そうだよね」

 僕は彼女と二人で話し合いながら小説の靄(もや)のかかった内容をはっきりとさせていく。

やがて明確になった小説の冒頭。薄暗い汚れた部屋で赤ん坊が産声を上げて登場し、一人の少女の物語は始まった。

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