第3話 降り注ぐ時

 国土の大半が氷で覆われた白蓮では、比較的温暖な都周辺でしか稲作を行うことができない。そのため、都で造られる良質な酒は、豊穣や富の象徴であると同時に、厳しい気候に耐え抜く人々の身体を温め、身体を動かし、命を与える水として重用されてきた。

 薬酒の儀。それは白蓮代々の王に伝わる、薬酒作りの大術式である。その年で最も品質の良い酒を用い、滋養分が高い数十種の薬草や果実と共に王が自ら、魔術を用いて薬酒を練り上げるのだ。白蓮の民がこの先も春を迎え続けることができるよう、祈りを込めて。


 変わらぬものは変わらぬように

 春の光よ降り注げ

 氷よ溶けよ目覚めの朝に

 命を与える水となれ


 低く、高く響く歌声に呼応するように袖を振り払い、みちるは右手に宝剣を握った。そして左手に持った魔法薬の瓶を宝剣の柄に差し込み、息を深く吸い込む。

「酒よ、葉よ、果実よ、根よ……」

 満は酒樽の上へ剣をかざし、左から右へ滑らせるように動かした。その瞬間、凪いでいた酒樽の水面が、鱗のように細波さざなみ立ち、透明な飛沫を立て始めた。

 両手で宝剣を横に持ち替え、目を閉じる。手が緊張で震えているのを感じながら次の詠唱を頭の中から手繰り寄せる。

「空へと昇れ!」

 満が目を開き、宝剣を天に掲げると酒樽の中にあった酒は空中に突き上げられ、満の頭上で輪を描いた。酒の飛沫がきらきらとした光になって降り注ぐ。

「混ざり、溶け合え!」

 酒は帯のようにうねりながら、広場に集まった民たちの頭の上を掠め、祭壇上へ舞い戻る。そのまま、酒の帯は祭壇上に並ぶ材料を次々と飲み込みながら徐々に色を琥珀色へと変えていった。

「はぁ……はぁ……」

 みちるは息を切らせながら宝剣をしっかりと握り、下へとなんとか振り下ろす。酒は満の頭上で一度静止し、みるみるうちに元あった樽の中へ吸い込まれていった。

「良かった、あ……」

 安心した瞬間、ぐわんと視界が揺れる。倒れかけたが、後ろから素早く差し伸べられた腕で、満の体は支えられたようだった。

「張り切りましたな、陛下! いやはや、浮遊魔法とはいえ、あれだけ重い酒を浮かせるとは!」

 雪轟せつごが満の顔を覗き込み、笑いながら満を起こす。

「ごめん、折角の儀式だから、遠くにいる人たちにも見てもらいたくて……。雪轟、途中から手伝ってくれていたでしょう」

「やはり気づかれてしまいましたか。はは、なぁに、私が添えた魔法など、ほんの一部ですよ。私の祈りも乗って、さらに酒が美味くなってしまったかもしれませんがなぁ!」

 雪轟は得意気に顎髭を摘みながら、ふふんと鼻を鳴らした。

「何はともあれ、薬酒の儀は大成功でしたな。では、我々は下がりましょうか」

 雪轟は舞台上から白蓮の民たちに向け大きく一礼をし、舞台の裏へ踵を返した。


       ◯


「聞く所によれば、雪凪と祭りを回る約束をされていたそうではありませぬか、陛下」

 しかし、舞台の裏に雪凪せつなの姿は無かった。

「雪凪はまだ見回りに行っているのかな」

「薬酒の列に並んでいるのでしょう、此度は混雑しておりますからなぁ……」

 満はそうか、と頷き、台座に布を広げ、持っていた宝剣を丁寧に包んだ。台座の隣には動きやすい屋外着が畳まれていた。満は着ていた衣を脱いでは雪轟に渡し、いそいそと屋外着を身につけた。

「はは、そんなにお急ぎにならなくても、祭りは逃げやしませんぞ」

 雪轟は笑いながら満の服を畳んでいたが、ふいに手を止め、表へと顔を向けた。

「雪轟?」

 帯を巻きながら満は顔を上げ、雪轟の顔を見やる。

「……陛下、しばし此処でお待ちくだされ」

 雪轟はそう言うと上着を脱ぎ捨て、壁にかかった防具を背負い、弓矢を掴んで表へ駆け出した。


       ◯


 丁度、酒に満たされた二本の瓶を懐に仕舞い込んだ時であった。

「リュウだ!!モノノ怪が来たぞ!!」

 誰かがそう叫び、広場に集った人々は一斉に悲鳴を上げて逃げ惑った。

 雪凪が顔を上げると、そこには巨大なモノノ怪、リュウの姿があった。

 蝙蝠コウモリのような形状の大きな翼に、人間などたちまち平らげてしまいそうな裂けた口、皿のように大きな眼は頭の中央に縦に三つ並び、丸太のような尾を鞭のように振るっている。他の動物や生命を逸脱いつだつしたこれらの獣たちを、人々はモノノ怪と呼んだ。

 雪凪はここが山であったなら、と唇を噛んだ。人の波が肌に当たり続けるこの場所で背に担いだ大剣を抜き放つわけにはいかない。

「……逃げろ!!リュウの牙の届かぬ屋内へ向かえ!!」

 声を張り上げるが、逃げ惑う群衆に届いているかは分からなかった。リュウは人々を凝視していたが、やがて旋回し、先程まで儀式が行われていた祭壇へと近づいていった。

「まずい……、そこには陛下が」

 雪凪は人の波を掻き分け、祭壇へ一直線に進んだ。

 あたりに轟音が響く。リュウの尾が祭壇に叩きつけられ、祭壇の装飾が崩れ始めているのだった。

「陛下!!」

 一つの生き物から吐き出されるように人混みから飛び出し、雪凪は祭壇に向かって駆けた。

 リュウは祭壇へ次の一撃を放とうと身体を空中でくねらせ、再び尾を振り払おうとしている。

 その刹那、祭壇の下から一度に放たれた三本の矢が、リュウの眼、胸、翼をそれぞれ貫いた。リュウは地が震えるような雄叫びを上げ、祭壇に何度かぶつかりながら力無く地面に落下した。

「崩れるぞ!」

 後ろから飛んでくる声に、雪凪が上を見上げると、祭壇がリュウの重さに耐えられず、音を立てて崩れ落ち始めていた。瓦は捲り上がり、瓦礫が雪凪の頭上にも降り注ごうとしている。

「崩れるっつってんだろ!お前に言ってんだよ雪凪!」

 後ろから再度怒声と共に人影が飛んでくる。雹矢ひょうやだ。

 雹矢ひょうやは雪凪の襟首を掴むと、勢い良く引き寄せ、自身より一回り大きい雪凪を祭壇と逆方向に投げ飛ばした。直後、瓦礫が落ちてくる衝撃が辺りを襲った。

「……すまん、助かった」

「お前本当に周り見えてないよな……冬将軍の自覚持てよ、ちゃんと」

 雹矢は呆れた顔で雪凪の顔を一瞬覗き込み、すぐに顔を上げた。

霞風かすみかぜは連れてきた嫁さんと子供がいるから先に市街に向かって民衆を誘導してる。どうやらリュウだとかツノだとか、普段は人里に現れないデカいモノノ怪が一斉に都に向かって来てるみたいだ。辺境の村はもうめちゃくちゃだって」

「そんな」

 雪凪は驚き、眼を見開いた。雹矢は続ける。

「今、雪轟せつごさんが伝令を送って、雪の里のほうにも応援を頼んでくれてる。それまで陛下と民を守りつつ、モノノ怪をぶっ倒しまくれば祭りは再開ってワケだ」

 雹矢は自分の手袋に籠手こてを縛り付け、魔法薬の入った筒を籠手の溝に嵌め込んだ。

「魔法薬か……、補充していなかったな」

 雪凪は首に下げた短剣型の薬入れを取り出し、中を覗き込む。

「まあ、お前普段あんまり魔法使わないもんな。俺の雪花草せっかそう分けてやるよ。足場作るのに氷塊ひょうかい出せた方がいいだろ」

 そう言うと雹矢は、自分の懐から小さな包みを取り出し、雪凪に投げて渡した。

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