本が猫となる
老婆はそこまで読んで、顔を上げた。
「どうしましたか」
落ち着いたような声がかかる。見上げると司書がそこにいた。
「あの猫の王は? 巨大な蛸は?」
老婆は狼狽えながら、あたりを見回す。先ほどの喧騒はすでになく、猫星たちが漂っている部屋にいることが分かった。間違いなく先ほどいた部屋だった。
司書は困ったような顔をしていった。
「どうやら大層感情を込めて読んでいらしたのですね。そこまで読者に入れ込んでもらえるのも、本にとって本望でしょう」
「違うんです……本当に違うんです……」
しかし老婆はそれ以上何も言えなかった。ただ震えるばかりだった
しかし時がたつにつれここが現実だという実感が戻ってくる。夢を見ているときはどんなに荒唐無稽でも現実だと思い込むことが多いが、覚めてしまうと間違いなく夢だったと確信できるように。
「落ち着きましたか」
「はい……」
老婆は意図呼吸して心を落ち着けようとした。
しかしそこである疑問が浮かぶ。先ほど猫の王は本を投げてよこした。そして老婆は本を読んでその後、読書を止めた。
これは偶々本を読むのを止めたように見えるが、実は今まさに投げてよこされた本を読んでいるのではないか?
この流れる思考もただ本の羅列ではないのか。
そう言った不安がゆっくりと膨らんできた。ばかばかしいと一笑しようとしたが、胃の中にしこりのようなものがずっと残っていた。
いや、一つ出来ることがあった。ここが現実だと確証できる方法ではないが……
「あのすみません。生きた主義という情報生命体がいると聞いたのですが」
「ああ、■■■■ですね」
老婆は司書の声に空を仰いだ。
どうやらここが小説の中のようで間違いないようだ。■■■■などというどう発音すればいいのかわからないものが認識できている。
逆に老婆は安心することが出来た。自分の位置を確定できたからだ。
しかしだからと言って、危機が去ったわけではない。今まさに本を読んでいる老婆が襲われようとしているのだ。
「おっと、もしかしてあなたはここが小説の世界だとお気づきなのですね」
司書がそんなことを言う。「はい……」
「それは大変だ」
「大変なんです」
「ではお急ぎください。私には時間がありません」
「時間がない?」
「ええ、そろそろ■■■■が来るころです」
突然読んでいた本から蛸の脚が現れた。慌てて四本足で飛び上がり、蛸の脚をかわしていく。足の一本が猫星に当たって、風船のように弾き飛ばしてしまった。老婆は飛び上がって、星から星へと飛び跳ねて蛸から距離をとった。
いや待っておかしい。老婆の動きが尋常ではない。まるで猫のような……
そこで老婆は自分自身が猫になっていることに気が付いた。
馬鹿な、人間が猫の国へ入って猫になる物語は確かによくある。しかしそんな前ぶりはなかった。
「いえ、あったのです! すべてが布石だったのです!」
司書が叫んだ。しかし■■■■に飲み込まれかけている。どう見ても大丈夫ではない。それでも関係と言わんばかりに話し続ける。
「ここまでつづられた物語! それこそがあなたであったのです。この文字列! この小説が! かつてあなたは■■■■に襲われ退却を余儀なくされました。しかしあなたという名前の物語は残り、そして猫となったのです!」
にわかには受け入れがたいことだった。夫はどうなる。娘は? 老後は? しかし、自分自身が情報の羅列であるという事が無理やり頭の中で理解されていく感覚があった。そう、自分は物語であり猫だ。物語を書くのにはペンや紙もいらない。ただ想像すればいい。先ほど言った通り『夢から覚めたように』現実を受け入れていく自分を理解していった。
それはそうと今は目の前の危機から脱しなければならない。蛸の脚は本を起点にどんどん大きくなっていている。するべきことと言えば時間稼ぎぐらいしかなかった。だから時間稼ぎに本を読む。
私は足場となっている猫星を開き読み始める。
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