第7話「謝るということ」

「最後の隠れん坊のあの日、ルコは包丁を手に持って、僕を殺そうとしていたよね?フェイスタオルに包んでいたのがバレバレだった。……何で殺そうとしたんだよ?」

 「じゃあ、健太郎はどうして休日にパンケーキを食べるの?」

 急に突拍子もない質問をされ、僕は少し言葉に迷う。「えーっと……美味しいから?」

 「それと同じ。私も殺したかったから健太郎を殺そうとした。ずっと前から抱いていた欲求だった」

 「でも、僕の母さんに見つかってしまった」

 「あの時は本当に焦った。私は包丁で抵抗してみたけど、大人の怪力には勝てなかった」

 「僕にとって……本当に衝撃の事実だ。どおりであの事件の後、母さんは情緒不安定になって……首を吊ったわけだ。そうか、あの人は刑事である前に……僕の母親だったんだ。息子を守るためなら誰でも殺してしまうほどの愛を持った僕の母親だったんだ。そして刑事としての知識を悪用して証拠隠滅ができた。でも、それと同時に……あの人は正義感溢れる一人の刑事でもあった。だからルコを殺した罪悪感で自分の手に手錠をかけて……首を吊ったんだ……」

 「意外と対応が冷静だね。てっきり私は健太郎に殴られるかと思った」

「母さんがシロナガスクジラに生まれ変わって今も元気でやっているって聞いてから、何だか凄く複雑な心境なんだよ。勿論君が母さんを殺したも同然だから、僕は怒っていることには変わりないよ。……冷静になって考えてみればさ、自分の息子を守るためなら危険な子供は殺す。それが親だから。……では、ルコがいつも僕に向かって虫を投げつけて虐めていたのは、僕を殺そうとしたのと同じ理由なのかい?」

 「そうだよ」

 「はっきり言って異常だ」

 「……みんな……私をそう言うんだ。健太郎も私を異常者扱いするなら帰ってよ」

 「帰らないよ。ちなみに僕はこう見えてルコの本音を聞きたいと昔から望んでいたんだ。まさかそれが叶ったのが、君が死んでからだとはね。でも、僕にはまだまだ疑問があるんだよね」

 僕はルコの抵抗を振り切って彼女の腕を掴んでよく見てみる。

 「随分と古い痣だね。それもいっぱいある」

 「触るな!」

 ルコは初めて声を荒げて僕の手を振り払った。

 「『殺したかったから殺そうとした』だって?格好付けやがって。ルコ、君はどこまでも嘘を吐き続けて何を守ろうとしているんだよ?」

 「は?こんな私に真剣に寄り添ってくるとか本当に気持ち悪いんですけど。どこまでお人好しなの?」

 「どこまでもね。あの頃だって何度君に虐められても毎日遊びに誘っていただろ?さて、君がそこまで壊れてしまったきっかけを僕に聞かせてくれるかい?勿論、それ以外の沢山のことも教えてほしいんだ。何故なら小さい頃からずっと抱いてきた疑問だったからね。でも、その前に—————」

 ルコは家での幻影が見せたキョトンとした顔で、僕が少し言葉に迷っているのを見る。

 「……ルコ。その前に……僕は君に謝りたいことが沢山ある。聞いてくれるかい?」

 彼女は虚をつかれたような顔をするのを見た僕は一旦深呼吸をした。いざ謝る選択を取るとなれば本当に勇気がいる。それは切り立った崖から飛び降りる勇気にも等しいかもしれない。半端な気持ちならずっとここで黙り続けることだってできてしまいそうだ。

 僕は喉に詰まった異物を吐き出すように思い切って話し始める。

 「まず、ルコが思っているほど僕はいい人じゃないんだ。……僕がしばらくの間、怪物に鏡に映ったルコの幻影を見せられていたのは知っている?」

 ルコは頷く。

 「その時僕は本当に最低な男だったんだ。ルコの幻影が鏡の中でただ歩き回っては興味津々に見つめてくることをいいことに、機嫌が悪い時は何度も汚い罵声を浴びせて八つ当たりをしちゃっていた。少しでも嫌なことがあれば毎日のようにね。本当に自分勝手だった。……ごめん」

 彼女は瞬きせず僕を見つめている。

「それに、もっと酷いこともやっていたんだ。あの……その……鏡に映されていたルコは間近で見ることができた数少ない女の子だった……だから、何度もルコの幻影を見て、その……男の子の行為をしていたよ。それも思春期真っ盛りの激しいやつを。そして幻影が映っている鏡に向けて出なくなるまで……飛ばしていた。少なくともほぼ毎日それをやっていたかもしれない。僕は本当に気色悪い最低な男だった……ごめん」

 ルコは少女としての顔を酷くしかめた。僕がある程度覚悟していたことだ。

 もう一度深呼吸をし、僕は次の謝罪を話し始める。

 「それと……家の中だけじゃない。学校では友人達が小学校時代の思い出話をして盛り上がっていることが毎日のようにある。僕はルコの幻影が見えるようになった頃を皮切りに……何度もルコの人柄を異常者としてネタにしちゃっていたんだ。どうしてそんなことをやっていたのか自分でも分からなかったけど、今なら分かる。その時の僕は話を盛り上げたかったんじゃない……出来るだけ多くの人達に僕の怒りを共感させてルコへの悪口を言って欲しかっただけだったって……。そうなれば人生で一番嫌いだった人が鏡に映っていても辛くならないと思っていたんだ……ごめんなさい……」

 いつの間にか、我が子を慰める母親のような目でルコは僕を見つめていた。こんな表情の彼女を見るのは生まれて初めてだったし、ルコではなく少し似ているだけの別人なのではないかとすら感じていた。きっと彼女は歪んだ感情で溢れていて、身体中に訳ありの痕があって、世の中の全てを恨んでいるだけの、一人の女の子だったのかもしれない。

 僕はいつの間にか(涙は流していないものの)ほんのわずかな嗚咽を繰り返していた。

 「ごめん。ルコ。僕は君に虐められて当然の人間だったんだ。もう何をぶつけたって—————」

 「何でそこまで謝るの?」

 「え?」

 今度は僕がキョトンとした顔でルコを見つめた。

「今健太郎が謝ったことは、私じゃなくて幻影に向けてやったことでしょ?」

 「でも、僕はその幻影を本物のルコだと思ってそれらをやってしまっていた。多分、本物のルコの霊が鏡に現れても結果は同じだったよ」

 「……そう。でも、そこまでさせちゃったのは私のせいでしょ?」

 「それは……全部含めて僕の性格だよ」

 急に映画のシーンが切り替わったように僕とルコの間で沈黙が続いた。それもかなり長く。

 やがてルコはゆっくりと口を開く。「それは自分に対して厳しすぎなんじゃない?……」

「……悠人が言っていたよ。鏡に潜んでいた怪物は人間の後悔や後ろめたい気持ちを好むんだってさ。そう考えれば僕が怪物に幻影を見せられたのは当然の話なんだ。本当なら……僕は鏡に映った君の幻影を、君が生きている内にちゃんと話ができなかったことへの罰として受け入れるべきだったと思う。だから……僕がやってしまったことは全部含めて僕自身の性格なんだ」

 「……そうなの?健太郎」

「うん。別に複雑に考える必要はないんだ。それ以上でもそれ以下でもない、ただそれだけのことだと思う」

「謝りたかった理由は本当にそれだけ?」

再び僕とルコの間で沈黙が続いた。それももっと長く、もっと重く、もっと静寂に。

ルコの言う通り、僕はまだ全ての理由を言い終わっていない。ここでしか言えない。言うことの恐怖も常に纏わりついている。しかし、ここで言わなかったら一生後悔する。

「ルコの言う通り、謝りたかったのはそれだけじゃないよ……」

僕は腹を括り、喉を震わせながらもう一つの理由を話し始めた。

「僕が謝りたかったもう一つの理由は—————」

途中で言葉が詰まってしまったため、もう一度繰り返してから言った。「僕の母さんが自殺したことから始まったんだ……」

僕がそれを話し始めた瞬間、暗い部屋は夕日が沈む芒(すすき)の丘と化した。

一体何の話が始まるのか分かるはずもないルコは周囲の景色を見渡し、首を傾げ、怪訝そうな顔をする。

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