第5話「レイカイ」
ざばざばと絶え間なく響き渡る無数の波の音が常に耳を刺激していた。
僕は海面から射す日の光を見つめながら海の中を漂っている。これは夢だ。いつも僕が眠った時に見て、いつも忘れる夢だ。
やがて深い場所から大きな鯨が浮かんできた。種類は分からなければ性別も分からないし、それが大人なのか子供なのか、僕には判別できなかった。
鯨は僕と遊びたがっているみたいだった。
僕は鯨がどうしても追いかけっこをして遊びたいのだと直感で知ると、泳いで逃げていく鯨を追いかけた。夢の中なので、僕は勢いよく泳ぎのスピードを速めて鯨に追い付く。鯨は嬉しそうに僕に捕まえられ、今度は僕にじゃれついてくる。かなりの巨体だったので僕からすればじゃれつかれている気はしなかったが、不思議と心地よさを感じた。
……突然、僕の周りを大量の泡が覆い始め、僕を包み込んでいく。
鯨は悲しそうに僕を見つめていた。
そうか。今回は早くに目を覚ます時間が来てしまったみたいだ。でも、きっとまた会える。だから悲しまないで……。
鈍い車輪の音が響く中、僕は列車の中で目を覚ます。
「おはよう」
僕の隣に座っていた悠人はそう言った。
自分達以外誰も乗っていない車内を僕は見渡した。座席も手摺(す)りも車内案内表示装置もどれも真新しいものに見える。窓の向こうの景色には薄暗い壁が広がっている。おそらく地下鉄なのだろう。
「なんだ……僕はてっきり悠人に殺されたのかと思ったよ。これは何線?」
「何線でもない。唯一霊界に繋がる秘密の列車だよ」
「やっぱり僕は殺されたんだ。ということは母さんとも感動の再会か」
「それについて、健太郎に謝りたいことがある」と、思い詰めたように口を開く悠人。「霊的なパワーを持たない健太郎をこの場所に入れるには一旦気を失わせるしか方法がなかったんだ。出る分にはその必要はないのだけどね」
「そういうことなら僕は構わないよ。それに、悠人はあの怪物だって退治してくれたんだ。僕は今の悠人を信じることにしたよ」
電車が【蛇雪(へびゆき)】という駅に停車し、ドアが開く。
「で、悠人。これから行く霊界ってどんな場所なの?」
「それぞれの駅に一つずつ広がっているイメージの世界だね。物理法則がめちゃくちゃな場所だから正確に認識することができないぞ」
「じゃあ、この【蛇雪】っていう駅も霊界に繋がっているの?」
「ああ。でも、この【蛇雪】にはルコはいない。一つの駅につき、住める幽霊は一人までと決まっているんだ。俺達はルコが住んでいる【烏火(からすび)】まで向かわなければならないんだ」
誰も乗車しないままドアは閉まり、列車は発車する。
悠人は何か言い忘れているのを思い出すと、それについて話し始めた。「そうだ。健太郎のお母さんのことだけどさ……霊界に住み続けることを嫌がってすぐに生まれ変わる道を選んだってよ」
「え?……じゃあ、母さんは何に生まれ変わったの?」
「シロナガスクジラ。今でも元気にやっているらしい」
「へ?」
悠人の意外すぎる回答に僕は喜べばいいのか絶句すればいいのか分からなくなった。
「えっと……鯨って確か頭がいいんだよね?……その……生まれ変わった母さんは僕が分かるかな?」
「広い地球上で仮に会えたとしてもお前が分からないはずだ。記憶がリセットされているわけだから、癖や性格が同じだけのただの鯨。しかし、ごく稀に赤子の状態で生前の記憶を受け継いでいることがある。—————でもそのほとんどは成長に伴って記憶の維持ができないな。ま、期待しないことだな」
「なるほど……素直に諦めるよ」
沢山の楽しい思い出を残してこの世を去り、最後に悲しい思い出を残したあの母さんが、今では僕のことなんかすっかり忘れて、地球上の海のどこかで呑気にオキアミを食べているのだ。
電車が【蜘蛛天(くもてん)】という駅に停車し、ドアが開く。
母さんの生まれ変わりの話のインパクトが強く、複雑な気持ちになった僕は話を切り替えた。
「こうやって話すのは久しぶりだね。昔、よく裏山で遊んだのは覚えている?」
「あぁ、覚えているぞ。健太郎がよくバッタにビビっていたあの場所だろ?」
「あぁ、そんなこともあったような気がするな」
「それで思い出したけど、健太郎はカブトムシですら苦手だったよな」
「うん。虫は全て苦手なんだ」
「夏休みの夜にカブトムシやクワガタを捕まえに行こうって誘っても来てくれなかった件に関しては寂しかったぞ?」
「ごめん。あれからカブトムシだけは好きになろうとする努力はしたけど、どうも難しくてね……」
「まあ、仕方がないさ。誰にだって苦手なものはある。俺も蛙だけはどうしても好きになれなかったな」
「そうだったんだ」
誰も乗車しないままドアは閉まり、列車は発車する。
ふと僕は、悠人とその友人達の仲間に入れてもらい、町の裏山で泥警やサッカーをして遊んだことや、バッタやトンボが体にぶつかた拍子に驚いて悲鳴を上げてしまい、悠人とその友人達に面白がってもらったことなどを思い出した。あれから時間が経って高校生になってしまったけど、また同じように遊びたいな。
「健太郎、次の駅で降りるぞ」
「え?」
悠人は車内案内表示装置に表示された【烏火】という次の駅名を指差す。「あそこで降りれば、健太郎はルコに会える」
「つまり、本物のルコの幽霊がいるってことだよね?」
「その通りだ」
しばらくして電車はゆっくりとブレーキの音を上げながら烏火に到着し、僕と悠人は黄色いタイルの地下鉄の様なホームに降りる。やはり誰もいないようだった。
「ここから先は健太郎一人で行け。その方が健太郎にとってもルコにとっても良さそうだからな。あと、これを」
悠人は僕にカードを2枚手渡した。真っ黒で何も書かれていないプラスチックの硬いカードだった。
「えっと、このカードは?」
「それは現実世界に戻るためのパス。霊界に行くにはチケットも金も何もいらないけど、帰りはパスがないと帰れない。絶対に失くすなよ」
何故悠人がそんなパスを2枚も渡してくれたのかを僕は何となく理解すると、そっと頷く。「ありがとう。じゃあ、僕はルコに会いに行ってくるよ」
「あぁ、ルコのいる霊界は駅の出口を出たら広がっている。健闘を祈るぞ」
「うん」
僕は出口へと続く長い通路の中を走って行った。
『健闘を祈る』悠人が言ったその言葉の意味を後に理解した僕は、とある一つの選択を迫られることになる。
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