第5話 誇り高き戦士
戴冠式の、さらに三ヶ月ほど前のことである。白蓮とは雪原と険しい山々で隔たれた隣国にて、奴隷による逃亡、反乱行為が相次いで起こった。
金髪金眼の種族が支配層を占める、排他的なその大国の名はディアベルナというが、他国からは専ら「黒の国」と呼ばれている。
黒の国。
その名は、この地に起源を持つ人間の身体的特徴、即ち頭部から生える黒曜石のような黒い角に由来する。人口、国土面積は共に7色の国の中で圧倒的に大きい。その広い国土は遥か昔の侵略と排除の歴史の上に成り立ち、黒の国の発展には奴隷が深く関わっていた。
さて、奴隷の反乱であるが、反乱自体は大規模であったものの、黒の騎士団によってただちに制圧された。捕らえられ、尋問された逃亡奴隷たちは、その先導者として口々に1人の白蓮人奴隷の名を明かしたという。
その男は、主人に従順で目立たない、いたって平凡な奴隷であった。貧しい農家が白蓮の厳しい冬を越すことが出来ず、比較的温暖な他国に身売りをするということはそう珍しいことではない。その白蓮人奴隷もそのような生い立ちであった。
そのはずであった。
「我は誇り高き白蓮の戦士、
四肢を拘束され、率いていた逃亡奴隷らの前に引き摺り出された男は、そう叫んだ。指を落とされようと叫んだ。眼をくり抜かれようと叫んだ。自らを抑え込む黒の騎士の手首を噛みちぎり、喉から血を噴きながら声を張り上げた。
「聞け! これは宣戦布告である! 繰り返す、これは宣戦布告である! 黒き豚共よ、震えて眠るがいい! 今に我ら白蓮の勇壮なる戦士が貴様らの首を……」
男の言葉が聞き届けられることはなく、彼の首は落とされた。広場の床を染める血飛沫と、それを覆い隠さんとする砂埃の中で、彼の首は真っ直ぐ白蓮の方角を見据えていた。
◯
白蓮人奴隷、嶺霰の口から語られた「宣戦布告」という言葉は、黒の国中を震撼させた。
それも当然のことであろう。国家間の戦争は、はるか昔の大戦以降、三百年もの間、一度も起こっていないのだ。
黒の国を統べる女王、シュバルツは前代未聞の事態に狼狽えながらも、すぐさま国の要人たちを招集し、白蓮出陣に向けての準備に取り掛かった。招集された大臣や貴族の中にも動揺を隠しきれない者が少なくはなかった。
その中で1人、騎士団長のルークだけが、落ち着いた様子で笑みを浮かべていた。
「何を心配することがありましょうか。我が騎士団にお任せを、直ちに精鋭部隊を白の国へ向かわせ、我が国の平和を脅かす白蓮の民を制圧して見せましょう」
ルークは円卓の上で両手を組み、微笑んだ。
「しかし、ルーク卿。相手は魔獣ではなく人間だ。白蓮との国交を全て切り捨て、白蓮の友好国も敵に回す可能性すらある。国境付近の魔獣も増加しているうえ、奴隷らの反乱で国内が混乱していると言うのに、いたずらに国の兵力を使うというのは……」
大臣が、訝しげにルークを見つめる。
ルークは笑顔を崩さずに大臣の問いに答えた。
「はは、何をおっしゃいます。吹っ掛けてきたのは向こうでしょう。制圧すれば周辺諸国に対する警鐘になります。遠征にはクーゲル卿の隊に向かわせましょう。魔獣相手ではともかく、人間に躊躇なく剣を抜けるという点では適任です」
「ふざけるのもいい加減にしろ。我が国と白の国の間には、魔獣がどれだけいると思っている。その程度の兵では白の国にたどり着けるかも危ういだろう」
「嫌だなあ、そんな怖い顔をなさらないでくださいよ、大臣。この僕が対策を考えていないわけがないではありませんか」
ルークは席を立ち、まるで子猫を呼ぶかのように、背後に向かって2、3度手を鳴らした。
「おいで」
皆がルークの後ろへと目を向けると、扉が開く音と共に、車椅子に乗せられた青年が部屋に入ってきた。青年はこの場にいる人間、いや、この世界に存在する人間の誰にも似つかぬ姿をしていた。
青年の長い睫毛から覗く瞳は、金や赤、青、緑などの色彩を持たず、真っ黒であった。さらに、彼の肩にかかるほどの長さの髪もまた黒かった。
また、青年の額には焼き印で付けられたような、ひし形の文様が刻まれていた。
「先の反乱を受け、下層市街に住む奴隷や混血を粛清した際に、私の部下が見つけてきた青年です」
ルークは青年の黒く艶々した髪のかかる肩に手を置き、円卓に向き直った。
「彼には特別な力があるのです。我が国の行く末を大きく変えてしまうほどの」
ルークはそう言うと、青年の頬に手を添えて顔を上げさせた。
青年は抵抗することなく顔を上げ、吸い込まれるような黒い瞳で円卓に座る面々を見つめた。
そして、青年は微笑み、口を開いた。
「私の名前はゾフ。混血であることを理由に下層へ捨てられた哀れな物乞いです」
言葉とは裏腹に、青年が周りに示す態度は余裕があり、穏やかな表情を浮かべていた。
「ゾフとやら、貴様がもつ特別な力とは何だ」
大臣は青年を不気味に思いながら、言葉を投げかけた。
ゾフは微笑んだまま、また口を開いた。
「私は、魔獣を操ることができます」
青年の言葉を聞いて、円卓に座る者たちはどよめいた。
もし、それが真実であるならば。
この青年が、一頭で小さな村をひとつ、瞬く間に壊滅させる「魔獣」を操ることができるならば、黒の国は計り知れないほど強大な兵器を手にしたということになる。
「彼の力は本物ですよ。私が保証します」
ルークはさらに笑みを深め、大臣の側へ近づくと、耳元に口を寄せ、囁いた。
「疑っておられるのなら、後で僕の城を見てみれば良い。物見塔で彼の友人が大きな翼を広げて羽を休めていますから」
「……分かった。卿を信じよう」
大臣はごくりと喉を鳴らすと、椅子に深く座り直し、ゾフに視線を向けた。
ゾフは、ルークに言いつけられているのか、一言も発さずただ静かに車椅子に身を委ねていた。
◯
崖を覗き込み、水柱が上がるのを確認すると、騎士は舌打ちをして踵を返した。
「クーゲル卿、ご無事ですか! 自分の隊員が凍っていたのですが、一体何があったんです」
「冬将軍と交戦した。きちんと部下は教育しておけ、ラーベ。あれでよく対人の訓練を積んだと宣うものだ」
森の奥から、息を弾ませて駆け寄る部下に、騎士は無愛想に言い放った。クーゲル卿と呼ばれたその騎士は、整髪剤で固く撫でつけられた頭から垂れる癖毛を指に巻き付けながら、不愉快そうに溜息をもらす。
「その冬将軍は王と共に滝壺に真っ逆さまだがな。生け捕りは絶望的か……」
クーゲルは谷底に目をやりながら、眉間に皺を寄せた。
「お言葉ですが、クーゲル卿。女王陛下から生け捕りの命令は出ていないと思いますので……白の国を落とした証明でしたら首を持ち帰れば良いのでは」
若い騎士は谷底を一瞥しながら、でも深そうですね、と呟いた。
「いいや、女王の命令ではない、ルーク卿から個人的に依頼されたのだ。これは面倒なことになった」
クーゲルは部下の肩に手を置き、マントを翻して歩き出した。
2人は雑木林の中に立てられた野営のテントへと足を進めた。クーゲルよりもいくらか体格が大きく若い彼の部下は、クーゲルの半歩後ろをやや早足で着いていった。
ブーツに滲み込んだ血糊が、真白な林道に赤い足跡となって、部下の騎士が歩いた後を追うように残った。
「それにしても、我らが騎士団長、ルーク卿は流石ですね。我が国のことを一番に考えていらっしゃる。王家と対立しがちな公爵家の長男でいらっしゃるというのに、驕らず、真摯に王家のために我々を導かれているんですから」
若い騎士は鼻の先を赤くし、白い息を吐きながら誇らしげに歩みを進めている。
「ふん、何もかも、王家に取り入るためのパフォーマンスだろう。この侵攻も、きっと他の国に何かしらの因縁をつけてやるつもりだったに違いないさ。因縁が向こうから来てくれたものだから内心大喜びだろうよ」
クーゲルは後ろの部下に一瞥もくれずに低い声で言った。
「なんでそんな捻くれた見方しかできないんですか。ルーク卿はいい人ですよ。俺たちみたいな下っ端騎士の名前もちゃんと覚えてくださるし、激励の言葉もかけてくださります。この戦いも我が国を守るための誇り高き戦いです。クーゲル卿、あなたこそ、よくルーク卿のお側で仕事をされているんだから分かるでしょう」
若い騎士は少し咎めるような口調であった。
「ハッ……ああ、ああ、分かるぞ、分かるとも。ルーク卿は人一倍道具を大切に使う性格だからな」
クーゲルは仏頂面をゆるめ、鼻先にかかった髪を指で払った。
「……まあいい、1つは目的を果たせた。こちらの被害状況を見るに、
「そんなに重要な物なんですか、その瓶が」
クーゲルの手には瓶が握られていたが、瓶は凍りつき、内容物は確認できなかった。
林の中に立てられた薄暗い野営地には、ゾフを見張る騎士の他に人影はなく、ひっそりとしていた。
「クーゲルだ、入るぞ」
どうぞ中へ、という見張りの騎士の声を受け、クーゲルは他よりもいくらか小さく粗末なテントの入り口をくぐった。中では、髪も瞳も黒く、小麦色の肌をした美しい青年――ゾフが隊の荷物にもたれて座っていた。
「これはこれはクーゲル卿……と、どなたでしたっけ」
ゾフは長い睫毛をぱちくりと動かしながら、クーゲルとその部下を見上げる。
「俺はクーゲル卿の護衛、ラーベだ。君、こんな狭くて暗い所じゃなくて、外に出て焚火に当たらないと凍えて死んでしまうよ」
「大丈夫です。下層での生活で、寒いのにも暗いのにも慣れていますから」
ラーベがゾフの前に屈み、すっかり冷えた手に触れると、ゾフはそう言って若い騎士に微笑んだ。
「ところで下郎、もう騎士の大半が出ているが、貴様はいつまで閉じこもっている。魔獣の指揮をしに来たのだろう」
クーゲルはゾフを睨みつけたが、ゾフは少しも怯えた様子はなく、微笑みを崩さないまま答えた。
「レ……いえ、魔獣、モノノ怪……彼らでしたらご心配なく。黒の国を出た時に下した命令で動き続けてくれていますよ。ただ、私は身体が弱く、まともに外を歩けないので、細かい指揮は私の友に頼んであるのです」
「友達? 君は魔獣皆と友達なんじゃないの?」
ラーベは両手でゾフの手先を温めてやりながら、ゾフの顔を覗き込んだ。
「いいえ、私の友達は、ザンという賢いリュウだけです。魔獣の指揮もザンがやってくれています。多くの魔獣は彼らの言語で命令すれば、なんでも言うことは聞いてくれますが、彼らには個々の意思がないので、友人のように話すことはできません。寂しいですが」
そう言うと、ゾフは残念そうに俯いた。
「ほう、なんでも聞くのか。魔獣どもは貴様が消え失せろと命令したら、消え失せてくれるのか?」
クーゲルがゾフの長い髪を乱暴な手つきで掴む。ラーベはちょっと、と声をあげたが、クーゲルは部下の言葉には耳を貸さずそのまま無理矢理ゾフの顔を上げさせた。ゾフは一瞬眉根を寄せたが、相変わらず怯えた様子はなかった。
「彼らにとっては本望でしょうが、
ゾフは少し困った顔で笑った。
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