第27話『クロノスタシス③-回顧-』

「3年前。リョウ君は猛スピードで走る車に轢かれて、両脚中心に大けがをしたの。横断歩道を渡り始めた私を助けてくれたから」


 そう話す愛実ちゃんの両目には涙が浮かんでいて。その粒は見る見るうちに大きくなり、程なくして両頬を伝っていきました。そんな愛実ちゃんに、理沙ちゃんがハンカチを渡しました。

 愛実ちゃんを助けたから、涼我君は車に轢かれてしまった。涼我君はもちろんですが、愛実ちゃんも被害者。だから、理沙ちゃんは「あたしは事故を目撃した」と言ったのだと思います。


「中2のゴールデンウィークが明けた頃だったわ。その日の放課後も陸上部の練習があったの。ただ、顧問の先生の都合もあって、普段よりも早く練習が終わって。汗ばむほどの陽気だったから、帰りにアイスを食べにナルコへ行こうって話になったの。麻丘君や道本君も含めて、10人近くで中学から駅の方に向かって歩いていたの」

「その日、私は部活がなかったから真っ直ぐ家に帰って。ただ、課題が終わらせたときに、好きな漫画の最新巻の発売日だってことを思い出して。アニメイクに行こうと出かけたの」

「駅も近いところの横断歩道で愛実を見つけて。愛実も誘ってアイスを食べようって麻丘君や道本君と話をしてた。横断歩道を渡り始めた愛実に声を掛けようと思った瞬間、その少し先にある交差点で、赤信号なのに猛スピードで走る乗用車が視界に入って。愛実が危ないって、麻丘君は荷物を下ろして駆け出していった」

「愛実! って大声で叫ぶリョウ君の声が聞こえて。だから、その場で立ち止まっちゃって。振り返った瞬間、リョウ君は私に体当たりして突き飛ばした」

「そうしたのは、周りには車やバイクが全然いなかったからだと思う」

「……私はリョウ君のおかげで轢かれずに済んだ。でも、突き飛ばされた直後……リョウ君が目の前で車に轢かれたの」

「轢かれた後も、車は麻丘君の両脚にタイヤが乗り上げて。少し走ったところでガードレールに激突してようやく停止したの」

「そう……だったんですか」


 交通事故の話を聞くだけでも、胸が苦しくなっていきます。ただ、事故を目撃した理沙ちゃんや道本君、涼我君によって轢かれずに済んだ愛実ちゃん、車に轢かれてしまった涼我君はこれとは比にならないほどの苦しさだったのは想像に難くありません。

 事故のことを話したからか、愛実ちゃんの両目には再び涙が浮かびます。


「では、昨日……愛実ちゃんが目を見開いて私達を見ていたのは……」

「3年前の事故を思い出したから。また、リョウ君が誰かを庇ってケガをするかもしれない。苦しむかもしれないって。あおいちゃんもケガしているかもしれないって」

「そうだったんですね……」

「きっと、麻丘君がとっさに抱き寄せて庇ったのも、3年前のようにあおいを大きなケガを負わせないためだったと思うわ」

「私もそう思ってる。リョウ君の体が震えたり、鼓動が激しかったり、冷や汗が出たりしたのも3年前の事故を思い出したからだと思う」

「そうですか……」


 幸い、昨日の場合は乗用車がすぐに停止したので、ケガはおろか涼我君の体に接触すらしていませんでした。それでも、3年前と同じように、幼馴染が車に轢かれるところだった。だから、涼我君は普段とは違う様子を見せたのだと思います。


「話を3年前に戻すわ。あたしや道本君、その場にいた陸上部の部員はすぐに2人のところに駆けつけた。みんなで麻丘君の応急処置をしたり、愛実の介抱をしたりしたわ。あたしは道本君の指示もあって、救急車と警察を呼んだの」

「……リョウ君のおかげで、私は軽い打撲や擦り傷だけで済んだ。轢かれた直後、リョウ君は『愛実に大きなケガがなくて良かった』って微笑んでた。だけど、リョウ君は……両脚を中心に大けがを負って。すぐに手術して、1ヶ月以上入院したの」

「そうでしたか……」


 猛スピードで轢かれた上にタイヤに乗り上げられたのです。手術して、入院するほどのケガになるのは当然のことなのでしょう。

 あと、大けがをして痛い思いをしているのに、愛実ちゃんの体を気にして微笑むなんて。昨日も私にケガがないと分かったときに笑顔を見せていましたし、涼我君は本当に思いやりの深い優しい人です。


「ただ、リョウ君のケガは酷くて……日常生活を送ったり、授業で走ったりすることができるくらいまでには治るけど、陸上生活は送ることはできないって診断されたの」

「いわゆるドクターストップの形で、涼我君は陸上を辞めたんですね」

「ええ。事故が起きてから5日くらい経ってお見舞いに行ったとき『陸上競技を辞める。陸上部も辞める』ってあたし達に言ったわ。その後、保護者の方を通じて退部届を提出して受理された」

「そうでしたか……」


 病院から陸上生活が送れないと言われたら……競技を辞める決断をするのは納得です。中学時代のテニス部の友達も、練習中のケガが原因で競技生活が送れないとお医者さんから言われ、退部をしましたから。


「大けがをして、陸上生活を絶たれたけど、リョウ君は私達の前ではそれまでと変わらず振る舞ってた。苦しそうだったのは体が痛んだときくらい。きっと、私達にあまり心配を掛けさせたくなかったんだと思う」

「自分のケガで、陸上部の雰囲気を重いままにしたくなったのもあったと思うわ。辞めるって話したときも『医者が無理だって言うんだから仕方ない』、『普通の生活をしたり、体育の授業では走ったりできるくらいには治るみたいで良かった』って明るく言っていたし」

「……でも、私達がいるときは明るいけど、一人でいるときは泣いていたの。私一人でお見舞いに来て、その帰りに病室近くのお手洗いに寄って。もう一回、リョウ君に会いたくなって病室の前に行ったら……中からリョウ君の泣き声が聞こえて。そっと中を覗いてみたら、ベッドの上で涙を流しているリョウ君を見つけて。そのときは声を掛けずに帰ったよ」

「きっと悔しくて、やり切れない思いがあったんでしょうね」


 それまで続けていた陸上生活が突然絶たれてしまったのですから。しかも、その原因が交通事故。悔しくてたまらなかったのだと思います。


「麻丘君、部活では一生懸命練習していたからね。走るのを楽しんでいたし、道本君とは特に切磋琢磨していたから。中1のときには関東大会に出場するほどだったわ。関東大会で敗退したとき『来年は全国大会を目指すんだ』って意気込んで、より練習を頑張っていたわ。道本君をはじめとした短距離走の部員達は麻丘君に刺激を受けてた。中2になって、麻丘君に憧れて入部する後輩もいたくらい」

「短距離走のエースだったんですね」

「そうね。短距離走の部員だけじゃなくて、陸上部全体にとっても大きな存在だった」


 そんな麻丘君がかっこよかった……と言う理沙ちゃんの笑顔はとても可愛らしくて。

 涼我君、そんなに凄い選手になっていたんですね。幼稚園の頃、公園で競走したときはいつも私が勝っていたのに。きっと、たくさん走って努力をしたのでしょう。

 あと、中学の部活で楽しく走っていたと分かって嬉しいです。


「病室で泣いていたのを私が知っていることはリョウ君は知らないし、理沙ちゃんとかごく少数にしか言っていないことなの。リョウ君には言わないでほしい」

「ええ、分かりました」


 きっと、涼我君は一人だからこそ涙を流せたのだと思いますし。涼我君のためにも、このことは胸の内にしまっておきましょう。


「私を庇った結果、リョウ君は大けがをして、陸上競技も辞めることになった。そんなリョウ君に何かできることはないかって考えて、できるだけお見舞いに行ったり、歩行のリハビリを手伝ったり、遅れている分の勉強を教えたり。退院してからは松葉杖を使うリョウ君の身の回りの世話をしたりしたの。時には理沙ちゃん達も一緒に」

「春休みにアルバムを見せてもらったとき、愛実ちゃん達のおかげで予定よりも早い時期に日常生活を送れるまでに回復したって言っていましたね」


 きっと、愛実ちゃんや理沙ちゃん、道本君達の思いやりが涼我君の体を早く治したんじゃないかと思います。


「……確かに、日常生活を送ったり、体育の授業を受けたりできるくらいまでには回復したんだ」


 愛実ちゃんはどこか浮かない様子でそう言います。


「そこから何かあったんですか?」


 私がそう問いかけると、愛実ちゃんは何も言わずに首を縦に振りました。その直後に理沙ちゃんも。


「……体育の授業を受けたり、軽くジョギングしたりいいってお医者さんに言われたのは体育祭の近い時期で。体育祭の練習で100mを思いっきり走ったの。そうしたら、リョウ君は走っている途中で脚を痛めて転んじゃって」

「えっ……」

「あのときの麻丘君、とても脚を痛がっていた。そのときは筋肉の炎症だったみたいで数日ほどで治ったわ」

「ただ、それがトラウマになっちゃったみたいで。その後も普通に走るんだけど、走り終わるとほっとしたり、脚をさすったりするようになったの。事故が起きる前のような楽しく走っている姿や、走り終わったときの笑顔を今もまだ一度も見ていないの」

「そうですか……」


 また、脚が激しく痛むんじゃないか。その恐怖が涼我君の中にあるのでしょう。脚の痛み方やその際の転び方によっては、日常生活さえ送れなくなる可能性もありそうです。

 今の話を聞いて、私が引っ越してきた日……お手伝いしてもらう中、涼我君が足を滑らせて尻餅をついたときのことを思い出しました。あのとき、愛実ちゃんが涼我君の脚の様子を気にしていたのは3年前の事故だけでなく、治った後も脚が痛んだことがあったからなのでしょう。


「私のせいでリョウ君を痛い目に遭わせた。陸上生活を奪った。楽しいことを奪った。あのとき、私が横断歩道を歩いていなければ良かったんだって今でも思うよ」


 両目に大粒の涙を浮かべた状態で、愛実ちゃんはそう言ってきます。おそらく、病室で一人泣いている姿や学校で脚を痛める姿を見たから、今でも愛実ちゃんの心には涼我君への罪悪感が深く根付いているのでしょう。


「愛実ちゃんがそう思う気持ちは分かります。ただ、今の話を聞く限りでは……悪いのは涼我君を轢いた車を運転していた人だと私は思います。愛実ちゃんは悪くないと考えています。後先考えずに走り出したことや愛実ちゃんを体当たりした涼我君を批判する人はいるかもしれませんが、私は涼我君も悪いとは思いません」

「あたしも同じ考えよ、愛実」

「あおいちゃん、理沙ちゃん……」


 私が優しく頭を撫でると、愛実ちゃんの口角がほんの僅かに上がりました。

 そもそも、車を運転していた人が、交通法規に従って運転していればそんな事故が起こらずに済んだのです。


「ちなみに、犯人は?」

「犯人は60代の男。当時は酒に酔った状態で運転していたわ。駆けつけた警察官と話しているところを見たけど、顔が結構赤かったのを覚えてる」

「かなり酔っていそうですね。酒気帯び運転ですか。それなら、信号を無視したり、猛スピードで走ったりしていたのも頷けますね」

「ええ。犯人はその場で現行犯逮捕されたわ。3年近く経っているから裁判も終わって、確か……危険運転致死傷罪と酒気帯び運転で懲役13年だったかしら。だから、今は服役しているわ」

「そうですか」


 法に則った処罰が下され、現在服役しているのなら……第三者である私は犯人についてこれ以上何も言うことはありません。しっかりと罪を償ってほしいということくらい。


「愛実ちゃん。辛いことを思い出させてしまってごめんなさい。そして、3年前に何があったのかを話してくれてありがとうございます。理沙ちゃんも」


 私は愛実ちゃんの側までゆっくりと近づき、愛実ちゃんのことをそっと抱きしめました。


「いいんだよ。私達が話そうと決めて話したから」


 愛実ちゃんはそう言うと、顔を私の胸の中に埋めて、両手を私の背中へと回しました。愛実ちゃんから伝わる温もりはとても優しくて強いです。


「愛実の言う通りよ。あおいに知ってもらえて良かったって思ってる」


 理沙ちゃんは微笑みながらそう言いました。2人の反応にほっとしました。


「そう言ってくれて良かったです。話してくれてありがとうございました」


 涼我君は3年前に交通事故に遭っていたとは知っていましたが、まさか……こんなに辛いことだったなんて。庇ってもらった愛実ちゃんはもちろん、事故を目撃した理沙ちゃんや道本君も辛かったことでしょう。

 その後はお菓子を食べたり、3人とも好きなアニメを観たりして、3人での時間を楽しみました。その時間の中で理沙ちゃんはもちろん、愛実ちゃんも笑顔を見せてくれるようになりました。



 夕方頃に愛実ちゃんと理沙ちゃんは家に帰っていきました。ただ、帰っても、愛実ちゃんは2件隣の家にいるのですから、何だか不思議な気分です。

 1人になると、愛実ちゃんと理沙ちゃんが話してくれた3年前の交通事故のことを思い出してしまいます。それと同時に、


「涼我君と愛実ちゃんを元気づけることはできないのでしょうか……」


 事件の当事者や目撃者であることはおろか、調津市にすらいなかった私がそんなことを考えるのはおこがましいかもしれませんが。それでも、10年前に涼我君と一緒に1年間過ごした幼馴染の私にできることはないのか考えたいのです。

 10年前に一緒にいた頃の涼我君は楽しそうにしていることが多かったです。だから、昔のことに鍵があるような気がします。そう考え、私は本棚からアルバムを取り出し、涼我君といた頃の写真を見ることにしました。


「涼我君、可愛い……」


 今の涼我君はとてもかっこいいですが、10年前の涼我君は可愛らしさも感じられますね。キュンとします。あと、涼我君のアルバムに貼られていた写真がこのアルバムにもあるのが嬉しいです。まあ、昔は遊んだり、お出かけしたりしたときに撮った写真のデータを親同士でシェアしていましたからね。

 アルバムを見ていくと、ある1枚の写真に目が留まりました。


「……これならできるかも」


 私だからこそできそうな涼我君と愛実ちゃんを元気づける方法……見つけられた気がします。

 明日。まずは涼我君に提案してみましょう。

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